14 再会 - 高村有希子
─げっ・・・・・んげっ・・・・・ごぼっ。
有希子は胃の中身を路上へぶちまけると荒い息を吐きながら運転席のドアを閉めた。アスファルトに飛び散った吐瀉物が滝のような雨水に押し流されていく。
ブラウスに付いた胃液の染みをタオルで拭い始めたが、すぐに抛り出して頭を掻き毟った。髪房を留めたクリップが弾け飛び、ドアウィンドウにぶつかった。
雨露に曇る車窓越しに実家の青い屋根が見えた。深呼吸を繰り返して乱れた心を宥めようとしたが、賢哉の濁った眼球がいつまでも脳裏を離れない。
「んあああぁっ」
どうしても自分を抑えられない。考えなくてはいけないことが同時に幾つも押し寄せてきて、頭の中はもうぐちゃぐちゃだ。
路上の賢哉を目の当たりにした瞬間、恐怖よりも先に絶望に襲われた。
あの男はもう死んでいて、自分は殺人犯として追われることになる。一体、どこへ逃げれば良いのかと座席に貼り付いたまま我を失った。
するといきなり座り姿の賢哉が縦に裂け、その腐肉の殻を突き破りながら目の前にアイツが立ち上がってきたのだ。蛹から脱皮する巨大な蛾のようだった。
雀蜂や甲虫が発する重い羽音に嗄れた女の笑いが混ざり合った不穏な音色─。あれを聴く度に思うのだが、果たして物理的な音声なのだろうか。それとも自分の頭の中でだけ響く幻聴に過ぎないのか。
向かい合っていた一瞬だけ、周りが夜の闇に覆われて満天の星空が見えたような気もする。天の河や星雲、またそれらを遮って流れる極光の帯までたなびいて、余りの壮大さに圧倒された。つまり、この幻覚の病は益々昂じてきているということだ。
何もかもが定かではない主観の牢獄─。しかし、その中でただひとつだけ明らかなことがある。アイツは誰かが命を失う前後にその姿を現して、気味の悪い笑いと共にその死を告げる─。だからもう、これで完全に詰んだと悟った。
後はこのまま逃げ回って生きるか、諦めて警察に自首するか、あるいは自ら命を断つかという三択があるだけだ。最後の選択肢は考えられないし、ふたつめも嫌。そうなるといよいよ、亜紀子の助けを借りる他に道はない。
(腹を括らなきゃ・・・・・)
早急にやらなくてはいけないのは賢哉の生死をきちんと確かめること。その上で自分が疑われる可能性、さらに容疑者として追われるまでどれくらいの猶予が残っているのかも冷静に見極める必要がある。とにかく、この先は精一杯の知恵を振り絞らなければ─。
(さっき声を掛けてきた人、誰だろう)
やけに愛想が良い、ハーフの様な顔立ちの男だった。本当にただの通りすがりなのか。こちらの行き先を執拗に訊ねてきたし、最後には自分の名刺まで渡そうとした。まさか刑事? 追いかけては来なかったが、あの顔にも注意しなくては。
忌まわしい笑い声の残響を振り払いながら、服の汚れをまた拭う。
一体あれは何が可笑しくていつも笑っているのだろう。こちらを怖がらせたいのか? それとも嘲っているのか? いや、そのいずれも違う。そもそも、あれは愉快げな響きではない。むしろ苦しそうな感じさえする。苦悩の果ての乾いた笑いとでも言えば良いのか、耳障りな中にも複雑な想いの音色が混ざり込んでいる気がする─。最後に聞いた十八年前もそう思った。
久し振りに耳を穢されて母の死に顔を思い浮かべる。
翌日に告別式を控えた夜半過ぎ、セレモニーホールの控え室と祭壇の間を意味も無く行ったり来たりしていると、母の棺の周囲で妙な音が鳴っていることに気づいた。
パリンという何かが割れる微かな響き。ガラスの薄膜が弾けるような音だったと記憶している。訝しんで耳を澄ませると、またもパリッ、パリンと続け様に響き渡った。
すぐにアレの仕業だと思った。その出現の前兆のひとつであるオゾンのような臭気が漂っていたからだ。
用心しながら棺の御扉を開いて遺体の様子を確認してみた。
死化粧を入念に施されて、苦悶の痕跡が消え去った安らかな様子に変わりはなく、室内の主照明を落とした薄闇の中で顔の肌がぼんやりと光っていた─。
前方に濃密な気配を感じたのはその直後のことだ。恐る恐る見上げると宙空高くにアイツが浮かんでいたのだが、それは初めて目にする現れ方だった。その周囲、遺影の下に二段組で飾られた弔花の辺りを幾つもの光の球が群れるように浮遊していた。
全部で数十は飛んでいただろうか。いずれも光色は青白く、石鹸くらいの大きさ。形も完全な球体ではなく、縦長横長の楕円に歪んでいた。
それらが白菊と百合の間をフワフワと舞い飛ぶ様子は羽虫の動きにも似ていたが、螢火のように明滅するわけではなく光跡の残像も見えなかった。だからまず、肉眼に映る光ではないと疑った。
やがて群れを離れたそのひとつがすぐ眼前へ迫ってきた。そこで初めてそれが輝きを放つ小さな生首だと判った。
年老いた皺だらけの男の顔だったと記憶している。ホログラムのように透けてはおらず、生々しい肉の質感に満ちていた。鳥肌が立つほど気味が悪かった。
老人の顔はみるみる膨らむと、パリンという音を響かせて風船のように破裂した。咄嗟に身を避けて指の隙間から覗くと、四散した血飛沫は床へは届かずにそのまま空中で静止していた。
するとそれを合図に他の生首も次々と破裂し始めた。
パリン、パリン、パリン、パリン、パリン、パリン。
次々と花火のような絵を描く血肉と頭蓋骨と脳漿の破片。その現実離れした惨たらしい光景と無機質な破裂音とのアンバランスをただ震えながら凝視した。
無惨に砕け散る生首の中には、母らしき顔も混ざっていた気がする。いや、母だけではなく、他にも見識った故人の顔が幾つもあった気がする。人間の魂を噛み砕いているのだと思った。
やがて薄闇の一面を赤黒く染めていた血肉の靄はゆっくりと収斂して人影を成し、いつものアイツの姿に変じた。
物心ついてから実家を離れるまで、有希子の心を蝕み続けた悪夢の主─。それはいつも痩せ細った長い四肢に白布を纏った女の姿をして現れる。
身の丈は普通の人間の倍以上。二メートル? いや、三メートル近くはありそうだが、そもそも足が宙に浮いているので実際どれだけ大きいのかはよく判らない。そして逆風に吹かれているかのように、その足許まで届くほどの黒髪を後方へたなびかせている。
顔に目鼻はなく、大きな紅い唇が弓のように撓っているだけ。それが何かの声を発すると唇の内側まで捲れ上がり、歯とも牙ともつかぬギザギザが剥き出しになる。
あの時もアイツはけたたましく笑っていたが、やがて両腕を広げてこちらへ抱きついてきた。その瞬間、氷の海へ投げ込まれたような心地がして意識が遠のき、再び目を覚ますと朝に近い時刻だった。
バケモノの冷え切った感触が肌に甦ると、それをきっかけに過去の記憶の断片が次々と脳裏を流れ始めた。
もう四十年近くも昔のこと。母に手を引かれて幼稚園の送迎バスが停まる場所まで歩いていた時、途上の家の門前に佇むアイツの姿を見た。その家に住む老婆が寝室で首を吊っているのを発見されたのは同じ日の午後だった。
小学五年生の秋、学習塾からの帰り道に夕焼けの光の中でアイツを見た。
通りがかった屋敷の外壁に巨大な蜘蛛のようにへばりついて、長い髪を振り乱していたのだが、それから少し経った頃、そこに住んでいた中年の夫婦が突然失踪した。
数年後、夫は溺死体となって発見された。どこかの海辺に打ち上げられていたらしいが、妻の方は未だに失踪したままだ。
中学二年生の夏には、近所に住んでいたクラスメイトの女の子が轢き逃げに遭って死んだ。それから彼女の家の前を通る度、路上に面した庭先にアイツが佇んでいるのを目にするようになり、またしばらくして今度は被害者の義理の母親が逮捕された。浮気相手と共謀し、継子に保険金を掛けて轢き殺したのだ。
捜索を受けた家からは複数の嬰児の死体も発見された。犯人の継母が浮気でできた子供の処分に困り、十年以上にわたって屋根裏や軒下に隠していたというのだが、少なくともその外見はどこにでもいそうな普通の小母さんだった。
道端で何度も挨拶を交わしたし、そういう時は必ず優しい言葉を掛けてくれた。だから当時の有希子は、アイツに取り憑かれておかしくなったのだと信じ込んだ。
あのバケモノ絡みで記憶に残っている出来事はまだ幾つもある。有希子に取ってはそれほどに身近な存在だったが、最後まで慣れることはなかった。
アイツが姿を現す前には必ず異様な臭いが漂う。それは鉄や真鍮の塊が放つ金属臭、あるいは雨の降り始めや滝の近くで鼻につく大量の水の臭いにも良く似ている。イオン臭やオゾン臭と呼ばれるものだ。
出現の前兆はただそれだけ。後は夜昼の区別も無く、建物の中にも屋外にも現れる。遠くの風景の一部としてそのまま遣り過ごせる時もあれば、こちらの存在を認識して向こうから近づいてくることもある。
基本的にはカメリアニュータウンとそのごく周囲でしか見ないので、ここの土地に執着を持つオバケなのかもしれない。父が死んだ時には最後までアイツと遭わずに済んだのだが、入院先も葬儀斎場も全て黒河市から離れた場所だったので、その推測が正しいように思う。
(わたしの他にもアレが見えている人がいるのかな? )
そもそも自分には特殊な能力があるのか。つまり、俗に言う霊感の持ち主なのか。それ自体がまず疑わしい。心霊、オバケ、超常現象などそれをどう呼ぶのかは脇に置いても、アイツ以外のそうした存在を見たり感じたりした経験が一度もないからだ。
半年前、金銭に窮して引っ越したアパートの部屋も過去に自殺者を出した瑕疵物件だったが、少なくとも有希子が住んでいた間にはおかしなことは一切起きなかった。
だから、こうした記憶の総てが心の病から来る幻覚である可能性も未だに捨ててはいないのだが、たまに自分以外の第三者にもアイツの笑い声が聞こえることがあるのでそこでますます混乱する。
高校からの帰り道にアイツを見かけた時のことを思い出す。
その時は同じ方向へ帰るクラスメイトの女の子と一緒だった。一方、あのバケモノは住宅街の裏手に広がる雑木林と道路の間を漂うように行き来しながらこちらを指差して笑っていたのだが、有希子がそれに気づくのと同時に隣で自転車を押していたその子も、「森から誰かの笑い声が聞こえる」と気味悪そうに呟いた。
三日後の土曜日、彼女は渋谷にあるビルの屋上から飛び降りて死んだ。自殺の動機は判らない。最後に話した前日の放課後には、週末に彼氏と遊ぶとはしゃいでいたのだが。
有希子は深呼吸を繰り返し、ようやく意を決して車を降りた。
鉄錆が浮いた黒い門扉を開け、玄関扉の取っ手を引いてみた。動かない。インターホンを押したが応答はなかった。
古い合鍵を使うと扉が開いた。玄関内の三和土にはパンプスやサンダル、スニーカーなどが乱雑に置かれていた。
屋内まで響く雨音に混じり、別の水音が聞こえてきた。真っ直ぐな廊下の途中にある浴室のドアが開き、全裸の亜紀子が廊下に現れた。こちらを見るなり動きが止まる。
「あ・・・・・」
「た、ただいま。久し振り」
おずおずと声を掛けると、濡れ髪を拭いていたタオルが床へ落ちた。姉は目を剥いたまま一言も発しない。屋根を打つ雨の音を聞きながらしばらく無言で向かい合った。
「どうしたの?」
「あ・・・・・」
強張った唇が発しかけた声をまた飲み込む。電話での会話を真に受けて犯罪者の妹が本当にやって来たので、この期に及んで狼狽えているのか。
「やっぱり、迷惑だった? 」
上目遣いに問うと姉は首を横に振り、ようやく声を絞り出した。
「あんた、今までどこに・・・・・」
「だから昔、みんなでよく行った妙高のスキー場の近くの─」
「・・・・・」
「昨日の夜、話したじゃない」
「昨日・・・・・夜・・・・・」
目の前が暗くなる。一縷の望みを賭けてここまで来たが、無駄足か・・・・・。いや、まだ望みはある。きっと、昔のように妹をからかっているつもりなのだ。そうに違いない。
姉の言葉を待ちながら溜息が漏れた。まるで二十歳前後の女のように肌全体が滑らかに煌めいている。本当に自分より五歳も年上なのか。しばらく忘れていた嫉妬の念が急に頭をもたげてきた。
長い間が過ぎ、やがて亜紀子は何かを合点したように独り頷く。その眼差しに妙な光が宿るのを有希子は見逃さなかった。
(何よ・・・・・)
「おかえり、有希子」
一転して、満面の笑みを湛えた裸身が大股で近づいてきた。
「ちょっと、姉さんっ。お願いだから何か着て」
「うっ─」
亜紀子は足を留め、眉を顰める。
「─何の臭い? 」
「家の前でゲロ吐いちゃった。ごめん」
「すぐにシャワー浴びなさい。着替えは? 」
「ない」
「用意しとくわ。お腹空いてるなら食べる物もあるから」
濡れた両手が有希子の頬を包み込む。十年前の別れ際と同じだ。わたしの原点、というあの時の謎めいた一言は一体どういう意味だったのか。
ここでまた同じ言葉を吐かれたら嫌だ・・・・・。
耳朶に触れるほど近づいた唇が柔らかく囁いた。
「おかえり、有希子。帰ってきてくれて凄く嬉しいわ」
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