10 神嶺薩貴子 昭和五十五年五月
「おまえのオンナ」
「えっ」
「何て名だっけ。あ、そう。ウエハラハルミ」
「・・・・・それは、ちっ、ちがっ」
「何が違うんだよ」
神嶺薩貴子はげらげらと笑い、長い細巻きの煙を真上へ吹き上げた。
初夏の青空を綿雲が流れていく。車内からすぐに傘を取って来させて強い日差しを避けたいが、それを命じる相手は我が身の下にいる。日除けが先か、それともこのままお仕置きを続けるか。
「同郷なの? 」
容赦なく腰を下ろした四ん這いの背へ問いかけると、宮里寿義は小刻みに震え始めた。強張った両手が草混じりの土を掴む。
絹手袋の二指で煙草を構え、宮里の表情を斜めに覗き込む。汗だくで地面を睨む顔先へ朦々とした煙を吹きかけて、咳き込む様子を見てまた笑う。
半身を逆に傾けてスラックスのファスナーを下ろし、だらけた男根を直に握り締めた。
「ううっ」
「もうコレ、挿し込んだの? 」
「ごっ、誤解っ」
「だから、何がよ。そのオンナはおまえらが好きなウチナーンチュ仲間じゃないの? それとも、このタニはまだ使ってないってこと? 」
「ど、どっ、どうかっ・・・・・」
「あははははははは。許すわけないじゃん。わたし、嘘吐かれるのが一番嫌いなの。自分は吐いても他人には絶対、吐かせない。今まで吐いた奴らはみんな殺したし」
吸いさしを二指に挟んだまま、宮里の後ろ髪を掴み上げる。
「あぢいっ」
「おまえ、付き合ってるオンナはいないって言ったよね」
「スイマセン・・・・・ゴメンナサイィ・・・・・」
「認めるのね」
「ハイ・・・・・」
「今回だけは大目に見てあげる。でも、その代わりにハルミを生き腐れにする」
「ヒイッ。ヒッ。ヒ・・・・・」
悲壮な声が過呼吸に転じた。人間椅子が激しく揺らぐ。
「あはははっ。ほら、耐えて。潰れたらコレも引き抜くよ」
薩貴子はいたぶりの手を止めぬまま、遠くの農道を来る車影へ目を移した。やがて路幅を占拠してリムジンが駐まり、複数の男たちが降りてきた。先頭に立つのは城田興二郎。そのすぐ背後を側近の秘書が続き、護衛も二人付けている。
低い草が茂る敷地へ踏み込むと、城田はいったん足を留めた。靴底が沈む。休耕地か。
目を細めて四方を見回す。北から西は未開発の丘陵。南から東へかけては主に田畑が広がり、小さな工場や倉庫と覚しき建物も点在している。平坦な地形が続く南の彼方には私鉄の駅を含む市街地も窺えた。
「バスは? 」
秘書がファイルを開く。
「一番近い停留所は三百メートルほど先ある国道沿いですね。黒河駅と城西駅を結ぶ路線で、主な利用者は城西にある工業団地の住人となっています。本数は少ないですが、今のところ廃線の心配はありません」
「地番をもう一度」
「黒河市黒河字椿原一五番」
「字か」
「昔、同じ名の村があった地区です。大正時代に当時の黒河町へ編入されて─」
「そういう細かい話はイイ。区分はどうだ? 二種か? 」
「ええ、第二種農地です。何れの田畑も個人所有で、上の繁みの一帯もそのうちの一軒が持っています。その持ち主たちの意向を除けば特段、障害は見当たりません」
城田は頷き、また歩き出す。野原の奥まで直に乗り入れたセダンの傍らでふたつの人影が何をしているのかが判るにつれて、浮かぬ気分がさらに重苦しくなった。
「何てザマだ」
這いつくばった男の背上で漆黒の魔女が紫煙を燻らせている。思わず睨みつけると笑いながらそっぽを向いた。
「立て! 」
宮里は絞り出すように「はい」と呻いたが、肝腎の薩貴子はまだ動かない。
「貴重な時間を割いてるんだ。おふざけのつもりなら─」
「あっち」
黒い絹地の指先が目前の雑木林を差した。
「二人だけで話しましょ」
レース模様の裾を翻し、薩貴子はようやくスーツの背を離れた。
城田は躊躇いつつも部下たちをその場に留めた。宮里も立ち上がり、よろけながら服を整えると、魂が抜けた顔付きでセンチュリーの運転席へ消えていく。
薩貴子はいつの間にか一人で歩き始めている。慌ててその隣へ並んだ。
「少しは弁えろ」
「レジャーチェアを忘れたの」
「俺の面子を─」
「わたしの方があんたより上だって、みんなに伝えておきなさいよ」
先に立つ薩貴子は太腿も露わに服裾を翻し、辛うじて道筋の付いた斜面を半ば浮くかのように登っていく。地を舞う巨大な黒揚羽のようだ。
(パンプス履きでどうやって・・・・・)
城田は肩で息をしながら懸命に後を追う。
「早く」
足を休めぬまま薩貴子が振り返った。
「貴重な時間なんでしょ? 」
「おい、待て。どこまで行くっ」
叫んで間もなく、黒い影は唐突に立ち止まり、すぐ傍らの下草に覆われた辺りを指し示した。額の汗を拭いながら目を遣ると、半ば土に埋もれた石塊が見えた。
灰色の石質で造られた、四角い墓板に似た何か。両腕に抱えて少し余るほどの大きさで、泥に塗れた表面は風化している。かなり古そうな石造物だった。
「それは? 」
「人が住んじゃダメだっていう目印。まだまだいっぱい、そこらじゅうに置かれてる」
「住むとどうなる? 」
「あっちの世界にマブリを喰われるわ」
「マブリ? ああ、魂のことか」
「もっともこのままの状態なら、向こうもすこぉーしずつ囓り取るのが関の山だから、大したことは起きないけどね。不運続きで飢え死にしたり、そうでなくても早死にしたり、急に頭がおかしくなったり、たまに大勢で殺し合ったり。まあ、その程度」
「呪われた土地か」
「呪い? 違うわよ。人が住むとその欲や悪念があっちへ作用して、良くないことが起きるってだけ。だから、呪いじゃなくて自業自得」
息切れの苦しさに気を取られ、話が頭に入ってこない。これ以上、奥へ進まぬことを願いながら、草木の枝越しに薩貴子を垣間見た。
本当の生年月日は知らないが、少なくとも四十は越えているはずだ。それなのに初めて会った頃から容姿が変わらない。身のこなしの軽さも同様だ。ただしよくよく目を凝らせば、輝くばかりの美貌の陰に微かな老いの侵食も見て取れる。
かつては毎晩狂ったように貪り抱いて、この女の肉体の隅々まで知り尽くしている城田にはそのほんの微かな差違が判った。また、そこに気づいて少しだけ救われた。
(このバケモノもいつかは死ぬ)
「島へ帰る」と言い残し、姿を消したのが五年前。生まれ育った奄美の離れ小島を丸ごと買い占めるほどの豪邸を新築し、暫くはそこで暮らしていたようだ。だが、そこまでへ至る心境や意図は判らない。いなくなって間もなくの頃には内偵も試みたのだが、仕事を依頼した業者が不審な死に方をしたので中止した。
その際、わずかに得られた情報はいずれも不穏な内容だった。中でも一番の気懸かりは、薩貴子が向こうで何かの組織を作って大勢の人間を集めていたということだ。実態は未だに不明だが、今年の春にまた突然、当人が東京へ舞い戻ってからは取りあえず身辺に配下がいる気配は窺えない。
そのうちに身の回りの世話をしてくれる男が欲しいと言われ、本社総務の若手を抜擢して言い含めた上で薩貴子に付けてみた。
(似た境遇の合いの子同士で意気投合するかと思ったんだが・・・・・)
この様子では宮里が壊れるのは時間の問題。替わりの宛てがいを用意しなくては。
藪を離れた城田は薩貴子を正面から見据えた。
「─仮にここを住宅地に変えたとして、それで俺に何の得がある? 」
「もっとデカくなりたいんでしょ? 国の経済、牛耳るくらいにさ。だったら、大人しく言うこと聞きなさいよ」
「どうやって? 」
「この場の力を使うのよ。生贄を捧げて願いを叶えてもらうの」
「それは今までと違うことなのか? 」
「まず、規模が違うわね。ここにいるのは本当に途轍もないモノだから」
「おい、待て。土地の値段は二束三文でも、開発を含めた金の調達はどうする? そもそもこんな僻地に建つ家を一体、誰が買う? 」
塑像のような美貌から一瞬、笑みが失せた。
相手の目の変化に気を配りながら、城田は慎重に後退った。薫森雅美の死に様が性懲りもなく頭を過ぎる。怒りと怖れを噛み殺していると忍び笑いが漏れてきた。
「ふふふ。あの女のこと、思い出してる? 」
「・・・・・」
「何よ、その顔。感謝の気持ちはないの? 」
「感謝? 」
「あの時もあんたの商売敵、まとめて呪い殺してあげるって言ったら、今みたいに抵抗したよね。さすがにそこまでは無理だろうとか、尻尾を掴まれたらどうするとか、くだらないご託を並べてさ。だから、納得させるために実例を見せたのよ。そのお陰でようやく決断できて、今のその地位があるわけでしょう? 」
「雅美を選んだのは何故だ」
「何故って。また蒸し返す? まあ、良いわ・・・・・それなりに身に堪えないとわたしの話を聞かないって思ったのよ。だったら、あんたの身内で実例を見せるのが一番だって。
でも、奥さんや息子じゃさすがに可哀想だから、代わりにあの女を選んだの。たかが秘書上がりの愛人にそこまで入れ込んでたって知らなかったし」
「貴様─」
「何? 」
紅い唇を弓なりに釣り上げた凄まじい笑顔が近づいてきた。睫毛に翳る緑の双眸の奥に本来の虹彩の色とは異なる青い炎が燃えている。怒りも沽券もすぐに吹き飛んだ
「よ、止せっ」
「まさか。やらないわよ」
そのまま無言で睨み合う合う格好になった。額から冷や汗が滴り落ちる。城田は相手の瞳の火炎が鎮まるのを待ち、やっとのことで声を絞り出した。
「と・・・・・取引の基本は互いの信頼だ。そういう脅しじゃなく、言葉で俺を納得させろ」
「ご立派な台詞ね。表稼業が板に付いてきた感じ」
「どうなんだ」
「頭で完全に理解するのは無理。こればかりは見えないとどうしようもないことだから」
「それでも説明してくれ。その途轍もないモノっていうのは具体的に何なんだ。そいつがこの土の下に埋まってるってことか」
「そうじゃない。さっき話したあっちの世界とわたしたちがいるこっちの世界、ここはその二つの世界の座標がピッタリと重なり合っている場所なの」
「座標? 」
「土地の因縁がどうとか、ここは聖地だとか御神域だとか、世間じゃそういうことをよく言うわよね。でも、それって大抵は人の思い込みに過ぎないし、仮に何かがあったとしても、そこの土地自体に強い力はないの。
せいぜいが特殊な地形や地磁気の流れが人の心に影響を及ぼす程度かしら。仮にそんな力を利用したところで結果は高が知れてるわ。
わたしが言っているのはそういうちゃちな話とは違って、物質の世界とそうじゃない世界がお互い直に繋がり合っている、とても珍しい場所のこと」
「それがここだと? 」
薩貴子は深く頷く。
「ただ、そういうのって普通は世界のあちこちを彷徨いながら自然に現れたり、消えたりする気まぐれなモノのはずなのよ。南極の果てに出てきたかと思えば、次の瞬間には月や火星の裏側へ移動してみたりね。それなのに何故だかコレはじっと動かずに、何万年もここに留まっていたわけ。もしかしたら、誰かに見つけられるのを待っていたのかも」
相変わらず雲を掴むような言葉の羅列が続く。そしてどこまでも邪悪で貪婪さも隠さない。この女はいつもこうだ。間合いを保ちながら恐る恐る食い下がる。
「一体ここには何がいるんだ。この世に恨みを残す亡者の群れか? 」
「違う」
「じゃあ、何かの神とか魔物とか」
「まあまあ、当たり」
「どっちだ」
「神も魔物も根は同じ。現れ方が違うだけ」
「とにかく、余程の力がある奴なんだな? 」
「そう。神も魔もひっくるめてそいつらの親玉みたいな存在。ううーん、って言うかねえ、あっちの世界そのものの化身─」
黒袖のしなやかな両腕が城田の首に巻き付いた。木陰の湿土が発する黴臭さと甘い体臭が混ざり合い、鼻腔の奥深くまで押し寄せてくる。幻覚めいた眩暈に襲われながら、妖女の半身を無意識に抱き寄せた。
(久し振りだ・・・・・)
細身の肢体とは不釣り合いな蕩けるばかりの肉感を確かめる。指先が服布を通り越し、そのまま脂肉に吸い込まれる心地がする。神嶺薩貴子を抱くたびに必ず生じる不可思議な感覚に忌まわしさも忘れて陶然となった。
この女との因縁をきっかけに城田の運命は劇変を遂げた。もしその出会いがなかったら、産廃と管理売春で細々凌ぐ田舎町の企業舎弟で終わっていたはずだ。
唯一の問題はこの神懸かりの運を授けてくれたのが、女神ではなく魔女だったということ。しかも、凄まじくタチの悪い魔女だ。
「─納得した? 」
「要はこの場所でまた新しいマジナイをやるわけか」
「そう」
「宅地にする理由は? 」
「馬鹿がわらわら寄ってくる、効率的な餌場にするのよ。ここに生贄の自動供給システムを作りましょうってこと」
「特別な土地とはとても思えんが」
「後で少しだけ見せてあげる」
城田の胸に預けていた顔が上がり、すぐ間近から射竦めてきた。背筋にまた緊張が走る。
「どんなくだらないことにも《意味》をこじつけて、死ぬまで幻を紡いでいくのが人の一生。嬉しいとか悲しいとか、好きとか嫌いとか、大切にしたいとか殺してやりたいとかね。で、あっちの世界はその《意味》っていうゴミ屑の山を喰い散らかしながら際限なく広がって、終いには意識を持つのよ。それが神や魔って呼ばれるモノ」
「それと人の魂がどう繋がる」
「マブリには《意味》の種が詰まっていて、人がオギャーって生まれた後、この世に自分がいるって錯覚し始めると、その瞬間に種が芽吹いて際限なく伸び広がっていく仕組みになってるの。だから、アイツらは何よりもそれを食べたがる。《意味》の栄養の塊だから。
でもね、その時に肝腎の座標が的を射てないと思うように動けない。あっちとこっちの壁が厚くて好き勝手に貪れないのよ」
「ここではそれが自由にできると? 」
「うふふ。ようやく話に乗ってきたわね─。
そこでね、初めは手に入りやすいマブリをたらふく喰わせて向こうの気を惹くの。言ってみれば撒き餌みたいなものね。それで巧く招き寄せたら、今度はもう少しマシな奴らを喰わせて、ああ、ここには美味しいゴハンがいっぱいあるって解らせてあげる。
で、そのうちに味をしめて、もっともっと欲しくなって、そのために必要な力をわたしたちに授けてくれるわけ」
「わたしたち? おまえだけに、じゃないのか? 」
「宅地を造って売るのはあんただから、それで斎主としての体裁が調う。術士はわたし、祈願の主はあんた。これまでと変わらない」
「マシな奴ら・・・・・つまり、そりゃ中流以上の世帯ってことか」
「そう。自分は他より恵まれてる。生まれ育ちが良い、見映えが良い、頭が良くて難しいことも考えられて、そこそこの学歴や地位や金もある─。そういうちっちゃい優越感を心の支えに生きてる連中を、できるだけ沢山ここへ集めるのよ。そしてそいつらのシアワセを丸ごと奪い取っちゃうの。
マブリを囓られておかしくなった奴らは外へも身の災いを運んでいくから、そこにまた新しい餌場が広がって、向こうはその分、余計にご褒美をくれる。それが軌道に乗り始めたら、それこそ天を目指して登りつめるわよ。
だからね、人生諦めた貧乏人なんかには逆立ちしても住めない場所にしなきゃダメ。奪うシアワセの量が多くなきゃ意味がないことなんだから」
「この立地じゃ到底、無理だ」
「そこを算段するのもあんたの仕事じゃないの。得意の嘘八百を並べ立てて、残らず奴らに売り飛ばしなさい─」
絹地に覆われた掌が城田の頬を包み込んだ。薩貴子はひときわ妖しく笑う。
艶めく唇に誘われた刹那、その首筋に豆粒大の黒い隆起が見えた。この女、こんな所に大きなホクロなどあっただろうか。
思う間もなく口を塞がれた。ぬめった舌先が大胆に蠢き、忽ち口中の粘膜が痺れる。錆びかけていた牡の本能が痛いほどに甦り、城田は自制も効かず勃起した。
昔のように首を絞めながら、このまま枯葉の上へ押し倒したい。肉と肉とが擦れ合うたびに火花が散る感覚も懐かしい。他の女では決して味わえない、脳髄が蕩けるあの媾合にまたどっぷりと浸りたい─。
「お・あ・ず・け」
滾る城田を取り残し、薩貴子はふわりと身を離した。
「─あんたの会社はまだまだどこまでもデカくなって、そのうちにこの国を丸ごと喰えるようになるわ。先に甘い汁を吸いまくってきた奴らが当然、邪魔してくるだろうけど、そいつらも纏めて喰っちゃいなさい。喰う側も喰われる側も全部残さず平らげるの。喰って、奪って、喰らいまくって、何もかも噛み砕いて飲み尽くしてやるのよ」
滔々と語るその全身が鬼火を纏っているように見えた。こうなった薩貴子はもう止められない。それでもごねれば命を失う。せめて話の裏付けの欠片でも得たいと、城田は怖ず怖ず訊ねてみた。
「・・・・・くどいのは承知だが、ここにいるっていうその途轍もないモノ。そいつの名をはっきりと教えてくれ。もしかして、今まで名付けられたことがないようなモノか? 」
「ううん、逆に数え切れないほど沢山の名が付いてるわ。生贄を欲しがる神様って世界中に掃いて捨てるほどいるけれど、根っこはみんな似たようなモノだから」
「結局、そこへ戻るのか。試しにひとつだけでも挙げてくれ」
なおも食い下がると薩貴子は煩わしげに顔を歪めた。
「やけに拘るのね。ずっとわたし任せで来たくせに」
「ここまで育てた会社の命運を、名も知らぬ相手に抛てと? 」
「うーん、例えばね・・・・・」
「おう」
「わたしのご先祖様が住んでいた中国の南の方では稜睁鬼、烏夜七頭神、壇羅公─」
「リョ、リョウセイキ? ウヤ? タンラ? 」
「─チベットやインドならラークシャサにラークシャシー。パルデンラモとかダーキニーとかマハーカーラ」
「どれも知らん」
「最後のは大黒天よ」
「おい、そりゃ宝船に乗ってる野郎じゃないか。寺や神社に祀られて有り難がられているもんだろうが。よりによって─」
「だからぁ」
「神と魔物は表裏一体」
「解ってきたじゃない。名前はまだまだあるわよ」
「教えてくれ」
「ホノイカズチにヨモツシコメ、それからマガツヒノカミとかね─。
うふふ、マガツヒノカミって良い響きでしょ。大黒天は夜の神だけどそれはその昼の顔。この世の罪、穢れが凝り固まって生まれたモノなのに、見た目は朝焼けの空みたいに澄んでいて、いつもキラキラと輝いてるの。そりゃあもう綺麗なんだから。
生半可な呪い師は出鱈目な方法でそういう魔物を必死に呼び出して、たまーにまぐれで降ろせることもあるけれど、それでも長くは留めておけなくてすぐにアッチへ返しちゃう。
でも、ここは違う。だってアッチと直に繋がっているんだもの。わたしの役目はその出入り口の戸を開けたり閉めたり手加減するだけ。要領を掴めば楽勝よ。
じゃあそろそろ、興二郎ちゃん・・・・・」
切れ長の瞳の奥に再び青い炎が立ち上る。
「だ、だから、止せって!」
城田は咄嗟に顔を背けた。腐れた葉の上に膝を突き、伏せた頭を両手で抱え込む。
目を緊く閉じてもなお、瞼の裏に同じ炎が燃えていた。広がる火焔に頭を焼かれると思い、髪を掻き毟って転げ回る。
「あっ。あっ。あっ。あっ」
「うふふ。馬鹿ね。高価いスーツ、泥まみれにして。ちょっとの間、見せるだけなのに」
「い、いっ、要らんっ。御免だっ」
「何、怖がってんのよ。ここであんたを潰すわけないでしょ」
腹の下の地面が揺れている。地震か。飛び退って身を起こすと辺りはいつの間にか一変し、常軌を逸した光が溢れていた。眩暈と頭痛に襲われてまた膝を屈する。
「ううっ・・・・・」
濡れた朽ち葉と乾いた砂粒─。ふたつの異なる感触が同時に掌へ伝わってきた。
ストロボの閃光が永続するような余りにも眩しすぎる視界。それなのに網膜を灼かれることもなく、周囲がはっきりと見渡せる。
「何だ、こりゃ」
城田は目を擦った。山鳥が囀っていた樹林の風景と重なって無限の流砂が広がっている。
右も左も前も後ろも同じ。あらゆるものが二重写し。しかも両方とも実在している。間近な木の幹に触れることできるし、足許の白茶けた砂も掴み取れる。
有り得ない感覚に狼狽えながら、薩貴子の姿を探し回った。
「おい、何処だ! 何処にいる!」
砂漠の遙か彼方には地平線が見えなかった。赤い光が層を成す、晩秋の夕焼けのように暈けながらそのまま天空と繋がっている。
「あつっ」
肌を焦がす熱風が腐れ木の放つ澱んだ空気を吹き飛ばした。強烈な金属臭が鼻を衝き、虚空に充満した謎の振動が内臓にまで響き渡る。
砂上のそこかしこから光の渦巻きが空高く噴き上がり始めた。その渦中で得体の知れぬ影が踊り狂い、身の毛のよだつ音色を掻き鳴らす。
─ギチギチギチギチギチギチギチ・・・・・。
虫の大群を思わせる蠢動。振動と風に煽られた木立ちのざわめき。繁みの先の国道を走るトラックの騒音。突如、響き渡ったけたたましい笑い声が遠いジェット機の音を掻き消す─。これは幻覚か、それとも現実なのか。
人とも獣ともつかぬ哄笑と間延びしたカラスの鳴き声が左右から同時に耳へ届き、それに被せて時報のサイレンも鳴り響く。たじろぎ、後退る身に向かって、目に見えぬ何者かの圧力が出鱈目にぶつかってくる。幾度も繰り返し弄ぶように。
頭を叩かれ、尻を打たれて、立っていることすら叶わない。
まともな五官が崩壊し、胃の腑から苦い水が込み上げる。暑さと吐き気に耐えられず、ネクタイを引き抜いて大の字に倒れた。後はひたすら呻吟を繰り返す。
「あ・・・・・ああああっ・・・・・ああああああ」
巨大な虹の帯が螺旋を描き、色のない無窮に遊んでいた。他にも無数の何かが浮いている。何もかも果てが無い。恐ろし過ぎて気が遠くなる。これ以上は一秒も耐えられない。
「もう沢山だっ。戻してくれっ。頼む!」
「この際だから良く味わいなさいよ。ここの力の源を」
薩貴子の声が聞こえてきた。
「幻で誑かす気か! 」
「そう思う? 」
「じゃあ、全部本物だって言うのかっ」
「本物、偽物。幻、現実。そんなのどっちでも良いじゃない。大事なのはここが今こうなっていて、あんたもその中にいるってこと」
「これがおまえの見ている世界・・・・・」
頷くように大気が震えた。
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