7 黒河市街 - 高村有希子
「帰って来ちゃった。一番来たくなかった場所に」
眠気を噛み殺し、慎重にハンドルを捌きながら有希子はぼんやりと呟く。
黒河市と記された青白の標識が車窓の傍らを流れていくのが見えた。久し振りに目にした国道沿いの街並みは、相も変わらず無個性で殺伐としている。
コンビニ、スーパー、ドラッグストアにチェーンの飲食店、あるいは家電やら衣料品やらの量販店が建ち並ぶこの光景は物心がついた頃からほとんど変わっていない。
その中で唯一目に留まった変化といえば、櫛の歯がまばらに抜け落ちたかのように路面の建物群に空白が目立つこと。さらに仔細に目を凝らせば、中高時代に通っていた進学塾が入っていたビルは半ば廃墟のような有様と化し、その出入り口には板が張られていた。また、塾帰りによく立ち寄った数軒先のファミレスもいつの間にか空きテナントになっている。
「前に帰った時にはまだあったのに・・・・・」
ファミレスが撤退した後にはラーメン屋が入居していたようだ。ガラス張りの伽藍堂と化した店舗跡の手前にその看板と幟旗が残っていた。
さらにその先には近隣でただひとつの大型書店も営業していたのだが、そこは上物ごと壊されて時間貸しの駐車場に変わっている。
市の人口は年々着実に減少しているらしい。昼の最中のこの時刻でも舗道に人影はあまり見られない。死にかけた街を行き過ぎているような寂寞とした感情に囚われた。
赤信号で停まると喪服の一団が横断歩道を渡り始めた。
いずれも漆黒のドレスに身を包んだ年配の女が五人、縦一列に並んでゆっくりと通り過ぎていく。
黒い日傘を差していた最後尾の老女と目が合った。その翳った顔に微笑みかけられたような気がした。静かに目を反らす。
(あそこのお寺かな? )
それは黒河駅近くの一角に広大な境内を有する寺院で、父よりも十年早く亡くなった母の通夜と告別式はその場所で執り行った。黒河市には公営斎場がなく、セレモニーホールが併設されたその寺が地元の弔事に利用されることが多い。
白い花に囲まれて横たわる母の姿を久し振りに思い出し、知らず過去の記憶の流れに迷い込んだ。
9・11が起きた年、都内の私大への進学を機に有希子は独り暮らしを始めた。以来、年に一、二度ほど帰省した他は再び実家で暮らすことはなかった。最後に戻ったのはおよそ七年前、父が急病に倒れて亡くなった時だ。
(パパには悪いけど、ママが死んだ時の方がショックだった・・・・・)
母が自宅近くの雑木林で縊死したことを報されたのは、さらに遡る大学二年の秋のこと。
遺書の類いを残さなかったので自殺の原因は未だに不明だが、五十代に差し掛かった辺りから更年期障害の不定愁訴に悩み、城西市内の病院へ通っていたことは有希子も知っていた。
母は昔からとても寡黙な人だった。誰かに悩みを話すようなことは一切無かったと記憶している。残された父からも「暫く前から鬱の症状が出ていた」と説明されただけで、葬儀の準備をしている最中にも、直前までそんな兆候は見えなかったと涙目で繰り返すだけだった。自ら死を選ぶに至るまでに一体、何があったのだろうか。今となってはそれすらも判らない。
大きな交差点で四車線路を離れ、黒河市の真ん中を南北を貫く県道へ移る。
国道沿いとは対照的に再開発から長らく取り残されている駅前を通り過ぎ、ほぼ手付かずの丘陵地まで続く市内の深部へ分け入っていく。このまま道沿いに少し走り、さらにそこから分かれる市道を2キロほど進んだ先が、有希子の実家がある地域だ。
道幅が狭くなるにつれて人家の数も目に見えて減り、代わりに田畑と雑木林の情景が現れた。目前の鄙びた景色からは想像し難いが、この先にはそれなりの戸数を擁した新興住宅地が控えている。
昭和のバブル直前の頃に都心通勤圏の触れ込みで分譲されたベッドタウンだが、実際に電車を使って通うとなれば今でも優に一時間以上を要する。加えて駅までのバス路線も廃止されて久しく、自家用車無しではとても暮らせない。
時代に取り残された陸の孤島。利便性の悪さと高齢化で住人の数が減り続けているので、最近流行りの限界住宅地という呼び方も当て嵌まる。それが有希子が生まれ育ったカメリアニュータウンという地域だ。
カメリアの呼称はその区域の名に由来しているのだが、付近に野生の椿の自生地などはない。ただし、すぐ近くには椿原の名を冠する古寂びた神社もあり、昔ながらに伝わる地名であることだけは確かなようだ。
中学の授業で教えられた郷土史に拠れば、元々この辺りは広大な湿地でそれを江戸時代の初めに農地として埋め立てたのが、人が住む土地としての椿原地区の発祥らしい。その説明を裏付けるように、緩やかな斜面に戸建てが建ち並ぶ現地の丘陵の裏側には本来の地形の名残りである小さな沼地が今もわずかに点在している。
「椿の木がないのに椿原。先の望みもないのに有・希・子─」
ふと頭に浮かんだくだらないフレーズに虚しく笑う。この五日間の捨て鉢な感情とひりつくような緊張感がほんの少しだけ薄らいでいるようだ。
以前は不安と厭わしさが先立つ家路だった。それが今はこの世にひとつだけ残された魂の拠り所のようにも感じられる。
理屈を越えた恐ろしいことが起きる場所。だが、自分を受け容れてくれる場所はもうあそこにしかない。亡き父母の優しい面影とその許で不自由なく暮らせていた頃の想い出が甦り、終いには涙が止まらなくなった。
この失墜の人生も、やはりあの場所の力が影響していることなのか? もしそうだとしたら、こうしてまた立ち戻ったことで決定的な破滅がもたらされはしないか─。そこまで考えて泣きながらまた笑う。
(破滅? もうしてるし。だから、前ほどは怖くない)
電話での姉は「今はもうほとんど働いてないの」と言いながらも、余裕のある境遇を匂わせていた。父の遺産のうちの彼女の取り分がまだ残っているのかもしれないし、それを投資へ回していることも考えられる。
父の入院先で再会した際にも、「客に教えてもらった株で遊んで」都心に中古マンションを買った話を聞かされた。学歴こそないが地頭は頗る良いし、生まれつきの容姿の出来も自分とは比べものにならない。あれで人として少しでもまともだったら、昼間の社会でもかなり上手くやれたのではないか。
ともかく姉は吝嗇な質ではない。それどころか異常だと感じるくらい気前が良い。だから「纏まったお金を貸して欲しい」と率直な言葉で頼み込めば、さして案ずることもなく話が済むのではないか。
ひとつ屋根の下で暮らしていた頃も亜紀子からは様々なモノをもらった。未だ幼かった時分には人形やぬいぐるみなどの玩具、また長じては服や靴にアクセサリー、果てはヘアケアやコスメのグッズに至るまで、有希子の身の回りのあらゆる品々が姉のお下がりで埋め尽くされていた時期もあった。
しかもそのほとんどは彼女が当時付き合っていた男たちから貢がれた高価なブランド品で、「はい、プレゼント」と笑いながらそれらを放り投げるように寄越してきた。
女としての魅力に満ち溢れた姉へ対する嫉妬心よりも目先の物欲がわずかに勝り、大抵は断ることなく受け取っていたのだが、向こうにすれば不要品を処分するゴミ箱に過ぎなかったのではないか。
あらためて思い起こしてみると、逆に有希子から亜紀子の手へ渡ったモノといえば学生時代に付き合っていた男くらいだ。ただし、あれは姉に恋人を紹介したこちらの落ち度だ。あの頃はまだ血を分けた妹の贔屓目で亜紀子という女を甘く見ていた。
雑木林が迫る目前のT字路から脇道へ入る。最後の真っ直ぐな一本道に至るとモザイク状に散りばめられた数百の家々の屋根が見えてきた。
(それにしても姉さんは、どうしてここへ戻ったんだろう)
父の葬儀を終えた翌日の昼過ぎに突然、引っ越し業者のトラックがやって来た。そこで初めて亜紀子の口から実家に住む旨を聞かされた。
どうして急に戻るのかと訊ねると、「この家はあたしの原点だから」と姉は耳許へ囁いてきた。あの時の笑顔、あの仕草、あの言葉・・・・・あれらは一体どういう意味だったのか。
「えっ」
涙を拭いながら前方に目を凝らす。フロント越しの滲んだ視界、その先に何かがある。
初めは黒っぽい土塊の山だと思った。
減速してさらに近づく。
違う。路上で誰かが正座している。
刈り上げの短髪。肩幅の広い半身。見覚えがあるライン入りの黒いスウェットが次々と目に留まる。いよいよ距離が縮まってその顔容を認めると、有希子は息を飲んでブレーキを踏み込んだ。
ぼこぼこに膨れた顔に下卑た笑いを浮かべた賢哉がゆっくりとこちらを指差した。
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