3 ターミナル駅近くのセルフカフェ - 植原尚寿

 目が覚めた。脈打つ胸を押さえながら首筋を流れる汗を拭う。頬杖を突いたまま器用に微睡んでいたらしい。

「ううう・・・・・ん? 」

 甘い匂いに鼻がひくつく。テーブル間の狭い隙間を上着を羽織りながら抜け出した隣の客の服裾が顔に当たって起こされたのだと判った。隣席にはまだその残り香が漂っている。

 寝覚めの眼差しを店外へ去りつつある背中へ向けた。黒いサマーコートを着こなした、艶めいたシルエットの背が高い女。いつから隣席にいたのだろう。顔の見えないその影が曇天の雑踏へ溶け込むまでガラス越しに見送った。


「しかし・・・・・何なんだよ、ちくしょう」

 脈絡がなく滅茶苦茶なのに、酷く生々しい夢だった。亡者の乾いた肌触りや石塊の冷たい感触が未だ掌に残っている。

 三年ほど前に本人が亡くなって以来、初めて見た母の夢。就寝中に心臓発作を起こしての急死だったので末期を看取ることは叶わなかったが、まさかその親不孝を詰るため、うたた寝の夢にまで現れたのか。

 もしや年忌法要の催促か。母方の実家の墓へ納骨した際には年忌が絡む仏事を端折ったが、それが故人の怒りに触れたか─。あらぬ妄想が次々と湧いて出る。

 幸いに母は仕事の稼ぎが良かったので、親一人子一人の家庭ではあっても何不自由なく暮らせたし、大学を出してもらってから先は大きな面倒をかけた覚えもない。では、常に気遣い労っていたのかと言えばそこまで言い切れる自信もないが、少なくとも生前の母との間に諍いや断絶はなかったし、人並みの親子関係だったとは思っている。

 強いて挙げれば四年前、離婚協議のゴタゴタの最中に辛辣な言葉を投げつけられたくらいか。

「四十になる息子に言うことじゃないけれど、この際だから言わせてもらうわね。あんたは一見、そつがなくて優しげだけど、じつはえらく人でなしのところがあるからね。自分でそのこと、気づいてる? あ、ほら、気づいてない・・・・・やっぱりね。

 わたしはね、まだヨチヨチ歩きの時分からずっとその解り難い性格を気に病んでいたのよ。上辺だけ良いこと並べてそのじつは冷たいって言うか、自分だけの殻に閉じこもって他人を突き放すっていうか。

 そうしたら案の定、こんな形で離婚されちゃって、心配していた通りになっちゃった。まあ、浮気がどうこうっていうことまではこっちもまだ半信半疑だけどね。

 だってあんた、良くも悪くもそういうことに興味ないじゃない。奥さんはもちろん、今まで本気で誰かを愛したことがあるのかって。でも、あそこまで真剣に疑われるからには向こうにも余程の言い分があるんだなって思うわけ。だって、わたしもずっと似たようなこと感じてきたから。

 ねえ、尚寿。あんた、これからどうすんの。奥さんにも娘にも逃げられて、このまま寂しい人生を送るわけ? 

 まあ、このことでは今さら何言ってもね・・・・・でも、せめてこれからは気をつけるのよ。誰かとの間で良くないことが起きそうになったら、深くふかあーく反省して、自分が悪い、至らないと感じたらすぐにでもその相手に頭を下げてね、心を籠めて許しを請いなさい。まずそこから始めていかないと、あんた、ホントに人間失格だからね」

 久し振りに実家へ帰るなり諦め顔でそう説教された。その時の老いに疲れた母の姿を思い出し、得も言えず悲しくなってきた。

 急に浮上して流れ始めた過去の記憶を辿るにつれ、次第に重石のような思いが背中にのしかかってきた。これまで敢えて考えないようにしてきたが、本当に人並みの親子関係だったのか。いや、母は死ぬまで息子の自分に対してかなり他所他所しく、冷ややかだったのではないか。

 例えばこちらが十八歳になるまで共に暮らした家の一室は、母専用の仕事場として絶対に立ち入らせてはくれなかったし、毎日の出勤の前には鍵まで掛けられた。とくに見られたくない物があったわけではなく、ただ息子の姿が目に入らないひとときを過ごしたかっただけなのだとかなり後になってから気づいたのだが。

 小中学校の父兄参観も仕事を理由に一度も来てくれなかった。どこまで本気だったのか知らないが、「父兄参観に母の字は入ってないから行かない」と言われたこともある。

 離婚の顛末を報告しに出向いたあの時も同じだ。強い感情を込めた言い方ではなかったものの、仮にもこの世に一人しかいない我が子に対して、人でなし、他人を愛したことがない、人間失格といった酷い台詞を続け様に吐けるものなのだろうか。あれは勢いから出た単なる叱責ではなく、母が長年感じていた偽らざる本音だったのではないか。

 ネグレクトや虐待を受けたわけでなし、そんなのオマエの甘えに過ぎない。イイ歳のおっさんが何言ってんのと軽蔑されることも解ってはいる。しかし、何かにつけて情が薄い母親に育てられるという経験はそれなりに傷を残すものなのだ。

 底が見えない心の落ち込みがさらに暗澹とした考えを手繰り寄せる。もし、最前の悪夢が単なる自己懲罰の所産ではないとしたら・・・・・。

 もしや、これは例の現象の予兆ではないか─。いや、きっと思い過ごしだ。睡眠時の夢がどうこうという注意はまだ一度も受けたことがない。該当する前例や症候がすでに確認されているのなら必ずその旨、伝達されるはずだから。

 嫌な動悸が鎮まらない。加熱タバコのデバイスへ目を遣りかけて止め、グラスに残った水を飲み干すと、ほんの少し離れた場所から誰かの話し声が聞こえてきた。

 夢の中に響いていた嫌な哄笑とは違い、滑らかで心地好い女の声だ。

 スマホの画面を眺める振りをして、その声が聞こえてくる左の最奥へ目を移す。

 テーブルをふたつほど越えた先、少し前まで誰もいなかった窓際の一画に向かい合って座る男女の姿があった。


「お待たせしてごめんなさい。はじめまして。どうぞ、よろしく。

 ・・・・・あ、やだ、あたしったらまた書き直し忘れてる。ええ、この名刺、ちょっと古いんですよ。いえ、昨日、ご連絡をいただいたのは今のこの携帯です。それでこっちに書いてあるのは前の番号で・・・・・。

 作り直さなくちゃいけないんですけどね、こっちの仕事はたまにしかやらないし、何よりこの和紙の風合いが気に入っていて、残りを捨てるのが忍びなくて。

 ここの部分の紅葉もね、本物の葉っぱを漉き込んであるんですよ。ね、綺麗でしょう。職人の知り合いが作ってくれたんです。

 あ、番号、今すぐ書き直しますね。住所は同じですから。すいません─」

 息継ぎもせず喋り続けるのは、肩下まで伸びた黒髪が目立つ、四十代の半ばと思しき女。

 造作がはっきりとした派手な顔立ちで双眸に目力がある。それがワインレッドのジャケットに身を包み、華のある空気を漂わせていた。

 しっとりと落ち着いた話し方をする女だが、声質が澄んだソプラノなのでよく通る。一方、こちらに背を向けた男の方はやけにくぐもった小声で話すので、応答の言葉がほとんど聞き取れない。引き続き、耳をそばだててみる。

「・・・・・わたし、このお仕事のために確保している事務所などはとくになくて、普段は開店前のカウンターでお話を伺ったり、時と場合に拠ってはご依頼いただいた方のお宅へ直に出掛けたり、とまあそんな調子なんですけれどね。

 ええ、はい、ここからそんなに遠くない場所で飲食店をやってます。そう、お酒を出すお店ね。一応はそっちが本業で、こちらは一種の人助けということで。

 え? ああ、今日ここを選んだ理由ね。うるさくて話しにくいですか? ごめんなさい。

 でも、今回のこのお話に限っては、昨日の電話であらましをお聞きした時、なるべく明るい時間に少しでも人が多い場所でお会いするのが無難だと思いまして。え、どうしてか? ・・・・・正直に申し上げても宜しいですか? 二人きりでは怖いからです」

 男はそれまでぼんやりと頷くだけの存在だったのだが、「怖い」という一言を聞いたとたん、背筋を大きく反り返らせた。

「それ、どういう意味・・・・・」

「言葉の通りです。もうすでに色々なことが見えちゃっていて。どれもこれもとんでもない代物ばかりで、万が一の危険を考えたら、人気が少なくて逃げにくいような場所は絶対に嫌だなって思って」

「万が一の危険? 」

「ええ、そう。今も正直、おっかなびっくりでここに座ってます」

「こ、怖いってさ、プロでしょ? そんなんじゃ頼れないじゃないですかっ」

「勘違いしないで。わたしもあなたと同じで基本は普通の人間ですから。ただ特殊なモノが見えるというだけで、神様や仏様じゃありません」

 女の顔にはもう愛想の笑みがない。丸いまなこがキュッと絞られている。

 男が気色ばんで声を荒げたおかげで、ようやくその発語も聴き取れるようになった。

「話を続けても? 」

「いや、その前にまず具体的に教えてください。とんでもない代物って一体何ですか」

「ですからね・・・・・うーん、そうですね、どう言えば良いか・・・・・つまり、成仏できない霊がどうこうといった、よくある生易しい話じゃないってことです」

「勿体ぶらないで、ちゃんと教えてくださいよ」

「勿体ぶってなんか・・・・・本当に、言葉にしづらいんです・・・・・そう、でも敢えて何かに喩えるなら─」

「はい・・・・・」

「悪魔とか魔神とか、地獄の大魔王とか」

 それまで頷き揺れていた男の頭がピタリと止まる。一呼吸置いてプルプルと震え、椅子を蹴る勢いで女に食ってかかった。

「マ、マオ・・・・・なっ、馬鹿な! 魔王ってアンタ、言うに事欠いて! そ、それはさすがに馬鹿げてるでしょっ。ドラクエじゃあるまいし。あんまりだよ! 判らないなら判らないって、そう言ってくれればさ・・・・・あのねっ。ああ、もうイイよ! 」

「あなたが言えというから」

 そのまま双方、暫しの沈黙。女は為す術もなく横を向き、ガラス壁の向こう側を眺め始めたが、そこに何かを見つけたのか明らかに注視する表情に変わった。

 同じ方向を眺めてみたが、街路には行き交う人群れがあるだけだ。偶然に知り合いの顔でも見つけたのだろうか。

 男は少し落ち着いたらしい。ようやくして前のめりの半身を縮こまらせた。両手を律儀にテーブル端へ添え、額を擦りつけんばかりに頭を下げる。

「あっ、いや、わ、悪かったっ。この通りです。決してそういうつもりじゃ」

「怒ってませんから」

「ホントに? 」

「ええ、これくらいで怒ったら、この仕事は務まりません。ただ、ここでお話を伺っても、お引き受けするかどうかはまた別です。それは先にお伝えしておきますよ。そもそも、わたしなんかの手に負える話ではないので」

「じゃあ、どうして」

「それでも直に会ってお聞きしなくては、と思いました。そして、事の次第ではわたしの師匠筋をご紹介しようかと道々、そんなことも考えながら来たんです。その人、山奥の神社で神職さんをやってらっしゃるんですが、わたし以上によく見えるし、何よりもご祈祷の力が並外れて強くて─」

「・・・・・」

 男は声量がないだけでなく、滑舌も悪くて喉も嗄れている。まだ黒い後ろ髪から察するよりも年配なのかと思ったが、そうではなく精根尽き果てているのだと気づいた。

「とにかく、聞いてくれ。い、いや、聞いてください。僕ね、こうなるまでに病院へもさんざん通ったんです。でも、アイツら本当に役立たずで、まるで話にならなかった。だから、頼れるのはもうあなたみたいな人しか─」

「ええ、そこはもう承知してますから」

「だったら、まず判断して欲しいんだ。僕の頭がホントに狂ったのか、それとも─」

「断言します。狂ってません」

「本当に?」

「繰り返しになりますけど、今のところはまだ大丈夫。そうでなければ、まともにお話なんかできないし、こんな形でお会いしていません。ただ、これもくどいようですけれどね、わたしも本当に心底から怖いのよ。だから、詳しい経緯を聞いた上であなたの方にその気があれば、すぐにそこの神社へ連れて行くってことなの。ちょっと遠いけれど、新幹線か飛行機を使えば今日中に着きますから。これで納得できましたか」

「うっ・・・・・僕たち家族を見捨てるわけじゃないと? 」

「はい。乗りかかった船ですから、できる限りのことは」

 男の後ろ頭が深く頷く。そのまま縺れる様な口調で喋り出した。

「ホントに、ホントに信じて良いんですねっ。ああ、やっとマトモに話を聞いてくれる人に会えたっ。嬉しいよぉ・・・・・いや、嬉しいですっ─」

 霊媒と水商売を兼業する怪しげな女と、その相談客とのやり取りとは理解できた。

 しかし、女自身が語った理由は脇へ置くとして、この手の商売は人目に付かずひっそりとやるのが定石と思うのだが、それを敢えて人の出入りが多い場所で堂々と繰り広げる真意は何なのか。もしや、カモを油断させる作戦か。

 日々の仕事との関わりで正直この手の話には食傷している。ただ、最前の妙な悪夢のこともあり、途中で席を立つのはもう無理だ。電車の時刻を考えながらいっそう耳を研ぎ澄ませて聞き入っていると、そこへいきなり別の声が割り込んできた。

「─ほら、早く見せてよ。時間ないんだからさ」

「はいっ」

 件の男女とこちらを隔てる空テーブルのひとつに、ビジネススーツの男二人が慌ただしく着席したかと思うと、いきなり大声で話し始めた。

 新卒の風情を残す若い男が差し出した大判のタブレットに、連れの中年男が鼻先を突っ込んでいる。ブラックな朝礼の賜物か、その無駄に豊かな声量に圧され、肝腎の会話は切れ切れにしか届かない。

「・・・・・で、そういう・・・・・って・・・・・その時、たしかにアレを見た・・・・・笑いなが・・・・・いてきて・・・・・それが・・・・・女房が実家から帰んなくなって・・・・・つ、つ、つまりねっ、あいつがおかしくなったのも間違いなくアレを見たからでっ、おまけに娘までっ・・・・・あああっ、あの日にあそこへさえ行かなければっ・・・・・、あうううっ・・・・・クソ、クソ、クソッ、幾ら悔やんでも悔やみきれないよ! 」

 男は喉奥から絞り出すように喚き、そのうちに背中を丸めて嗚咽し始めた。

 言葉の断片しか聞こえずとも、切迫した思いが痛いほど伝わる。もしこれが全て妄想の類いなら病状はかなり深刻だと思う。

 一方、手前の苛立たしい二人連れ、とくに上司の叱責がここへ来て一段と激しさを増し、終いには前後四人の発する声がひとつの塊になって耳へ押し寄せてきた。

「だからさ、ここも数字が違うでしょうが!」と、目を剥いて怒鳴る上司の男。「おい、これ、会議に間に合うのかよっ」

「す、すみませんっ、戻ったらすぐに直しますっ」と平謝りする部下の若造。

「─女房と娘は未だにその家に居続けて・・・・・」

「会議、三十分後だよ。ホントに間に合うのかっ」

 依然、顔が見えない男のかぼそい声をパワハラ上司の怒声が打ち消す。

 駄目だ。やっぱり、聴き取れない。いっそのことあの男女の隣へ移ろうかと考えた矢先、上司の男がスマホを片手に席を離れた。これでようやく場が静かになる。

「─ね、お願い。もう少し落ち着いて。初めから順を追って解りやすく説明して」

 霊媒の女は昂ぶる相手の肩先へ軽く手を置いている。男の後ろ頭がまた深く頷き、つかえながらもゆっくりと言葉を継いだ。

「─そっ、そ、そもそもの始まりは今から四ヶ月前に・・・・・」

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