第12話
12
「こんにちは!待っていましたよ。」
私は約束の翌日、学校が終わるとすぐに教授の研究所を訪ねていた。
昨日の夜から今日が待ち遠しくて、夜中に思いつきでリュックを取り出し、アナプラに持っていくためのあれこれを準備していたら夜が明けてしまい、学校の授業は辛くも私の睡眠時間と化してしまった。
特に社会科の時間は歴史のお話がちょうど絵本の様な効果を発揮し、この上なく熟睡出来たことはマキに会えたら教えてあげようと思う。
おかげで頭はスッキリしている。
「はい!来ました!行きましょう!」
「…凄い荷物ですね。」
チョコレートブラウンの優しげな瞳を和やかに細め、面白そうな玩具を見やるように私を眺めた。
その瞳はかすかに赤みを帯び、昨日よりややくたびれたような印象を受けたが、夜更かしでもしたのだろうか。
「はい。昨日アナプラを見たところ、食料が全くなかったので、水分、おやつは必須だと感じました。あとは、痛みはないみたいだけど、怪我した時にばい菌が入らないように絆創膏、登山的なものも必要かと軍手、ロープ、何かと便利なビニール袋、女子力的にポケットタイプの裁縫用具…」
「基本的に飲食は必要ありませんが…ま、自分が重たくないのなら大丈夫でしょう。精神安定剤にはなるかもしれない。」
教授はそう言うと、パチッと装置の電源を入れる。
昨日と同じようにいくつかの管はぐねぐねと動き出し、ある程度の粘度を持った水は僅かながら発光現象を伴いながらグッチグッチと振動を始める。
昨日は気付かなかったが、この発光現象はニコマルが耳から出口を出してくれた時の発光現象に似ていた。
二つの現象について、帰ってきたら教授に聞いてみようと、頭の片隅で考えながら、迷いなく透明な土管のような筒に近づいていく。
ビシッ!という音と共に切り開かれたアナプラの入口に、すっかり慣れた足取りで近づいていく。
今日は一切の不安もない。
「いってきます!」
教授の返事を待たずに足から飛び込む。
吸い込まれるような感覚を全身で感じながら、今日は周りを観察する余裕さえあることに気付く。
とはいっても、まわりの景色は見たこともないくらいの漆黒の闇。
もう上か下かも分からない。
ただどこかに猛烈な勢いで引き寄せられていることだけは、体に感じる重力から確認できる。
そして、地面に着いたという感覚もないままに、私は大地に降り立った。
降り立ったというより、何かの力によって立たされたという感覚の方が近いかも知れない。自己の意識以外の何かに。
風も匂いもない、ただ足下の草のようなものが蠢いているだけの大地。
戻って、これた。
辺りを見回してみると、どうやら昨日 ニコマルが出口を出してくれたあの場所に出たらしい。
前回wakeした場所にエンプラ出来るなら、わざわざまた探すところから始めなくて良さそうだ。ゲームのセーブシステムのようで有難い。
ホッと胸を撫でなで下ろしていると、後ろからドンッという強い衝撃があった。
「うぉ!!」
「カミサマ!!カエル!!カエッテキタ!!カミサマ!!」
私の周りをぐるぐるピョンピョン駆けずり回るのはもちろんニコマル。
「ニコマル~!!元気だった?会いたかったよ~!!」
授業中、固い机に突っ伏して睡眠を取っている最中、何回ニコマルを枕にしたいと思ったことか…。
腕に抱いたニコマルのふかふかな肌触りを存分に満喫した後、私はリュックを下ろし、中からニコマル用のスティック人参、自分用のおにぎりを取り出す。
「ニコマル!まずは腹ごしらえしよう!人参だよ。食べられる?」
ニコマルの耳が長いっていうだけで、ウサギから人参を連想して迷わず人参を持ってきてしまったが、果たしてニコマルはウサギなのだろうか。
それとも…
差し出した人参をあるんだかないんだか判断に難しい程わずかに膨らんだ鼻を寄せて、ヒクヒクと動かす。
どうやら匂いを嗅いでいるようだ。
そして、プイッと横を向くと、徐に私の反対側の手に持っていたおにぎりに齧りついた。
「ぎゃ!!!」
いきなりの事に思わず声を上げてしまったが、おにぎりもたくさん用意してあったので、囓られたおにぎりはニコマルに渡す。
「ニコマルは人参よりおにぎりが好きなのかぁ。」
「ニコマル!!トニギリ!!」
「おにぎりだよ。」
「オニギリ!!」
実はこのおにぎりに使われているお米は、母の友人の農家からいつも送って貰って私達姉妹が小さな頃から食べているものだが、そのお米の品種が『ニコマル』と言う名前だった。
その名前をマキがいたく気に入って、いつかペットを飼うことがあったら、ニコマルと名付けたいと昔から言っていたのだ。
だから、このピンクの丸い変な生き物が転がり落ちてきて、出会った時に思わず口をついて、この名前が出てしまった。
「…ニコマルがニコマル食べてる。」
ニコマルが美味しそうにオニギリを頬張る姿を見ながら笑いを噛み殺す。
そして自分も新たなおにぎりに齧りついた。
すっかりおにぎりも食べ終わり、ニコマルも満足そうに口の周りをペロペロなめている。
私の育ち盛りのお腹もそこそこ満たされたので、やることは一つ。
「ニコマル!マキのアナプラに入るよ!!」
「ニコマル!!ハイル!!」
意味が分かっているんだかいないんだか、ニコマルは私が何を言っても嬉しそうにピョンピョン飛び跳ねる。
ニコマルだけ現実世界に持って帰れないだろうかと本気で考えてしまう。
そして、昨日と同じピアノの旋律に先導されるように、その扉を開ける。アナプラの入口は今日も慥かにそこにあった。
「行くよ。」
ニコマルはピョンと私の肩に乗り、短い腕をいっぱいに伸ばししがみつく。
そして多少の緊張を伴いながらエンプラする。
この闇に足を踏み入れるのはもう4回目なのに、これが自分のアナプラではないということが私を緊張させた。
マキの世界だという保障も無い。
けれど、行くしかない。
右手で肩にしがみつくピンク色の生き物をしっかりと支えながら落ちていく闇は、今までの闇と全く違う感触だった。
私の体の中を数千数万の水疱が一斉に駆け抜けていくような、あまり快適とは言えない感覚が体中に走る。
感じたことのない抵抗感。
これが自分ではない誰かのアナプラに行くということなのだろうか。
時間的にも長く、無意識に息を止めていたのか苦しくなってはぁっと息を漏らしたその時、強い閃光を感じた。
漆黒の闇だった場所にいきなり強い閃光が走れば人は反射的に目を瞑ってしまう。
そして目を閉じたその瞬間、体の右半身にドンッという強い衝撃を感じた。
ーーーーーーーーー
遠くに、チョロチョロという水の音が聞こえる。
頬を撫でる風はほんのり冷たくて 土や草、まるで山の中のような香りを私の鼻腔に届けた。
チュンチュン、キキッ、キキッというような音、これは鳥の鳴き声なのだろうか。
まだ視界からの情報はない。
私が目を閉じたままだったからだ。
その事に気付いて、うっすらと目を開ける。
どうやら私は倒れているようだ。
着陸時に体を打ったのか、痛みはないがすぐに動かせる状態でもないようだ。
だから首と目だけをぐるりと回し、まわりの状況を確かめる。
「…!!!!」
その光景は、私の想像をはるか越えた幻想の世界そのものだった。
大きな岩山から白糸のように幾多にも渡って下流に流れていく見たこともないような美しい滝、岩肌には所々苔の輝くような緑色が縁取っている。
空を覆う木々は何千年を生きた神木のような荘厳さで、思わず拝みたくなるほどだ。
その森をうっすらと覆う霧は、幻想的な森をより一層にファンタジアな光景へと誘う。
風にあおられて、チラチラと葉の隙間から顔を見せる空は、アクアマリンのような青空。
そこから零れるように差した光の筋は神様が垂らしたヴェールさながらに水面を煌めかせた。
今にもその木々の陰から、ユニコーンでも顔を出しそうな程に幻想の森だった。
私はその光景を見下ろす、岩山のてっぺんに倒れ込んでいた。
これ…この思想世界…私のと違いすぎる…。
私のアナプラが幼稚園児の書いた落書きだとしたなら、この世界はフランス絵画の革新者として有名な写実主義のクールベの絵画だ。
間違いなくその位のスケールの差がある。
私がこの景色に惚けていると、右隣からゴソゴソと動く気配を感じる。
ああ、ニコマルだ。
ニコマルの事を忘れていた。
ニコマルに声をかけようと振り向く。
「ニコマル、大丈夫だっ…」
私はニコマルを気遣う言葉を最後まで投げかけることが出来ないままにフリーズする。
なぜなら、そこにいたのは、私の知っているバレーボール大のピンクで丸い変な生き物ではなかったからだ。
「はい!大丈夫です!神様!!」
そう答えたのは、私の知ってるニコマルじゃなく、とても美形な少年だった。
ニコマルの共通点としては、髪の毛がピンク色、人間の耳も確かにあるけど、頭の上にもウサギの耳が着いている。
ここが漫画の世界であれば、私の頭の上にハテナマークが20個位浮かんでいたかも知れない。
「神様?どうかしましたか??」
年の頃は10歳位だろうか。
色は白く唇は少女のように桜色。
瞳は森の神秘的な緑色を映したかのような碧眼。
「…あんた…ニコマルなの?」
「はい!神様!!」
あの変な丸い物体がこの世界に来ただけでこんなにも変化があるとは…。
よく見れば、自分の服装も良く見知った私の私服ではないようだ。
この美しい世界に相応しいような、相応しくないような、冒険者をイメージするような服を身に纏っていた。
ギリシャ神話に出て来そうなオフホワイトのワンピース、腰にはゴールドの布ベルトが巻かれ、鋼色に輝く胸当てにはやはりゴールドで細かな縁取りがされている。
それを覆うようにブラウンのケープ、足下にもブラウンのロングブーツ。
なんだか昔に流行ったRPGに出てくるような、そんな格好だ。
これも私とマキの想像力のキャパシティの違いなのだろうか。
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