第9話

9


その扉の奥に足を踏み入れながら、ちょっと待てよと記憶を巻き戻す。


さっきは黙秘とか何とかで、そっちにばかり気が言っていたけど、桜井教授はなんて言った?


確かマキの思想世界に私がアクセスするとかなんとか…


「ここです。」

「…!!!」


桜井教授が指さすそこには、巨大な空間が出現した。


天井は高く丸くなっていて、あのドーム型の外観を思い出す。


ここは建物の中央部なのかもしれない。


そして、その巨大な空間の真ん中に鎮座するのは、透明の液体で満たされた土管程の直径の円柱型の柱が天井の中心部まで届き、それにいくつもの管が繋がれている。


そうこれは何かの映画で見たクローンを作る機械のよう。


それはあまりに非現実的に私の前に聳え立った。


中を満たす透明な液体はある程度の粘度を持っているようで、時折 ネチッと音を響かせながら中の水疱を弾き出す。


私が口をぽかーんとさせていると、隣の教授は満足そうに目を細めて、こともなげに言ってのけた。


「これが思想世界の入口だよ。」


…そう言われても、私はどうリアクションをとっていいのかわからない。


ツッコみたいことは山ほどある。


けれどいわば思想世界の権威である教授を、ちょっと本を読み囓った私に論破できる程の力がない事は火を見るより明らかである。


教授が、思想世界の入口だと言ったなら、きっとそうなのだ。


もうそうとしか、言えない。


「水というのは物理的に特殊な物体でね。思想世界の入口に宛がうのはこれしかないと思ったんだ。セオリー的には極限まで不純物を排除し透過させることが望ましいとされていたけど、それだと侵入するものを異物だと捉えて省かれてしまう。だからある程度の水に抵抗力を与えるためにギリギリの粘度を与えて人物をアクティベートしやすいように改良してみたら、これがかなりの精度だった。」


嬉しそうにまくし立てる教授の言葉は半分以上、正確には私の脳には伝わらない。


「だから8割…いや、9割の確率で君は自分の思想世界にアクセスできると思うんだ。」

「私の?」


私の思想世界じゃなくて、マキの思想世界に入らなければならないんじゃないの?


一言で私の疑問を理解したらしい教授が申し訳なさそうに、首を振る。


「まだ自分以外の思想世界にアクセスできるには至ってないんだ。ある特別な方法を除いては。」

「ある特別な方法?」

「その方法は不確かな物だから、君に教えるわけにはいかない。」

「じゃ、どうすれば…」

「まずは君は自分自身の思想世界へアクセスする。そして、その世界でマキさんの思想世界に通じる入口を見つけるんだ。」

「そんなことが出来るんですか?」

「君の心は深くマキさんと繫がっている。君とマキさんの心が通じていれば、出来るはずさ。理論上はね。残念ながら試した事は一度もない。だから、絶対出来るとは言い切れないんだ。」


こんな馬鹿げた話をこの人はあくまで真剣に語る。


そして私も、この馬鹿げた話を鵜呑みにして、これから思想世界に足を踏み入れなければならないのだ。怖すぎる。


「そうそう。これをつけて。」


手渡されたのは幅3センチ程の平たい輪ゴム。


「これは位置追跡と性能は低いけどトランシーバー。最低限になるけど、こちらの世界の僕と会話が出来るはずだよ。危険を感知したら、すぐに君をこちらの世界に強制送還する。」

「出来るはず…。」

「理論上はね。」


桜井教授はサラサラの黒い前髪を揺らしてニッコリと微笑む。


…大丈夫なのか???


時が経つほどに生まれる猜疑心や恐怖心を打ち消すように、私はその細かな装飾が施された輪ゴムを左腕にはめた。


「とりあえず今日の所は君の思想世界に入れたら、よしとしてすぐに帰ってくるんだ。帰り方は行きと同じ、思想世界に出来た裂け目に足を踏み込めば戻ってこれるはずだ。」

「理論上は。ですか…」


うんうんと満足そうに頷く。

嫌味が通じている様子はない。


「そうして慣れたら、マキさんの思想世界を探してみよう。」


恐らく童顔であろう彼の穏やかな笑みが私にやるべき事を与えてくれた。


何が出来るのか、何をどうしていいのか、何もわからなくて動けないことが辛かった。


怪しくても、怖くても、マキのために出来ることがあるだけで、前に進めるだけで、こんなにも人は強くなれる。


「私、行きます!」


教授は無言で、何かのスイッチを押した。


ガコガコガーと見た目に似つかわしくない原始的な音を立てて、明らかになにかが作動している気配が部屋を包む。


繋がれたいくつもの管が光り踊り出し、粘度を持った液体がビッチビッチと音を立ててうねる。


それは間もなく七色の蛍光色に包まれたかと思うと、天井の真ん中から黒い線が一瞬にして下まで突き抜け、それがやがて何かを誘わんばかりにゆっくりゆっくりと口を開けて行く。


それはいつか見た階段の中腹にできた黒い穴のよう。


「さぁ。入口が開いたよ。」


もう ここまで来たら 腹を決めるしかない。


「行ってきまーす!!」


その上下に裂かれた黒い入口は、不思議と円柱の壁さえも存在していないかのように、手を伸ばした私をそのまま飲み込んだ。


驚くほどの抵抗のなさでするりと体が吸い込まれていく。


悲鳴を上げる隙もないほど。


あとはただ落ちていく。


落ちて落ちて落ちて…。



落ちていたはずなのに、気がつくと私はその大地にしっかりと二本足で立っていた。


そう、私の思想世界に。

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