第6話

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「さぁ、汚いところだけどその辺に適当に腰掛けてくれて構わないよ。」


私は促されるままに、1番手前にある三人がけの黒いソファに腰掛けながら、先ほど受け取った名刺を眺めてみる。


『桜井優一』


やはりこの男性は桜井教授本人だったようだ。


名は体を表すとはいうが、この人の醸し出す空気は名前の通り優しく柔らかく、教授なんて肩書を背負うようには見えなかった。


年は30代前半だろうか。


教授なんていう肩書がなければ20代だと言われても不思議には思わないだろう。

細身の輪郭に大きめの銀ぶち眼鏡。


色素の薄い伽羅色の前髪がその目の半分にかかっている。


時折その前髪をうざったそうに横に流すが、サラサラと元に戻っていく。


目立つイケメンという訳ではないが、よく見ると整った顔立ちをしている教授は、変人要素さえなければ学生達にモテたりしたんではないだろうか。


「では、お話を伺いましょう。」


私の前にお茶がたっぷり入った湯飲みを置いた。


私は窓の光が反射してユラユラ揺れる緑茶を見つめながら、どう話を切り出そうか、迷っていた。


「…。」


言いあぐねている私を見て、桜井教授は急かすことなく、ゆっくり向かい側のソファに腰掛け、まだ勢いのいい湯気を放出し続ける緑茶を熱そうに一口すすった。


そして、私を見てにっこりと微笑む。


その瞳はゆっくりでいいよ、と語っている様だった。


「あの…私、これを読みました!」


私は鞄の中から『思想の掟』を取り出した。


文庫本よりも一回り二回り大きいハードカバーのそれは、何度かトートバッグのふちに引っかかり、桜井教授もそれが自分の本だと全体像を把握できるまでに時間がかかってしまったが、私が何を取りだそうとしているかわかると、すぐにパッと顔を明るくした。


髪の毛と同じ、色素の薄そうなチョコレートブラウンの瞳が嬉しそうに私の手元を見て、綻んでいる。


「ああ!読んで頂けましたか!」

「はい!…それで、あの、信じてもらえないかも知れないんですけど…」


そこまで言いかけて、いや違うぞと自分にストップをかける。


なぜ、私が見ず知らずの本の作者を求めて、ここまで会いに来たのか。


そんなのわかってるはずじゃないか。


誰に何度話しても、信じてもらえなかったマキが行方不明になった時の詳細を、この本を書いたこの人になら信じてもらえると思ったからだ。


マキを探すには、まずあの出来事を信じてもらわないことは始まらない。


桜井教授が話を信じて、なんらかの救出方法を提示してくれる可能性にかけて、私はここを訪ねてきたんじゃないか。


んんっと唾を飲みのんで、もう一度仕切り直してから、改めて声に出す。


「桜井教授なら信じてくれると思って…桜井教授しか頼れる方がいないんです!」


その言葉を口にした瞬間、私の涙腺が崩壊したかのように、涙が下瞼から噴き出した。


ジュワッと音が聞こえそうな程の勢いで流れた水は、あっという間に私の頬に2.3本の筋をつけた。


桜井教授はぎょっとして、わかりやすいほどにオロオロしていたけれど、テーブル脇のティッシュを2.3枚引き出すと、慌てて私の頬に押しつける。


不器用な優しさに少しだけ笑いがこみ上げる。


「…ありがとうございます…。」


現時点で頼る人がこの人しかいないということ。


目の前でワタワタしているその人があまりにもあたたかい雰囲気を纏っていたから、緊張感でどうにか繋いでいた糸が切れてしまったようだった。


それでも私は言葉を続けた。


聞き取りにくいところが何カ所もあっただろう。

だけどその人は私の言葉を聞き逃すまいと、必死に耳を傾けてくれた。


「…つまり、君の妹さん、マキさんは、君の目の前で黒い穴に落ちていったと…。」


私はしばらくは治まらないであろうしゃっくりをしながら頷く。


「つまりそれが、私の書いた本にある思想世界への入口じゃないかと考えた訳だね?だから僕の所に来たんだね?」


私はうんうんと頷く。


もう涙は出ないのに、横隔膜の痙攣だけは治まりそうにない。


「…その話をしても、誰も信じてくれなかった…。」


私はブンブンと音がするほどに、頭を上下に振る。


桜井教授は、うつむいたままスカートを握りしめる私の頭をそっと撫でた。


「…辛かったね。」


櫻井教授の温かな声が頭上から私を包むと、マキがいなくなってから始めて、私は一人じゃないと思えていた。

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