第4話
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マキを救おうと伸ばした手の先から落ちたことで、私は全身に打撲を負っていた。
右手の指の骨にはヒビが入り、肩から着地したのか、肩から背中にかけての打撲は色が変わるほどの痣が残った。
打撲だけでなくムチウチの症状もあったが、二ヶ月もするとほぼ通常の生活に戻れたのは、運もあったのだろう。
階段の最上階から、それも頭から落ちたにも関わらず後遺症もなく過ごせている。
だけど、通常の生活に戻れたのは私だけで、あの日からマキは行方不明になってしまった。
階段から落ちて気を失った私は、異変に気付いた両親によって病院へ担ぎ込まれたらしい。
目を覚ました私はマキの事を愚直に説明したが、頭を打ったことによる一時の錯乱状態として、片付けられてしまったようだ。
懸命に説明を試みたが、実際に目にした私にでさえ理解の出来ない状況を、相手に納得させる事は容易ではなかった。
時間が経つに連れ、私の記憶も曖昧になっていく。
あれは現実だったのか否か。
なんにせよ、マキが帰らないのは紛れもない事実だった。
退院しても、早くマキを助けなければいけないという焦燥感と、こういう時にいつも話を聞いてくれたマキの不在に対する喪失感を交互に感じながら、日常は過ぎていった。
何をどうすればいいのかもわからず、相談できる人間もいない。
進むべき道が分からないという事が、こんなにも辛いことを始めて知った。
まだ若干痛む腰を庇いながら、ソファーに腰を降ろした。
ふとサイドテーブルに目をやると、一冊の本の存在に気付く。
何の気なしに本を手に取る。
『思想世界の掟』
これは…。
気付いてブルッと身震いする。
この本はあの日、マキが読んでいた本じゃないか。鼻がツンとして、ジワジワと下瞼から水が上がってくるのを感じる。
あの時、マキの手を取れなかった後悔。
なぜ背中を掴ませてやれなかったのだろう。
背中を掴ませて、二人一緒に穴に落ちていけば良かったんだ。
スッと一回鼻を啜ってから、本のページをパラパラと捲ってみる。
『思想世界とは、すなわち宇宙空間である。』
そんな1文が目に入る。
この本は私が想像していたような黄金のファルコンは出て来ないらしい。
物語というより、もう少し、なんていつか啓発本のような、どこか宗教的な本だった。
『宇宙の創造を誰しもが解明できないということは、この宇宙空間そのものが誰かの思想世界であるということを否定出来ないということだろう。』
そもそも解明できていないのだから、肯定も出来ないと思うのだが、その一文は書き記されてはいなかった。
『それ程に思想世界というものは壮大で計り知ることの出来ないものである。
ただしこれは思想世界を外に持つ者の話だ。
思想世界を内に持つ者も居る。
解離性同一障害をご存じだろうか。
いわゆる、多重人格だ。
これは思想世界を内に持つ者が陥りやすい症状である。
思想世界の入口を心に持つことで、この入口から思想世界の住人達が次々と顔を出し、その様が現実社会の人間からは一人の人間が多重に人格を持ったように見える。
これが解離性同一障害の正体だ。
思想世界の入口はどこに出来るかわからない。本人の意思に関わらず存在出現するものだからだ。』
そこまで懐疑的に文書を追っていた私だが、次の文章に目が釘付けになる。
『だから今にもあなたの足下辺りにぽっかりと思想世界の入口が出現するかもしれないのだ。』
足下に。
ぽっかりと。
マキの足下に出現した黒い穴。
あれが思想世界の入口だなんて解釈するほど、短絡的でも純然たる人格でもなかった。
だけど無意識に私は本の作者の名前を確認していた。
そこには「サクライユウイチ」とある。
名前の横にはご丁寧に「東泉文化大学大学院教授 メディカルスピリットラボ所長」という肩書きまであった。
この人の、話が聞きたい。
直感的にそう思った。
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