第23話
23 冷たい雨
コトン、と紅茶の入ったティーカップが、目の前に置かれる。
私が一番お気に入りだったティーカップだ。
モアモアと立ち上がる湯気が、冷えていた鼻先を温める。
「とりあえずケーキ食えよ。今日は全部、な。」
ケータが目の前に腰かけながら言う。
ここへ向き合って座るのは、初めて、ここへ来た時以来だ。
それ以降はいつも、ケータは隣に座ってくれた。
ケーキを一口食べてみる。
あの日と同じ味がした。
私がケーキを食べ始めたのを確認して、ケータはポツリポツリと話し始める。
「中華粥...。作ってくれただろ?うまかった。ありがとな。」
中華粥...。食べてくれたんだ。こんな状況なのに、どうしようもなく、嬉しい。
「この間は...本当にひどい事をしたと思ってる。でも、決していい加減な気持ちだった訳じゃない。」
コポコポコポと、アロマ加湿器の音。
心が落ち着く、優しい香り。
ケータはふっと目を伏せた。まつ毛が長い。この人は本当に綺麗な顔をしている。
「あの日、ひかりがこの家に来た時、あんなに会いたかったひかりが目の前にいるのに、お前の事が気になって仕方がなかったんだ。」
ケータは顔を上げない。子供が悪い事をした言い訳でもしているかの様だ。
「ひかりと話そうと思っても、頭の中はお前でいっぱいで、ひかりの話を聞いてやるので、精いっぱいだった。それで、気づいたんだよ。俺はお前の事が好きなんだって。...遅すぎたけどな。」
「...なんで?なんで言ってくれなかったの?」
「言おうと思った。だから、話があるって連絡しただろ?」
話がある...。
そうだ、あの日はケータにそう呼び出されたんだっけ。
それを、私が勝手に、ひかりさんとの事だろうと勘違いしたんだ。
「あの日、お前に気持ちを伝えようと思った。俺は...そこそこ自惚れてたから、お前にいきなり、付き合おうと思っている人がいるって、言われた時は、全然意味がわからなかった。理解できなかった。」
私はあの日のケータを思い出していた。
洋服を一つ一つ、ハンガーにかけながら、振り向かなかったケータ。
《良かったな。》と言ってくれるまでには、確かに時間がかかっていた。
でも、そんな事、今言われたって...。
「でも...それでも、...言って欲しかった...。」
「勢いで言ってしまう事はできた。でも、お前は"相談"じゃなく"報告"だって言ったろ?お前が自分で決めた事を、俺の気持ちで振り回したくなかったんだよ。どうしたらいいか、少し考えたくて、メシにしようって言ったんだ。」
ケータはちゃんと考えてくれていた。
『その程度の存在』だったからじゃ、なかったんだ。
「気持ちは確かにある。でも、それだけで幸せに出来るかって言ったら、自信がなかった。今だって、満足に会う時間もない。好きな所に連れて行ってやる事も。実際、それでひかりとダメになってるしな。」
あんなにも、泣かないと決めたのに、いつの間にか、涙腺は崩壊している。
ケータはこんなに、私の事を考えてくれていたのに、私は逃げる事しかできなかった。
「お前が付き合おうと思ってる男なら、お前を好きな所に自由に連れていけるだろ。俺といるより、幸せかもしれない。そう考えた。」
「じゃ...そう思うなら、なんで、なんであんな事したの?なんで、抱きしめたり、キス、なんてしたの?」
「...あの日は...。自分の気持ちをごまかす様に呑みまくった。呑んで、呑んで、呑み過ぎて帰ったら、もうとっくに帰ったと思ったお前が目の前に現れて、気持ちが抑えられなくなった...。気づいたらお前を抱きしめてた。本当に悪かった。」
あの日。
ケータがめちゃくちゃだったのは、ひかりさんのせいじゃなかったんだ。
私への想いが、ケータをめちゃくちゃにしていたんだ。
「ケータ...ひどい。今更、なんで...?」
「泥酔状態で、あんな事してしまったから、誤解はされたくなかったんだ。誰にでもする訳じゃない。みのりだから。抱きしめたかった。俺のものにしたかった。」
ケータは一つ、一つ、自分の気持ちを確認するように、力強く言葉にしていく。
「友達じゃない。友達とは思えない。みのりの事が好きなんだ。」
ケータの冷静さとは裏腹に、私の感情は高ぶっていく。
「私だって...私だって!ケータが好きだよ、大好きなんだよ!」
「みのり...。」
「でも、無理なんだよ!佐々木を裏切れない!あんな優しい人を裏切れないの!」
「落ち着け。落ち着いて、話をしよう。」
もう、涙でにじんで何も見えない。
全てが不明瞭で、不透明。鼻の奥がジンジン痛む。
手足の先が冷たい。
大きな窓に大粒の雨が打ち付ける。いくつもいくつも、ぶつかっては、その姿を消していく。
ケータはゆっくり立ち上がると、後ろに回って、私を優しく抱きしめる。
「みのり、落ち着け。落ち着いて、どうしたらいいか、二人で考えよう。」
ケータの腕は、力強く温かい。
思わず、この腕にすがっていたくなる。
だけど。
私はケータの腕を振り払う。
「ダメなの!もう無理なの!もうケータとは会わない!私は佐々木といる!佐々木を傷つけたくない!」
鞄の中から、ケータの家の合鍵を取り出して、テーブルに置く。
「これ、返します!」
「みのり!」
「お願いケータ!私を想うなら、もう私を追いかけないで!」
そう叫ぶと、私はケータの部屋を後にする。
体に残る温かいケータの痕跡を消したくて、あえて傘はささなかった。
冷たい雨が肌を打つ度に、ケータとの時間が消えていく様な気がした。
雨はひどく冷たくて、とても寒い。でも今はこれ位が、私にちょうどいいと思えた。
私なんか、このまま溶けて消えてしまえばいい。
手足の感覚はほとんどないのに、溢れ出る涙の温度は、頬に伝わる。
あと、どの位したら、私の中から完全にケータが消え去るのかな。
あと、どの位泣いたら...。
ケータ。
苦しいよ。
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