第15話
15 甘いクリームシチュー
―少し時間が空いたから、話がしたい。-
そんな連絡が届いたのは、クリスマスもすっかり終わってしまった26日の朝の事だった。
―私もケータに、話したい事があるんだ。-
返信はそれだけにして、ケータの部屋に向かう。
彼女とはどうなったのか。
あれから、何回か会ったりしているのか。
聞きたいことはたくさんあるけど、聞く勇気もなければ、資格もない。
―今、仕事終わったから、みのりの方が先についたら、中で待ってて。-
なんて皮肉なんだろう。
こんな気持ちで、こんな状況で、初めてこの鍵を使う事になるかもしれないなんて。
この鍵を受け取った瞬間が、私の人生史上最高に幸せな時間だったのかも。
いつの間にか、通いなれてしまった道。見慣れてしまった風景を過ぎる。
気分はまるで死刑台に向かう囚人。
今日、私はケータにさよならを言うんだ。
街に昨日までの活気は全く残っていない。
悲し気にサンタの描かれたチラシが風に転がる。人はまばらだ。
時折、飲み過ぎたような人たちが道路脇に腰かけていたりする。
一歩一歩、ケータの部屋までの道を踏みしめる。ここを歩いた事を忘れない様に。
大切に。
ケータの部屋の前に立つ。
ケータは帰っていなかった。初めてもらった合鍵を使う。
がちゃんと気持ちのいい音がして、扉が開いた。この部屋にいるだけで、ケータのあったかい空気に包まれた。
忘れない様にしよう。
大切にしよう。
ここへ来るのは今日が最後だ。
「お。来てたのか。早かったな。」
ガチャっと音がして、入ってきたケータはまだほんのりと冷たい空気を纏っている。
「ちょうど今来たの。荷物持つよ。」
両手に大きな荷物を抱えたケータに声をかける。
「あぁ、荷物はいいから、寝室のドア開けてもらえるか?今日は衣装が自前だったから、大荷物だよ。」
「これでいい?」
「あぁ、サンキュ。」
クローゼットを開けて、服をしまうケータ。
「で?話ってなんだ?」
「え?」
「おまえも何か話があるんだろ?何かあったか?」
ハンガーに洋服をかけながら、発する言葉は尚も温かい。
私を心配してくれている。その事が直に心に伝わってくるような声。
「うん。あのね。」
ケータの事が大好きでした。
好きでたまらなくて、ずっと一緒にいたかったよ。
「付き合おうと思ってる人がいるんだ。」
ケータは振り向かない。
何も言わず、服をハンガーにかけ続けている。
カチャカチャとハンガーにかけていく音。静かに流れて行く時間。
「・・・ん?」
「・・・え?」
「...それで...どうした?」
「え?...何が」
「相談じゃないの?」
「あ、相談というか、報告...。」
ケータはやっと服をかけ終えて
振り向く。
「報告...て事は、もう付き合うって決めたって事?」
私はぎこちないながらも頷く。
しばしの沈黙。
ドサッとベッドに腰掛けるケータ。あの日も、初めて会った日もこうして私の隣に腰かけたっけ。
「良かったな!何、どんな奴?会社の人?」
ようやく明るい話だと悟ったらしいケータは笑顔だ。
そうだ。
こんなもん。
この人の中の私の存在なんて。
何しろオトモダチで、オトモダチの幸せは喜ばしい事なのだから。
「うん...。会社の人。」
「もしかして、この間、命を救ったとかいう人か?」
「え?命を救った?」
「この間言ってたろ?命を救ったお礼におごられてたって。」
あぁ、そんな事言ったかもしれない。ちゃんと聞いてたんだな。ケータ。聞いてなさそうだったのに。
「あ~...そう。そうそう、その人。」
「人は生命の危険を感じると、恋に落ちるっていうのも、あながち嘘じゃないんだな。」
あははと笑うケータ。
そんなケータの言葉は全然頭に入ってこない。
わかっていた事とはいえ、ショックだった。
ケータはこんなにも簡単に、私に恋人ができる事実を受け入れる。
大丈夫。
わかってたもん。
引き留めてくれるなんて、これっぽっちも思ってない。
だから、大丈夫だ。
続きを言わなきゃ。
「だからね!だから私もう...ここには来れないなぁって...。」
私の声は震えていない。努めて明るく、普通のトーンで言えたはず。
「...なんで?あ、ちょっと待った。とりあえずメシ。腹減った。」
マジ!?
このタイミングで??
もうズコーっともなれない。
絶望的すぎて。
ケータは寝室を足早に出ていく。
私も打ちのめされた気分で、のっそりと後を追う。
もう終わる。
なんの抵抗もなく、スルッと私とケータの関係は終わるんだ。
ケータはいつも通り、手際よくご飯の準備を進める。
どうやら、最後の晩餐はクリームシチューの様だ。シチューの柔らかな香りも、今の私には餞別のように思える。
カチャンカチャンとグラスの音。
整然と並べられていく食器たち。
ケータの骨ばった手は、器用に鍋からお皿にシチューを移していく。
「さ、食うか。で、何だっけ?話してみ。」
話してみ...という割に、ケータの目は温かいシチューに向けられている。
カリッとトーストされたフランスパンの香ばしい香り。バターもふわりと香る。シチューに浸して食べたら、おいしそうだ。
「だから...ここに来るのはもう...。」
「まぁ、確かにそうだよな。彼氏がいるのに、他の男の家に二人きりは、まずいよな。今度から、外でメシ食うか。」
ケータの口の中で噛み砕かれていく、フランスパン。シチューを吸ったフランスパンは喉をスムーズに通って行く。
「え?外で?でも、それもまずいんじゃ...。」
「なんで?彼氏できたら、友達捨てるタイプ?」
「いや、まさか、そんな事はしないけど。」
「だろ?じゃ、次からは外だな。」
そういう事...なのか?何だか、あんなに決心を固めた私が、あほらしい。
あほらしい程に、軽くあしらわれている。
「良かったな。幸せにしてもらえよ。」
「...うん。」
全く恋愛対象として見られていないという絶望感の中で、まだ友達でいられるという安心感が私を癒す。
それは口の中を支配するシチューの甘さに似た安心感。
「で、俺の話なんだけど...。この間は悪かったな。まさか、ひかりが来るとは思わなかった。」
...彼女はひかりさんというらしい。名は体を表す。まさに彼女らしい、素敵な名前だ。
「お前、ケーキも食わないで、帰ったろ。掃除のバイトの者とか言いやがって、気、遣いすぎなんだよ。」
「だって、あの状況じゃ誤解されると思って。」
「あんな風に逃げ帰った方が、誤解されるだろ。」
それは...そうかも。
「誤解...されちゃった?」
「まぁ、一応、彼女?とは聞かれたけどな。ケーキも見られたし。」
ケーキも見られた...という事は、彼女はあれから、この家に上がったという事だ。
怖い。
その先の展開をあまり聞きたくない。
「ヨリ...戻ったの?」
聞きたくないのに、なぜか一番聞いてはいけない事を訪ねてしまう。
私って、バカだ、アホだ。
何やってんの私。
私がとんでもない後悔に襲われている内に、ケータはあっさり首を左右に振った。
「あいつ、離婚するんだって。あの日は取り乱してて、あいつの話を聞いてやるだけで、終わった。」
「離婚!?彼女、一人になるの?チャンスじゃん!話し合いなよ!ケータ、あんなに後悔してたじゃん!苦しんでたじゃん!」
私は何をまた、ケータの背中を押すような事を言ってしまっているのだろう。
やっぱり私はバカだ。
でも、今は後悔なんてしていない。だってそう思ったのは事実だから。
私は苦しんでいたケータを知っている。ケータが幸せになる、またとないチャンスだ。
「話した方が...いいと思うか?」
「もちろん!!」
ケータはケータらしい、真っ直ぐな瞳で、私を射抜く。私も、負けない位、真っ直ぐに視線を返す。
見ず知らずだった私と、誕生日のケーキを食べてくれた人。
自分のリスクも顧みずに、私の背中を押してくれた人。
傷ついてボロボロだった私を、支えてくれた人。
今度は私が背中を押してあげる。あなたが心から、幸せに笑えるように。
「頑張ってみて!私がついてる!」
いつかと同じセリフをあなたにあげよう。ケータは口の端を少しあげて笑った後、私の頭をくしゃっとなでる。
「ありがとな。」
それ以上、ケータは何も言わなかった。
だから、私も何も言わなかった。
少しだけ、冷めてしまったクリームシチュー。あんなに甘かったシチューが、今は少しだけしょっぱい。
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