第13話
13 やっぱり変わっていく関係
外の冷たい空気が酔った肌に心地いい。
ハァーっと熱い息を吐く。
白いもやが消えて行くと、その先にオリオン座が浮かび上がる。
佐々木は私を送って行くと言ってくれた。
だけど、私は丁重にお断りした。
少し一人で考えたかった。色んな事を。
佐々木に好きだと言われてしまった。
佐々木の頬が赤かったのは、ビールのせいだけではなかったのかもしれない。
その後の肉の味を覚えていない。もったいない事をした。
まさか佐々木に好意を寄せられているなんて、微塵も気づかなかった。
あいつは相当な役者だと思う。
別に嫌じゃない。
ただただびっくりした。
佐々木の事は同僚としては好きだとも思う。このまま佐々木と付き合ってしまえば、それなりに楽しい恋愛が出来るんじゃないかとも思う。
だけど、ふっきれないでいる一つの想い。
...ケータに会いたい。
こんなに会いたいのに、最近は年末年始の特番の収録やイベントで全然会えていない。
会えなくたって文句は言えない。
仕事だし、なんて言ったって彼女じゃないし。
皮肉な事に忙しくて会えなくなった分、テレビで見かける事は多くなる。
テレビの向こうのケータはびっくりするほどに、遠い。
まるで、神様にケータは遠い人なんだと念を押されている様だ。
お前の手の届く人じゃないと。
空を見上げてそこに浮かぶオリオンと一緒だ。私からはどこにいても見えるくせに、手は届きそうにない。
その上、そっちから私の事は小さすぎて見えないのだ。
色んな事を考えていたら、鼻先10センチ、目の前に見慣れた扉があった。
気づくと自分の部屋の前に立っていた。
危なかった。
もう少しで激突するところだった。
人間って凄い。
頭は別の事でいっぱいでも、足はちゃんと自分の家に帰り着く。
ドアに鍵を差し込んだその時、携帯がメッセージ着信を知らせる。
このタイミングの良さは...。否が応でも胸がなる。
急いでカバンからスマホを取り出したいのに 手がかじかんでなかなか出てこない。
やっと開いた画面。
"奇跡的に収録まいた!何してる?メシ食うぞ。"
やっぱりケータだ。
この人って本当にスター気質なんだなと思う。
人の都合も考えない横暴な文章に、顔はどうしようもなくにやけてしまう。
メシったって、メシの時間でもないよ。
もう22時まわってる。
"今からぁ?!"
なんて連れない返信をしてみる。足はすでに表通りにタクシーを探しに向かっているというのに。
"明日休みだろ。特別にマッサージさせてやるから。俺のファンだろ?良かったな。"
"友達です。トモダチ。ご飯たべちゃったしなぁ。"
"なんか都合悪いの?"
私の連れない返信に本当に不安になってきたらしい。
"ないよ。今タクシー乗った。"
"なら、素直に来るって言え!"
言えないよ。
素直になんか。
会いたかった。
会いたくて苦しくて限界だった。
今すぐ行く。
今すぐ会いたい。
そんな風に言ったら、ケータは困るでしょ。
そんな本音の変わりに、変な顔文字でも送ってみる。さとられない様に。ファン以上の気持ちがある事、上手に隠せる様に。
だけど、もう限界は近いって思う。
一瞬でも気を抜けば、ケータへの想いは溢れだしてしまう。ケータとお友達でいられる時間はきっと、もう残り少ない。
「早かったな。」
扉を開けてくれたケータは、お風呂上りの様に見えた。首にタオルをかけ、髪の毛は濡れている。
さっき飲んだビールが逆流でもしたかの様に胸の奥がカッと熱くなる。
だけど私はその熱をひた隠す。
「ほんと。マッサージにはちょうどいい時間じゃない?」
皮肉を込めてそう言ってやる。
「マッサージ、してくれる?」
普段は余裕で大人な態度のケータなのに、こういう時は上手に甘えてくる。
ケータって何者?
断れる女がいたら見てみたいわ。
ベッドにうつ伏せに寝転がるケータ。
「やべ~。2秒で寝そう。」
「いいよ、寝て。マッサージ終わったら叩き起こすから。」
「サンキュー♪」
ケータの広い背中に指を這わせる。...なんか全部固いんですけど。これ、コリとかじなくて筋肉なんじゃ...。それでも、何とか指を食いこませていく。
「う~。すげ~、いい...。」
あ、これでいいんだ。
良かった。
ウトウトしながら呟くケータは妙に色っぽい。
広い肩幅、筋肉質の腕、無防備な横顔。
久々に見たケータは少し痩せたかな。何だか、いつも以上にドキドキしてしまう。
ドキドキすると同時にこういう気持ちは罪悪感というのかな。ゴッホの原画に直に触れている様な罪悪感。
触っちゃダメだよ。
近づいたらダメだよってわかっているのに、触れたい衝動に逆らえない。
しばらくすると、スースーと気持ちの良さそうな寝息が聞こえてくる。疲れてるんだな。
寝かせてあげよう。
一通りのマッサージが終わったら、電気を消して寝室を出る。
ケータの背中は広かったな。
もう少し触れていたかった。
でもあれ以上傍にいてしまったら、自分の気持ちが制御されなさそうで怖かった。
そしてケータから離れることで、芽生えてしまった罪悪感を打ち消したかった。
さて、どうしようか。
あの様子じゃ、ケータは朝まで起きないかもしれない。
帰るか...ここにいるか。できれば帰りたくない。
でも...。
私はゆっくりと今日の事を振り返っていた。佐々木が私の事を想っていてくれていたなんて、知らなかった。今日告白された事で、確実に私の中の佐々木の存在は大きくなった。
私はちらっと寝室に続くドアを見やる。
けれど、やっぱりケータの存在とは比にならない。
もう、どうしたらいいのかわからない。私がこんなにケータを好きだと、ケータが知ったら、この関係はどうなってしまうのだろう。
この先1パーセントでも、ケータが私を好きになってくれる事なんてあるのだろうか。
ハァ...と、今日何度目かの深いため息をついたその時、リビングのドアがバン!と勢いよく音をたてて開く。
「わ!びっくりした!」
反射的に叫んでその方を見ると、ケータが立っている。
「え?なに?どうしたの?夢でも見た?」
「...んだよ。」
「へ?」
「叩き起こすって言ったろ?」
「でも、気持ちよさそうに寝てたし。」
「はぁ...びっくりした。」
「いや、私がびっくりしたよ。」
「帰ったかと思った。」
一瞬見せたケータの切なげな表情に、胸が高鳴る。
カチカチカチ...と、時計の針の音が私の心臓の音に重なってうるさい。
「...帰ろうと思ったけど、帰らなかった。」
「...なんで?」
「なんで?なんでって...ちょっと考え事してて...。」
「考え事?なんだよ。あ、ちょっと待って。その前にメシ食うわ。腹減った。」
突っ込まれるかと思って、身構えた私は思わず、ズコーだ。
昭和的に。
思いっきりズコーだ。
まぁ結局、ケータにとって私はその程度の人なんだろう。
「私、ご飯食べたから付き合えないよ。」
「うん。酒飲んできただろ?」
「え!?わかる?くさい??!」
「ついでに焼肉のにおいもする。」
「え!ちょ...やだ!」
ケータがプッと笑って、お前らしいじゃんと呟く。
私らしいって何だよ。
ケータの中でどんな印象なんだよ、私。
「飲み会だったの?」
「うん...まぁ、飲み会というか、同僚の命を救ったお礼におごられてた。」
「ふ~ん。」
ケータは聞いているのか、いないのか、適当な相槌を打ちつつ、手際よくご飯を盛り付ける。
今日のメニューは牛タンシチュー♪美味しそう!
「忙しいのに、いつこういうの作るわけ?」
「これは時間ある時に大量に作って、冷凍だよ。タンシチューなら圧力鍋が勝手に作ってくれるし。」
「へぇ~。」
「忙しいと言えば、お前バイトしない?」
「バイト?」
「そう。俺の部屋の掃除。もう年末年始は掃除する気になんない。かといって、業者に依頼するのも、どんな奴が掃除してるのかわからなくて気分的に嫌だしな。」
「バイトなんてカッチリ決まってるのは困るけど、時々来て、片づける位ならいいよ。」
「じゃ、これ渡しておく。」
手渡されたのは、部屋の合鍵。
「いっ!?いや、いいよ!ケータがいる時にやるよ。ケータが寝てる時とかさ。」
「うん。それでもいい。でもとりあえず持ってろよ。」
キーホルダーも何もついてない、裸の合鍵。
...何か、嫌だ。
何か期待してしまう自分が嫌だ。
期待してしまっても...いいのかな?
「じゃ、...預かりま~す。」
両手でしっかりと握りしめてみる。男の人の家の合鍵をもらうのなんて、初めてで緊張する。
それもケータの家の合鍵なんて。
「じゃ、これご褒美。」
私の前に置かれたのは、お皿に可愛く盛られた小さなケーキ。
「うわぁ♪可愛い!」
「スイーツなら、食べれるか?」
「作ってくれたの?」
「買ってきたの、盛っただけだけどな。」
「でも嬉しい!」
もうご飯を食べてきたという私の為に、ケータが買ってきてくれたケーキ。何だか、鍵といい、ケーキといい、今日の私は幸せすぎて、ちょっと怖い。
私の存在はケータにとって、少しだけ特別になれたんじゃないかと自惚れてしまう。
浮かれてしまう。
「いただきま~す!」
ケーキにパクつく私を見つめるケータの目は、優しい。
「...で?考え事って何?」
「え?」
「さっき、考え事してるって言わなかった?仕事の事?」
「あ~...」
幸せな時間過ぎて、忘れていた佐々木の事。
ごめん、佐々木。
でも、どうやってケータに伝えたらいいんだろう。私が言いあぐねていると、ピンポーンとインターホンが鳴る。
「ん?お客さん?」
「いや、ここは正式な住まいじゃないから、誰も来ないはずなんだけど...。」
と言いながら、インターホンを確認したケータの体が、一瞬ビクッとこわばるのがわかった。
...何?
誰?
とてつもなく嫌な予感。
ケータは無言で玄関に向かう。その横顔は険しい。
嫌だ。
ケータの心臓の音が聞こえてきそうな程の緊張感。
何?
誰?
私はソファに座ったまま、動けない。
がチャッと扉が開いた音のすぐ後。聞こえてきたのは、澄んだ女の人の声。泣きそうな程の切ない声で
"ケイ...!"と...。
絞り出した様な、かすれた声。
そんな声を聞いた瞬間、その声の主が誰かわかってしまった。
あの人だ。
ケータが別れを強烈に後悔していた、あの彼女だ。
フォークを持つ手が震える。
どうしよう。
私はここにいちゃいけない。
どうしよう。
ケータの声は聞こえてこない。
突然現れた彼女の存在に、私も動揺を隠せない。
ケータは...。
きっと彼女と話をしたいはずだ。会いたくて会いたくて、やっと会えた彼女なのだから。
二人はやっと、会えたんだ。
何度、よく考えても、私が邪魔をするべきじゃない。私はここに居ちゃいけない。
たまらなくなった私はフォークを置き、自分の荷物を全て手に持った。
意を決して、二人のいる玄関に飛び出すと、その光景は衝撃的だった。
ケータの広い背中に、彼女の細い手が回っている。たくましい背中に、白い手がよく映える。
ズキッと私の胸の痛む音が、そこら中に響き渡りそうだ。
ひるむな私!
「あの!」
突然の大声に抱き合っていた二人はパッと離れる。私の姿を確認した彼女の目は見開く。
...こんな状況でなんだけど。
なんて綺麗な人なんだろう。決して派手じゃないのに、パッと人目をひくような顔立ち。
真ん中で分けられた髪は、そのまま真っ直ぐストンと肩まで落ちている。上品で大きすぎない澄んだ瞳は、涙で潤んでいる。
「あ...違います!私は掃除のバイトの者で!すぐに帰りますから!大丈夫です。口外はしないので!」
早口でそれだけ言うと、ポカンとしている二人の横を潜り抜ける。
「あ、おい!」
「失礼します!」
ケータの声が追ってきたけど、私の足は止まらない。
大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫。
何かの呪文のように呟きながら、ガクガクする足を何とか前後に動かす。
エレベーターホールを抜けて、受付を抜けて、どうにか表通りにたどり着く。
心臓が痛い位に脈打っている。
何、期待しちゃってんの。
そんな訳ない。
最初からわかっていた筈だった。
そう。
最初から。
だから、私は大丈夫だ。
ケータがあの人を好きだって事は知っていた。
だって、あの日、オリオンがケータだと分かったあの日。
ケータ自身が教えてくれた事だ。
あの日のケータの言葉を思い出す。
―じゃあ、好きなのかもな。-
そうだよ。
なんで忘れていたんだろう。
いや、忘れてたんじゃない。
忘れようとしてたんだ。
考えたくない現実から逃げていたんだ。
同じ言葉なのに、どうして今はこんなに苦しくなってしまうんだろう。
私はケータの友達だし、掃除のバイトだって本当の事だ。
嘘はついてない。
大丈夫。
まだまだガクガクする足を引きずりながら、一つ一つ確認する。
彼女に誤解されるような事はしてないか、私の気持ちがバレる様な事は言ってないか。
大丈夫。
してない。
大丈夫。
表通り。
まだ車は多いけど、まもなく12時をまわろうとしている。
早く帰らなくてはという思いとは裏腹に、足がついていかない。
どうやっても足が動かなくなって、バス停のベンチに腰かける。
でももうバスは来ない。
時刻表によると、10分程前に行ってしまった様だ。
ちょうど、彼女が訪ねてきた位の時間。彼女はこの最終バスに乗ってやってきたのだろうか。
別れる前の様に。
ケータに会いに。
考えたくないはずなのに、彼女の気配を追ってしまう。
二人の歴史を感じてしまう。
そもそもケータは、私に彼女を投影してると言っていた。
初めから。
今までの優しさ全部、私自身に向けられたものじゃないんだ。
それなのに私は舞い上がってうぬぼれて…。考えれば考える程、恥ずかしくて悲しくて手足の先から血の気がひいていく。
反射的に指先を温めようとポケットに手を突っ込むと、冷たくて固い感触。
愛しくてたまらない、あの人の部屋の鍵。
...どうすんだよ、これ。
これから、どうなるんだろう。彼女とヨリが戻っても、友達でいられるのかな。
ううん。
友達でいられないのは、私の方だ。
友達でいられるはずがない。
もうこの想いは隠せない。
やめよう。
もうやめよう。
はぁっと吐き出した息は、あっという間に白い水蒸気に変わる。
凄い一日だった。
こんなに色んな事が起きる一日は、私の人生においても、もうないだろう。
そしてこんな日も、悲しい位にオリオンが目につく。
いつもと変わらず光り輝くオリオン。
あなただけは。
ずっとずっと変わらずにそこにいて。
私の事は、見えなくていいから。
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