第14話
死ななければいけないと考えているのに精神科を受診することは、死のうとしているのに生きるための行動をとっているということだから矛盾するが、私にとっては死にたいという気持ちを持ちながら、先生に会いたいと思って受診することは矛盾してはいない。
私は、縊死するためのビニール紐をバッグに入れて、家を出た。本当は刃物を持ち出したかったが、法律に反することはできないという理性が働いたし、刃物で失敗なく自分を切りつけるのは難しいことを、今までの自殺未遂の経験から知っていた。診察室で、先生の目の前で自分の首を切りつけたいのはやまやまだったが、失敗が先に立つ気がしてならなかった。刃物を取り出した時点で先生に取り押さえられたり刃物を奪われたりしたら、警察を呼ばれて以後出禁になる可能性が高い。死ねないうえに先生に二度と会えなくなったら、生きることが今以上の地獄になってしまう。
だから、持ち歩いていても法律に抵触しない、ビニール紐を選んだ。縊死ならおそらく完遂できる、とこれも過去の自殺未遂の経験から考えた。
いつも通り二時間かけて精神科病院に着いた。
病院の周りは小さな林のようになっている。周りを見回して適切な木を探したが、見つからなかったので病院の中に入った。
受付を済ませ、自分の呼び出し番号を確認した。201番だ。呼び出し番号が表示されるディスプレイを見ると、間もなく自分の順番が来てしまう。急がなければならない。
病院のトイレが適切だろう、と以前から目星は付けていた。病院のトイレには、自殺防止のためか手荷物を引っかけるフックが無い。しかし便器の横の低い位置に手すりがあるので、そこに紐を引っかけるのが適切だ。バッグから紐を取り出して手すりに輪っかを作って結び付け、輪の中に自分の首を突っ込んで体重をかけた。低い位置の手すりなので、地面に足が付いてしまうが、腰が浮く程度の高さではあった。全体重をかけることはできないが、上半身の体重が首にかかった。
苦しくなく頸動脈を締めることができる位置に首の紐を調整した。ふわっとして、心地よい感じに気が遠くなるのを感じた。これなら行けそうだ……。先生に看取ってもらおう……。
「201番の方、201番の方いらっしゃいますか!」
真っ白い意識の中で、女性が大きな声で呼びかけているのが聞こえた。私の番号だ。先生に会える順番が来たのだ。先生には会いたい。
ドンドン、と私がいるトイレの個室が叩かれた。私はふわふわと血の気が引いた世界でそれを他人事のように聞いていた。
「入っていますか?ちょっとごめんなさいね、上から覗かせてもらいます。」
そうして、男性看護師が上からのぞいて私が首を吊っているのが見つかってしまった。
「ああ、大変だ、中に入ります!」
男性看護師が扉を乗り越えて個室に入ってきた。
「すみませんね、お身体支えますよ!鍵開けます!はさみ、はさみあります?」
狭い個室で男性看護師に抱きかかえられ、女性の看護師が持ってきたはさみで紐が切られた。
「息できてるね?立てるかな?バッグとかお手荷物ね、あとで持っていくから。」
男性看護師に支えられて個室の外に出されてしまった。
「診察、今から診察ね。診察室にベッドあるから、横になってていいから、診察受けられる?」
「はい……」
小声で私は返事をした。そしてひとりで歩いて、先生がいる診察室に入った。
「こんにちは。」
先生はいつも通り私に挨拶したので私は黙って頷いてベッドではなく患者用椅子に腰かけた。
「トイレにいらっしゃったんですって?どうしてそんなことしたの。」
先生は幾分慌てているようだった。
「先生に看取ってほしかったからです。」
「看取るの嫌だよ……。」
先生は、本当に心底嫌そうに言った。医師の立場として言っているのではなく、本当にひとりの人間として看取るのが嫌なんだと感じられた。
「病院内で危険な行為をするなら、もう診察することはできないよ。」
「それは嫌です。」
「だったら二度とこんなことしないで。」
私は黙っていた。
「私が死ぬと先生の査定とかキャリアに傷が付くんですか。」
「……」
先生は黙って頭を振った。
「この病院じゃなくても、診てくれるところはほかにもたくさんあるから。」
「嫌です。転院はしたくないです。」
「じゃあご自身を傷つけるようなことをするのはやめてください。」
「わかりました。病院ではしません。」
「病院でなくてもしないでね。」
私は数秒の沈黙ののちに言った。
「先生に触れたいです。」
「……触れることができたらもう危険なことはしないですか。」
「はい。」
「こちらに来なさい。」
私は先生の膝の間に跪いた。
「今日は直接は触れさせない。」
そう言って先生は白衣のボタンをはずして前をはだけると、私の頭を両手で包み込み、ズボンのチャックのあたりに私の顔を押し付けた。
私は先生の促すままに身をゆだね、呼吸を荒くして、先生の男性器の匂いを嗅いだ。温かくて少し硬くなっているのを感じる。
私はたまらず両手を先生の腰に回して抱きしめた。しばらくそのままにしていたが、やがて先生は私の手を取って腰回りから離すように促した。
「もうおしまいだよ。」
子供に問いかけるように先生が言った。私は先生から離れることができずにいたが、先生が私に構わずPCを操作し、処方箋のプリントアウトを始めたので私は自ら離れることにした。
「もう危ないことはしないでね。」
先生は右手を口元に添えて、秘密をささやくようなしぐさで言った。
私はまた意識が遠のくような気がした。
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