第12話

 診察で一言も話さないとどうなるだろう。そうするとおそらく診察を切り上げられてしまうだろう。さすがに二時間かけて病院に来て、五分未満で診察を切り上げられてしまうのはつらく、先生を試す要素が強すぎる。私は先生のことを試したいが、あからさまに試すことはしたくない。

 診察を切り上げられないぎりぎりの線で、最小限のことしか言わないようにしよう。「調子はどうですか」と聞かれたら、「薬を飲んでいれば大丈夫です」と言う。とにかく「薬を飲んでいれば大丈夫です」だ。そういう言い方をすれば処方箋すら出してもらえないという最悪な事態は避けられるだろう。「薬を飲んでいれば大丈夫です」「薬を飲んでいれば大丈夫です」「薬を飲んでいれば大丈夫です」私は何度も頭の中でこの言葉を繰り返し唱えた。

 やがて診察の順番が来た。私はできるだけ話さない、「薬を飲んでいれば大丈夫です」と沈黙の中で再び唱えて診察室に入った。

「こんにちは。」

 いつものビル・エヴァンスのような佇まいの先生が身体を診察室の机に向け、顔だけをこちらに上げて言った。

 私は黙って頷き患者用の椅子に座った。

「体調と気分はいかがですか。」

 前回の診察では激昂していた先生だったが、今は落ち着いているように見えた。私は、想定通りにこう言った。

「薬を飲んでいれば大丈夫です。」

 先生は少し目を見開いて、数秒の沈黙のあと、上目遣いで遠慮がちにこう言った。

「怒ってる?」

 私は黙って首を振った。

「大学での学校生活はどうですか。周りの学生さんたちとうまくいっていなかったようだったけれど。」

 私は黙って先生の白衣のボタンのあたりを見つめていた。

「話せないですか。」

 私はここではっきり言っておこうと思った。

「自分のことを話したくないです。」

「話したくないことは無理に話さなくても良いですが、どうして話したくないと思うのですか。」

「精神科の先生は患者の話を聞きたいとは全く思っていないからです。」

「どうしてそう思ったの?」

 私は沈黙した。

「私はあなたの話を聞きたいを思っています。それが本心です。」

 診察室で医師が言う本心は、医師としての本心で、ひとりの人間としての本心ではないだろう、と思った。

 私は黙って、こうしている間にも先生の股間には男性器があって、陰嚢は熱を逃がすために波打つように不随意運動をしているのだな、この前見たときには皮は被っていなかったけれど今は皮を被っているのかな、少なくとも今日1回は先生は自身の陰茎を触っているのだな、などと考えて先生の白衣に隠れた両足の付け根のあたりを見つめていた。

「薬を飲んでいれば大丈夫、とおっしゃったけれど、薬を出せばそれだけでこの先もうまくいく、とはわたくしは考えていません。」

 私は黙ってずっと先生の陰茎と陰嚢のことを考えていた。

 しばらく沈黙が続いた。私は、黙っていれば先生は早く診察を切り上げるのではないかと思っていたので、診察がなかなか終わらないことが意外であり、安堵もしていた。私は沈黙のままただ先生と見つめあうだけの診察でも構わないのだ。

「お話……」

 と、言いかけたところで先生が自身の口を手で押さえた。何が起こったのだろうと見つめていたら、

「う、おええええ」

 先生が嘔吐してしまった。白衣に吐いたものがかかり、床にもビタビタと音を立てて飛び散った。私の靴にもそれが少しかかった。

「うえええええ」

 先生はまだ吐いていた。吐いたものはほとんど固形物のない液体で、胃液のようだった。

 私はその様をじっと見つめていた。先生が身体的に追い込まれている様は、野生の動物のようで甘美であった。いつも身ぎれいにしている先生が、汚物まみれで身もだえしている様はより一層美しく見えた。先生の身体全体が男性器になったようで抱きしめたかった。

「はあ、はあ、失礼しました。ごめんなさい、本日の診察はここまでにしますね、二週間後の予約をお取りしておきますね。」

 余裕がない中でやっとのことで言葉を発する先生の様を、私はじっと見つめた。

「申し訳ないです。感染症のリスクがありますから、手洗いをよくしてください……」

 先生の様子をまだまだ眺めていたかったが、看護師さんを呼ばなければならないと思ったので、私は立ち上がり、スタッフステーションへと向かった。

 




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