第10話
もう診察では最小限のことしか話さないようにしようと心に決めた。
処方箋と診断書さえ書いてくれればそれでいい。やはり精神療法に期待したのが間違いだった。
心に蓋をして何も感じないようにしよう。先生だけではなく、世の中の人には何も期待しない。期待するから裏切られて怒りが湧く。期待しなければ裏切りも何も無いから怒りも湧かない。
そう決めると心は波一つない
午前の講義を終え、大学構内のカフェテリアに向かった。人混みが苦手なので、いつもはランチタイムにカフェテリアを利用することは無いが、人に期待しなくなった自分を試したかった。きっと人混みも平気になっているに違いない。
食券を買い、カレーライスを受け取って席を探した。
案の定混雑している。カフェテリアの中心にパキラなどの複数の観葉植物が小さな森のように配置されており、その周りを取り囲んでいる大きな円形のテーブルに空きがないか目を遣った。
「あ、席探してる?ここ空いてるよ。」
見覚えのある男子学生が手招きして声をかけてきた。同じゼミの子で、ジョン・バティステぽいと思っていた子だ。名前も覚えていないし特に親しいわけでもないので逡巡したが、隣に座ることにした。
「混んでるよなー。カレーライスうまそ!俺もカレーにするか迷った。」
「うん。」
私は小さな声で同意した。
「あ、声かけて大丈夫だった?」
「うん。」
「ゼミ休みがちじゃない?心配してるよ、みんな。」
「うん。大丈夫。」
私はものを食べながら話すのが苦手だった。でもこの子は勝手に話してくれるので頷いているだけでよかったから楽だった。
「俺来週発表だからさ、やばいわー。こないだ教授に泣かされちゃった子いてさ、焦ったー。」
「そうなんだ。」
私はカレーライスを一生懸命食べた。無料で飲み放題の温かい緑茶は、無くならないように少しずつ飲んだ。
「髪の色、きれいだね。」
「そう、ありがとう。」
「日に透かすと少しピンクっぽくてかわいい。」
「ありがとう。」
髪の色にはこだわっていたので、褒められて悪い気はしなかった。
「ゼミの発表の順番回ってきたら、俺準備手伝うよ。バイト無い日なら暇だから。」
「うん。ありがとう。でも大丈夫。」
私はありがとうばかり言っていた。
「インスタ交換しない?これ、俺の。」
「うん。あ、これ私の。」
インスタは誰に見られても良い内容しか投稿していなかったから、特に抵抗もなく交換した。
学生の子とは久しぶりに話した。いつも話し相手といえば先生ばかりで、先生との会話ではいつも気が張り詰めて自分の存在が消えていくような気持ちだったから、気の抜けたような会話は新鮮だった。
「俺、靖国通りの方のダイニングバーでバイトしてるから、今度来てよ。これ、店のインスタ。」
「うん。」
「午後の講義だりいなー。」
「うん。」
「よく休んでるけどさ、身体弱いん?」
「うん。」
「俺の妹も身体弱くてさ、大変だよな。お大事にな。」
「うん。」
私はカレーライスを食べ終わっていた。
「そろそろ行きますか。」
「うん。」
「持つよ。」
私のカレーライスのトレーを持ってくれた。そこまでしなくていいのに、と思った。
「じゃあねー。あとでDMするねー」
カフェテリアを出たところで、彼は大声で言った。私は黙って手を振って別れた。
人に期待をしないとどうなるか試すつもりだったが、思わぬ出来事だった。ジョン・バティステ系の彼は私とセックスしたいと思っているのだろうか。誰であれ、性的な目で見られることに私は抵抗が無かった。
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