第9話

 先生には、処方箋と診断書以外何も期待できない。ネット上の精神科医たちの振る舞いを見たところ、これは私の先生だけに限ったことではなく、全ての精神科医に言えることだと思う。すなわち、精神療法には期待できない。

 今まで生きていて、人生における悩みが解決したこともあったが、その要因は精神科の診察によるものではなかった。今まで私を助けてくれたのは、マイルス・デイヴィスやジョン・コルトレーンやマッコイ・タイナーやビル・エヴァンスなどの音楽や、サルトルの書籍だった。私は音楽や書籍に相当する効能を精神療法に求めていたが、どうやらそのような効果は精神療法にはないようだ。先生も「できることは何もない」と言っていたので、確かだろう。

 私は診察室にいた。

「こんにちは。」

 先生の挨拶には答えずわずかに頷き、先生の三白眼の白目の部分を凝視した。

「調子はいかがですか。」

「人間関係がうまくいきません。周りの人に何も頼れません。」

「頼ることが難しいのは理解します。あなたと同じ病気を患っている方たちにとって、周りの人に頼ることは燃え盛る梯子を掴むような苦痛を伴うものだそうです。しかし、少しずつでも周りの人に頼ることが必要です。」

「周りの人に頼ることは難しいです。」

 私は率直に答えた。難しいからどのようにしたらいいのか教えてほしいと思った。

「じゃあ、どうするんだよ!」

 先生はガラス玉のような冷え切った目を見開いて声を荒げた。私はすっかり萎縮してしまった。

「人に頼らないとよくならないんだよ。頼れる人ひとりぐらいいないんですか!」

「頼れる人はいません。」

 私は努めて冷静に返した。

「あなた診察に何を求めているんですか!」

 先生は人を刺し殺しそうな目で私を見て言った。先生はたびたびこの質問を私に投げかける。

「どのように人に頼ったら良いのか、頼り方がわからないのでやり方を教えていただきたいです。」

「そんなのわからないよ!」

 話が通じないようだった。先生は、見た目はビル・エヴァンス似で冷静沈着そうなたたずまいなのに、実際はすぐに冷静さを失う人だ。

 私は先生の永遠の愛を得たいと思っているが、先生と結婚生活を送れるかというとそれは困難だと思う。なにがきっかけで冷静さを失うのかわからない人と平穏な結婚生活は送れまい。それとも先生は奥様にはモラハラせずに愛を込めて接することができているのだろうか。寝不足のときや、車で道に迷ったときや、駐車場が見つからないときも、先生は奥様には優しくできるのだろうか。

 先生が毎日満足するような食事をつくることも私にはできないだろう。先生はいつも仕立ての良い白いシャツを着て普段は話し方が丁寧だし母親に甘えるような目をしているから、おそらく育ちが良くマザコンだろう。義母はお金のかかる私立ではなく東京の国立医学部を出て医師として働いている、かわいい顔をした息子のことを溺愛しているだろうと容易に推測できる。義母との付き合いも私にはできるとは思えない。

 私の感情は高ぶらず、頭のなかは冷え切っていた。しかし先生が恐ろしくて診察室が斜めに歪んで見えた。

 先生が何かを言っていたが聞こえなかった。

 二週間後の予約が取れたことはわかった。


 

  

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