第8話
「こんにちは。お待たせしました。」
私はいつものように黙って頷き、診察室の椅子に腰かけた。
「体調と気分はいかがですか。」
私は沈黙した。
2~3分経ったころ、先生が口を開けた。
「体調が悪いですか。」
「納得がいかないことがあります。」
「なんですか。」
「米国では、堕胎する権利を認めろという運動が起きています。堕胎というのは命を終わらせる行為で、日本では全国で認められています。でも、私が死にたいと言うと死ぬのを止められます。堕胎は行っても良いのに私が死んではいけないのはなぜですか。」
「堕胎する権利を認めようという運動は、一般論によるものです。」
先生は一般論という言葉をよく使う、と思った。
「一般論では堕胎が認められていますが、わたくし個人は、あなたに死んでほしくないと思っています。」
私は、先生が言う「死んでほしくない」という言葉は信じないことにしていた。医師という立場上、そう言わざるを得ないということは理解するが、本心では私が死のうがどうなろうが知ったことではない、と思っていると思う。本当は、本心から私に死なないでほしいと思ってほしい。でも、それは多分無理だから、傷つかないために、私は自分に「先生は私が死んだらむしろ喜ぶ」のだと言い聞かせていた。
「あなたは、診察に何を求めているの。」
先生は語気を強めて言った。
「精神療法です。」
私のことを妊娠させてほしい、というのが本音だったが、素早く非の打ちどころの無い返答をした。我ながらよくできたものだ。
「できることは何も無いよ。」
期待外れの返答だった。先生はまたもやご自身の能力の限界に達したようだった。精神科医に精神療法を期待してはいけない、処方箋と診断書を書いてもらうこと以上のことを求めてはいけない。私はそのことを思い知った。
「私は先生の精神療法にお金を払っているのですが、精神療法ができないのですか。」
率直に質問した。
「そうですね、訂正します。できることはなにも無いと申し上げましたが精神療法はいたします。しかし、それだけではよくなりません。何度も申し上げている通り、あなたには周りの人に頼れるようになることが必要です。」
先生は少し冷静さを取り戻したようだった。先生は私の言葉で追い込まれるとすぐに能力の限界に達してしまい、感情的な話しぶりになってしまう。患者である私の方がよほど冷静だと思う。
私も余裕があるわけではなく、先生と話すときは常に全力だ。言葉で殴り殺すつもりで話している。その甲斐あって、先生は追い込まれた姿を私に見せてくれる。ただし私にも矜持というものがあり、言いがかりや無暗に先生の気持ちを煽るようなことは言わないようにしている。
「また二週間後の予約をお取りさせていただいてよろしいですか。」
先生は丁寧に述べた。私は黙って首肯した。
先生は精神科医だから、私が本当は私のことを妊娠させてほしいと思っていることに気付いているのだろうか。気付いていてほしいが、私はそのことを決して口に出すまいと心に決めていた。
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