第5話

 前回の診察で、先生のことを刺したいと言葉にして伝えたら、いったん満足できた。当分先生を刺すことはしないだろう。

 私はまたサングラスをかけ、電子書籍を手に待合室にいた。以前通りすがりに私のことを品定めしていた男性看護師がスタッフステーションにいるかどうか見回したら、こちらを向いて立っており、彼は私を認識して会釈した。私も軽く会釈を返した。私にとっては、これで十分すぎるほとの人とのコミュニケーションだ。人と言葉を交わそうものなら神経をすり減らし、異常なほど疲れてしまう。彼はよく見るとロマンスグレーの髪と涼やかな目元で見た目は悪くない。好ましい見た目の人物と、コミュニケーションを取れたことに私はまた満足した。

 いつものごとく私の呼び出し番号が呼び出されたので、診察室に入った。

「こんにちは。」

 挨拶に私は答えもせず先生のうなじに見入っていた。

「前回はわたくしのことを刺したいとおっしゃっていましたが、今はいかがですか。」

「今すぐには先生を刺そうとは思いません。」

「わかりました。何か話しておきたいことはありますか。」

「私の脳の中で、何が起こっているのか知りたいです。私の脳の中でどのような物質が足りなくて、逆にどのような物質が多すぎるのでしょうか。」

 すると先生は一寸逡巡したようなそぶりを見せて言った。

「わかりません。」

 予想していた答えではあった。わからないのにとってつけたような答えを言われるより、わからないことはわからないと言われた方がよかった。

「お答えできませんが、よろしいですか。」

「大丈夫です。」

 私は、先生の「わからない」という言葉を聞くことができて満足だった。先生が「わからない」ことを質問できたことにも満足だった。東京の国立医学部を卒業した優秀でいかにも育ちのよさそうなビル・エヴァンス似の先生が、脳を限界まで回転させても答えを導きだせない様に、私の欲望は満たされる。

 先生のことを困らせたい。能力の限界を感じてほしい。能力の限界を迎えている様を私に見せてほしい。

 私は人のことを愛せない。自分のことも愛せない。

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