第4話

 診察の日がやってきた。午前中の講義の間はうわの空で、診察で何を話すか考えていた。午後の講義は何も履修していない。

 私は、先生のことをいつ刺してもおかしくないと思う。今はまだ、うつ病になるほど自分を追い込んで受験勉強して入った大学の学生という身分があるから、かろうじて守るものがあるが、それも失って、なにも守るものがなくなったら、刑務所に入ってもいいから先生のことを刺したいと思う。そのことを話そう。

 午前の講義を終え、ビル・エヴァンスのYou Must Believe in Springを聴きながら病院に向かう。まるで先生がピアノを弾いているみたいだ。

 病院の待合室に入り、ヘッドフォンを外した。入院患者と思われる人々が一列になって廊下を歩いていた。私は、俯いて待合のソファに腰かけた。

 電子書籍でプラトンのメノンを読んでいて、ふと目を上げると通りすがりの男性看護師と目が合った。一瞬で、私のことを品定めしたな、と思った。

 間もなく待合室のディスプレイに私を呼び出す番号が表示された。

 あれから二週間、先生は私のことなど一秒たりとも思い出さなかっただろう。私は先生のことを片時も忘れたことなどなかったのに。

 診察室に入ると、先生がいつものように椅子に腰かけていたが、髪がさっぱりとしていた。散髪する時間があったのだろう。

「こんにちは。」

 私は無言で頷き、診察室の椅子に座った。

「体調はいかがですか。」

 真っすぐな目で私を見つめながら、先生は言った。予想していた通り、いつも通りの先生だ。私は、質問に答えず押し黙っていた。先生は、じっと待っている。

「……先生のことを……」

「すみません。よく聞こえませんでした。もう一度おっしゃっていただけますか。」

「先生のことを刺したいです。」

「何か刺すもの、刃物などを今持っていますか。」

「持っていないです。」

「これは、警察を呼ぶ事態です。警察を呼んでいいですか。」

 先生が全身で私という存在を拒絶していることが感じられた。私のことを、おぞましく醜い化け物だとみなしている空気が診察室の中を支配していた。先生は目の前にいるはずなのに、10メートルぐらい遠くにいるような気がした。

「警察を呼んでもいいです。」

 本当は呼んでほしくないが、賭けだった。おそらく呼ばないだろうと思ったし、もし呼ばれたとしても、刃物も何も持っていない者が、「刺したい」と言っただけで逮捕されることはないだろう、と踏んだ。先生は、私が「警察を呼んでほしくない」と言うと思っただろう。その期待を裏切りたかった。

「あなたの意志はわかりました。今は、刃物を持っていないということですし、わたくしを実際に刺すことはしないだろうと思うので警察は呼びません。」

 賭けに勝った、と思った。


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