第2話
サングラスを外してバッグにしまい、身なりを軽く整えて、診察室に入った。
先生が座っている全身の姿が目に入る。
「こんにちは。お待たせしました。」
先生の挨拶に軽い会釈で答え、バッグを手荷物置き場に置き、椅子に腰かけた。
「この二週間、調子はどうでしたか。」
三白眼の目で真っすぐ見つめられて問いかけられる。私は押し黙ったままじっとしていた。
先生は横向きで顔だけをこちらに向けていたが、数十秒私が何も話さないことに違和感を覚えたのか、身体ごとこちらに向きを直した。
「話さないと診察ができないですよ。」
「具体的に質問してくださいますか。」
「……体調と気分はいかがですか。」
「体調は胃が痛いです。気分はずっと不安です。」
できるだけ出力を抑え、小声で話した。
「胃が痛いんですね。内科には行きましたか。」
「行きました。内視鏡検査を受けて、機能性ディスペプシアと診断されました。」
「大学には行けていますか。」
「……休むこともありますが行っています。」
「ほかに何か話しておきたいことはありますか。」
再び数十秒の沈黙のあと、私は口を開いた。
「先生は私のことを穢らわしいと思っていると思います。」
先生は一瞬驚いたように目を見開いた。本当に驚いたかどうかは疑わしいと思う。驚いたふりをしたようにも見える。
「どうしてそう思うのですか。」
「精神科のお医者様はみんな患者のことを穢らわしいと思っているからです。」
「そういう一般論、ということですか。」
「一般論でもそうですし、先生も私のことを穢らわしいと思っていると思います。」
「わたくしはそう思ってないです。」
「穢らわしいと思っているし、患者の話を全く聞きたくないと思っていると思います。」
「わたくしは、あなたが黙っているより、話してくれる方が良いと本心で思っていますよ。信じられないかもしれませんが。」
「だったら、私に触れられますか。触れられないと思います。」
「感染症の危険がありますから、あなたのことを守るためにも、触れることはできません。でもわたくしはあなたを穢らわしいとは思っていません。どうしてもわたくしがあなたのことを穢らわしいと思っていると考えることがやめられないのであれば、転院すればいいです。」
転院という言葉を聞いて、血の気が引くようだった。荒波にもまれてどこにもつかむところがないような心持ちだった。
「転院するのは絶対に嫌です!」
「わたくしはあなたが転院しても構いません。」
「先生以外の精神科医も全員、患者のことを穢らわしいと思っていると思います。だから転院しても同じことです。先生は私のことを見捨てるのですか。」
「見捨ててはいません。ほかに病院はたくさんあるので、転院すれば大丈夫ですよ。」
「転院したら先生は私に会えなくなるのですから、転院するのも私が死ぬのも同じですよね。」
「同じではないですよ。あなたが転院しても良いと思っていますが、あなたには死んでほしくないと思っています。」
死んでほしくないなんて、嘘だ、と思った。
「……私は、先生の汚い部分も触ることができます。」
「汚い部分、とはなんです。」
「先生の局部です。」
「……触りたいのですか。」
「触りたいです。」
「わたくしに触れたらあなたもう転院するしかなくなりますよ。それでもいいんですか。」
「それでもいいです。」
「こちらに来なさい。」
身体が重さを失ったようだった。私はいそいそと座っている先生の両足の間に跪いた。
「当直明けなので洗ってないですよ。」
先生は座ったままベルトをカチャカチャと外し、下着の前側をぐいと下して局部を露わにした。夢見心地で私は手も使わずそれを口に含んだ。
先生はやせ型で、髪もビル・エヴァンスのようにきっちりと整えており、いつも上質そうな白いシャツを着ていて、清廉で、まるで雄々しい局部なんて持っていないかのような印象を与える。それなのに、今、無防備なそれが私の口腔内にある。
すぐに先生の血流がよくなっていくのがわかる。
先生が私を見下ろしている視線を感じる。
「上手ですね。」
私は男性に褒めてもらえることがこの世で一番嬉しいことかもしれない。
先生の吐息がもれる音が聞こえてきた。
私がもっと苦しければ、先生はもっと心地よいはず。私は自ら自分の喉をもっと苦しめるようにした。先生に労力を割いてほしくなかった。私はどんな労力も厭わなかった。
やがて、不随意的な動きを舌の上で感じとり、温かいものが喉の奥に流れ込んでいくのがわかった。
「はい、大丈夫です。」
先生は何事もなかったかのように身なりを整え、椅子に座り直したあと、私のことをじっと見つめた。その視線には慈悲がこもっているようでもあり、物事の終りを告げるようでもあった。私も、洋服のしわを整え、元の椅子に座った。
「体調は大丈夫ですか。」
「はい、大丈夫です。」
「では次回の診察予約も二週間後にお取りしてよろしいですか。」
これで最後かと思っていたのに、先生は次回の診察の話をしてくれた。
私は黙って小さく頷いた。
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