第27話

主治医は珠月の状態について説明を始めた。

診断名は逆行性健忘ぎゃっこうせいけんぼうということだった。ある時点よりも以前の記憶をなくしてしまう症状だ。ここでいうある時点とは、つまりあの事故を指す。

「珠月さんの記憶障害が、未だに心因性によるものか、外傷性によるものかははっきりしていません。ただ、あまりに健忘の期間が長いため、今後の影響えいきょうを考えると良い状態とは言えないでしょう」

担当医は淡々たんたんとした表情で告げた。

「あの…」珠月の母はおどおどとした様子で口を開いた。「良い状態とは言えないとは、つまりどういうことでしょうか」

「このまま記憶が戻らない可能性もゼロではないということです」

担当医はきっぱりと言った。

「そんな…、あの、なんとかならないんですか」

「可能な限り、手は尽くします。しかし、逆行性健忘には現代でも完全な治療方法というのは確立かくりつしていません。それにまだわかりませんが、このままだと記憶が戻っても、以前の記憶の一部が抜け落ちたままになってしまったり、場合によっては長い記憶障害により無意識むいしきのうちに記憶の欠落けつらくおぎなうため、いつわりの記憶が形成けいせいされてしまったりということも考えられます」

「はあ…」

珠月の母は困った顔で湊人のほうを見た。どうやら珠月の母には、専門用語の羅列られつですでに話が理解できないでいるようだった。

「あの、珠月さんの記憶が戻る治療方法はあるんでしょうか」

湊人が担当医に訊く。

「逆行性健忘の治療であれば、やはり精神療法せいしんりょうほう主体しゅたいになるでしょう。ただ、今のところは、まだなんともお答えできません。今後も検査を続けて、その結果次第ということになるでしょう」

つまりは、今の時点ではなにも手立てがないということだろう。

これには湊人も落胆した。

なにか新しい情報があればと期待していたが、この経過説明でも、やはり湊人が知る以上の真新まあたらしいことはなにも聞けなかった。

また、准教授じゅんきょうじゅに聞いた解離性同一性障害かいりせいどういつせいしょうがいの可能性については、ここでは訊くのは控えた。両親ふたりに余計な心配をさせるようなことはあまり言わないほうがいいと思った。

珠月は今後も自宅療養じたくりょうようをしながら、定期的に検査を受けるらしかった。また、今後の治療方針ちりょうほうしんとして催眠療法さいみんりょうほうを検討しているということだった。だが、果たしてそれもどこまで期待できるものだろうか。湊人は訝しんだ。

待合室まで戻ると、湊人は珠月の両親にこれからアルバイトへ行くと告げ、病院をあとにした。

次の経過説明は、一週間後の十二月十三日ということだった。その際にもまた同席をお願いしたいと両親は言っていた。湊人はこれを了承し、ふたりと別れた。

いったい珠月の記憶喪失は、いつまで続くのだろうか。

湊人は珠月のことを思い、なにもできないでいる自分自身にいきどおりを感じずにはいられなかった。

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