第10話

珠月はその後、簡単な検査を受けた。

脳はいたって正常せいじょうに機能しており、健康な人のそれにすっかり戻っているようだった。

「どこにも問題はありません。記憶の欠除けつじょもいずれは戻るでしょう」

医師は検査のあと、珠月の両親と湊人へそう説明した。後日、改めていくつかの大きな機械を使った精密検査せいみつけんさを行うということだった。


両親は珠月の衣類などを取りに一度自宅へ帰ると湊人へ説明し、病院を出ることを告げた。

湊人は珠月の両親が留守るすの間、代わりに珠月に付き添っているとふたりへ伝え、ひとり珠月の病室に戻ることにした。

結局あのあと、拓海が戻ることはなかった。

こんな時、本当はいちばん近くにいてやるのが拓海の役目ではないのか。湊人はやりきれない思いを抱えながら、珠月の病室の前まで戻った。

病室のドアを開けると、珠月はやはり半身をベッドに起こし、病室の窓から外をぼんやり眺めていた。

珠月が湊人に気付き、湊人のほうを振り返る。

「お父さんとお母さん、うちへ北村さんの荷物取ってくるってさ」

「お父さん、お母さん…」

「まだなにも思い出せない?」

湊人が訊くと、珠月は顔をうつむかせた。

「うん…、全然。さっきのふたりがお父さんとお母さん、なんだよね…」

「そうだよ」

「あなたは?」

「おれ?ああ、おれは、友達だよ。大学の」

湊人は言いながら、やはり自分のことを忘れられてしまうのは切ないものだなと思った。

まるでこれまで珠月ときずいてきた日々、すべてを否定ひていされているかのようだ。これなら拓海の苦しみも、多少ならわからないでもない。

「友達…。そっか、ごめんね、思い出せなくて」

「気にしないで、そのうち思い出せるよ。だから、それまではゆっくり休んでればいいと思う」

「不思議だよね」

「なにが?」

珠月の言葉に、湊人は問い返す。

「だって、お父さんとお母さんも、自分のこともわからないのに、言葉はちゃんと覚えてる」

「うん、たしかにそうだね。行動と記憶は、脳に記憶されている場所が違うって、大学でこのあいだ習った気がするな」

「記憶されている場所?」

「そう。ついこの間、大学で習ったんだけど、記憶はものによって記憶される場所が違うんだって。正確には、脳で《記憶》として作られる場所が違うみたい」

「へえ、記憶って作られるんだ。なんか、変だね」

そう言って珠月は少し笑った。

珠月の笑顔をみた湊人は、記憶があっても無くても、自分の好きな珠月には変わりないのだと思った。その瞬間、こうしてまた珠月と話せることに、とても幸せを感じていた。

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