第9話

病室のベッドには、珠月が半身はんしんを起こしていた。

状態じょうたいは?」医師が珠月に付き添っていた看護師へ確認する。

だが、看護師は「いえ…、変わらずです」とひと言だけ答えた。湊人たちが席を外す間、なにも思い出すことはなかったということだろう。

珠月はぼんやりとベッドの横に活けられた花びんの花を見つめていた。それは今日、湊人が見舞いに持ってきた花だった。赤と黄色の花が組み合わさり、きれいに咲いていた。湊人は花には詳しくないが、病院に来る途中に寄った花屋の店員が選んでくれたものだった。花を見つめる珠月の表情ひょうじょうは、なぜかとても幻想的げんそうてきに見えた。

「珠月」拓海が珠月へ呼びかける。「おれだ、拓海だ。分かるだろ?なあ、珠月」

だが、拓海の声に珠月の反応はない。

「なあ、おいっ、珠月っ!」拓海は今にも珠月につかみかからんばかりの様子で、湊人はその肩を止めた。

「拓海っ、あんま無茶むちゃすんなよ」

拓海は相当ショックを受けているようだった。だがそれは無理もない。

そのとき、珠月が口を開いた。

「みづ、き…」

「え?」拓海は聞き返した。

「みづき…、それがわたしの、名前?」

「そうだよ、珠月。おまえの名前だ。おれのことわかるか?」

拓海はさらに聞く。

「…ごめんなさい。わからない。わたし、なにも思い出せない」

「珠月…、そんな…」拓海は信じられないといった表情を浮かべた。それから続けて怒りをにじませたようにいう。「ふざけんなよっ!なあ、おれたち、今まで一緒に過ごしただろう!これからもずっと一緒だって、何度も言い合ったじゃないかよ!なあ、珠月っ!」

「きみっ!いい加減にしないか!」

見かねた珠月の父親が拓海へ怒鳴どなった。

「珠月はまだ目覚めたばかりなんだぞっ!」

父親の怒声に、拓海は我に返った。

続けて弱々しく「…すみません」と言った。

「拓海…、いまは北村さんのこと、ゆっくり見守ってあげようよ」

「湊人、おまえになにがわかるんだよ…」

拓海はそう言い捨てると、病室をあとにした。

「拓海…」

自分の最愛の人が、自分のことを分からないということがどれだけショックなことなのか、湊人には想像もできなかった。

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