第5話

目的の病室に到着すると、病室の前の長椅子に拓海がひとり座っていた。

「拓海…、き、北村さんは…?」

湊人はあがる息をととのえながら問いかける。

拓海が湊人を見上げたが、拓海はすぐに首を左右に振った。

「命に別状はないって。でも、事故ってからずっと目を覚まさないんだ」

湊人はその言葉に、深いショックを受けた。

「声はかけてみたのか?」

「いや、面会は家族だけだって。いま、彼女の両親が付き添ってる」

怪我けがの具合とかは?大丈夫なのか?」

骨折こっせつとかは、奇跡的になかったって。軽い擦り傷だけですんだらしい。でも、はねられたあとの打ちどころが悪くて、頭に衝撃しょうげきを受けたみたいで。へたしたら、このまま目覚めないかもしれないって…」

そこまで言い、拓海の声は最後は消えるようにしてだまった。

このまま目覚めないかもだって?それは、北村さんが植物状態しょくぶつじょうたいになるということなのか。それは北村さんが死ぬということなのか。

湊人は意味がわからなかった。

つい数時間まえにふたりでパンケーキを食べたばかりなのに。笑顔でパンケーキを食べていた珠月の姿が浮かぶ。その珠月が、このまま目覚めないかもしれないだって?

湊人の中に、不思議と悲しみは湧き上がってこなかった。いや、受け止められていないのだ。湊人にはまだ、これが現実の出来事だとは到底とうてい思えなかった。

しばらくふたりで長椅子に腰掛け、無言のまま座っていた。

呼吸が落ち着いてくると、今度は湊人の脳裏のうりに珠月と過ごした日々が浮かんできて、やがて次々と今さらのように悲しみが押し寄せてきた。

大学に入り珠月と話すようになってからのことはもちろん、話しかける勇気がないまま、ただ遠くから見つめていただけの高校時代までも。

このまま北村さんが目覚めなかったら……。

そう考えると湊人は居ても立ってもいられない気持ちだった。

すると病室のドアが開き、ふたりの中年の男女が出てきた。珠月の両親だろうと思った。どことなく珠月の面影おもかげがふたりにはあった。ふたりの顔には、深い疲れの色がにじんでいる。

湊人は、あたし、ひとりっ子だから、そう言った珠月の言葉を思い出していた。

両親ふたりにとって珠月は、かけがえのないたったひとりの愛娘まなむすめなのだ。

「ええと、染川くんと言ったね。そちらは?」

珠月の父とおぼしき男性が湊人に目を向けた。

「珠月さんと同級生の神林です」

湊人は手短かに自己紹介し、頭を下げた。

「ふたりとも、わざわざありがとうね。よかったら、珠月に声をかけてやってちょうだい」

そう母親が言うと、ふたりはしばらく席を外すことを湊人たちへ告げ、廊下を奥へ歩いていった。

本来、珠月の状態であれば面会謝絶めんかいしゃぜつだが、両親が病院へ取りつくろってくれたようだった。

ふたりはおそらくこれからどうすべきかを話し合いたいのだろう。無理もない、湊人自身でさえ受け入れられないのだから、親ともなればなおさらだ。


病室に入ると、ベッドの上には珠月が眠っていた。鼻や腕には管がつながれ、頭には包帯が巻かれている。

生きている、というよりも、命を繋がれているという表現が正しいような姿だった。

眠る珠月の顔立ちは思ったよりも綺麗きれいで、こんな状態になる程の事故にあった後とは思えないくらいだった。

「珠月…、なあ、聞こえるか?目ぇ、覚ましてくれよ…。なあ、おい、珠月」

拓海が弱々しい声で恋人へ呼びかける。

しかし返事はない。ただ病室には珠月の生存を伝える電子音が等間隔とうかんかくに聞こえているだけだった。


どうして、北村さんがこんなことに…。


湊人は自身を責めずにはいられなかった。

パンケーキの店なんかに寄らなければ、珠月をちゃんと家まで送ってやっていれば、こんな事故は起きなかったのだろうか。そんな思いばかりが湊人の頭に浮かんでいた。

「北村さん、ねえ北村さん」湊人も珠月へ呼びかける。「起きてくれよっ、なあってばっ」

湊人は珠月へ呼びかけるうちに、涙が溢れていた。

だが、湊人の呼びかけもむなしく、珠月はやはり目を覚ますことはなかった。

それからしばらくして、珠月の両親が部屋へ戻ってきた。

「ふたりとも、もう遅いから、今日のところは帰りなさい。明日も授業があるだろうし」

珠月の父はふたりへそう言い、湊人と拓海はそれに従い帰宅することにした。

「また来ます」

湊人は両親ふたりへ言って、病室を出た。

霧のような雨が降り続き、外の景色はぼんやりとにじんでいる。空気は湿気を含んでいた。

病院をあとにすると、大通りに出てタクシーを拾い、拓海とふたりで乗り込んだ。拓海は運転手へ自身の自宅住所を告げると、あとはすっかり黙り込んでしまった。湊人は拓海にかける言葉が見つからず、ただタクシーの車窓から流れていく雨にけぶる夜の街並みを見つめた。

過ぎ去っていくビルの明かりや軒を連ねる家々を見つめながら、珠月のことを思った。

珠月は、本当にこのままもう目覚めないのだろうか。

湊人は拓海に悟られないよう、そっと目尻を拭った。

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