第八話 キルキス

 アーガストの王都キルキスは、剣聖グランの庇護が約束された地である。彼の力の前には、闇の勢力が付け入る隙は一厘たりともなかった。


 その守りに支えられて、王都は豊かな恵みにあふれている。

 大河と地下水がもたらす安定した水源。平野に整然と広がる都市の区画。人々は互いに安心し合い、活気あふれる商業と多彩な産業が根付いていた。


 町には陽気な音楽が鳴り響き、軽やかな歌声も混じる。昼間の市場には薬草や果実、剣や魔術具、さらには呪術に必要な怪しげなナニカさえもがずらりと並んでいる。

 キルキスは夜になれば街灯の光が安らぎを添える。夜の闇さえもこの地では恐れるものではなかった。人々は、キルキスを「安住の地」として愛し、そこに住むことを誇りとしている。


 そんな平穏の地に、剣鬼であるクロが現れた。流石の彼も、今は息を荒げている。


「…重かった、なんて言ったら引っぱたくからね?」

 カルネが少し挑発するように冗談を言う。


「何も…言ってないだろう…はぁ、はぁ。…流石に、しんどいわ。」

 クロは息を整えながら笑う。


「少し早く着きましたね、お疲れ様です。」カルネが小さく微笑む。


 国防軍本部はキルキスを見渡せる高台にそびえている。剣聖グランが軍の各師団長を「朕の誇り高き剣達シュトルツェ クリンゲン」と称し、誇りを高らかと掲げるために選んだ場所である。


 しかし、この立地は防衛の観点から見ると実に非合理的でもある。坂道を登り切るまでに、並の兵士ならば三十分以上かかるだろう。長く真っ直ぐに伸びた階段は、幅広く、それぞれの段で舞踏会が開けそうなほど広々としていた。

 その悪立地が逆説的に、この地の平穏さを示唆しているのだが。


「はぁ、到着。」

 クロが大きく息を吐き、背後を振り返る。王都の門には、商人たちが行列を作り、魔法使いたちが箒に乗って空を行き交うのが見下ろせた。


 本部の入り口には、守衛が二人、緊張した様子で立っている。クロとカルネの姿を見つけた守衛たちは、クロとカルネに向かって丁寧に礼をする。


「これは、クロ様。それにカルネ様も。お待ちしておりました。」


「お疲れ様です。私たちが最後ですか?」カルネが守衛に尋ねると、守衛たちは敬礼を解き、道を譲る。左側の守衛が答えた。


「いえ、第一師団長がまだお見えになっておりません。」


「…先生がお見えになるんだ。いつもは副師団長だけだろ?」

 クロが少し驚き、守衛に尋ねる。


「はい、そのようです。」


「そっか。」

 クロどこか嬉しそうに微笑む。


「開始までしばらくお時間があるかと思われますが、いかがなさいますか?」


「私は先に会場へ。第二師団長殿はすでにお見えになっているのよね?少し用があるの。」

 カルネは守衛に尋ねると、クロに「それでは」と軽く手を振り、足早に会場へ向かう。


「団長はどうされますか?」


「…俺は、少し風に当たりたいかな。」


「でしたら、東屋へいかれては?今の時間は静かですし、今頃は日も当たって気持ち良いでしょう。」


 守衛が何で東屋の居心地を知っているんだ。さてはサボり癖があるなこいつ。とクロは瞬時に見抜いたが、告げ口は止そうと思った。勘のいいガキは不幸の始まりだ。


「そうさせてもらおう。」

 クロは守衛に軽く礼をし、東屋に向かって歩き出した。


 クロは東屋に着くと、長椅子に体を沈めた。


 傘のように広がる屋根がほどよく日を遮り、座るとほんのりひんやりしている。クロはその冷たさを心地良く感じ、テーブルの端に肘をついて打っ伏すように身を委ねた。


「あぁーー、ひんやりしてて気持ちいい…」

 クロは束の間の休息を味わうように、しばし目を閉じた。頬にあたる涼しい風が心地良い。


 やがてふと顔を上げると、テーブルの端に日が差し込み始めているのに気づく。クロは少しだけ陽が当たる場所に移動し、懐からミネから受け取ったハチミツの瓶を取り出した。


「...毒入りとかじゃないよな?」

 クロは瓶を手のひらでころがすように眺め、淡い日差しに瓶をかざしてみる。ハチミツが黄金色に輝き、瓶の中でとろりと揺れる。


 クロは少し笑みを浮かべると、瓶を懐にしまい、視線を空に向けた。

 青空には、薄く棚引く雲がゆったりと流れている。



「なんだか、ハチミツの匂いがするよ!!!」

 何やらこもった声が、束の間の休息をあっさりと打ち破った。


 むくりと起き上がったクロが声のする方に視線を向けると、東屋を囲うように生えた生垣の中に、なぜかが突き刺さっていた。


 鎧をまとった尻がジタバタと暴れている。どうやら木の枝が絡まり、動けなくなっているらしい。


 クロは思わず頭を抱え、ため息をついた。あの黒と紫の、ドラゴンの血で色付けされた様な鎧の艶には見覚えのあった。そして何よりも、あのこもった声——


「...何やってんだ、ユター。」

 クロが呆れた口調で言うと、尻は一瞬動きを止めた。


「ん?その声はクロ君かい!?久しいねぇ!」

 ユターの声が生垣から飛び出し、軽い金属音が鳴る。しばしの沈黙の後、今度は急に嬉々とした声で言った。

「それより君、ハチミツ持ってるね!!」


「....持ってる。」クロが淡々と答えると、突き刺さっている尻がいっそう暴れ出した。


「ハチミツください!!役目でしょ!!」

 鎧の中のユターは、まるで当然の義務のように声を張り上げる。


 クロは呆れ顔で眉を寄せ、「尻に突っ込めば満足か?」と突っ込みを入れる。


 「...いやいや、遠慮しておこう。それより、さっさと助けてくれないかい?」

 ユターは慌てたように言い、さらにジタバタと足をばたつかせる。生垣に引っかかった鎧がカチカチと鳴っている。


 クロは、再びため息をつきながら聞いた。「押すか、引くか?」


「引いてくれ!」ユターの声には、迷いも恥じらいも一切なく、ただ必死な響きだけが込められていた。


 クロは肩をすくめ、鎧の端をしっかりと掴むと、勢いよく引っ張り上げた。


 クロはスポんっという間抜けな効果音が聞こえた気がした。その一方で「ぬぉ!!」っとユターは声を上げる。


 「いやぁー助かった助かった。」フルフェイスの兜の上から汗をぬぐう素振りを見せるユターを余所に、クロは早々と東屋へ戻った。


 兜で顔を覆っているのに、その表情の全てが手に取るように分かるなとクロは苦笑いするしかなかった。


 「おや、つれないね、クロ君。再会を祝そうじゃないか。」

 ユターはクロにそう言いながら、両手を広げてみせた。


「あのなぁ...いい歳こいてはしゃぐなよ。」クロが肩をすくめ、わずかに呆れ顔を見せる。


「何時までも少年の心を忘れないことが重要なんだよ!」

 ユターは力説するように腕を振り上げ、息を荒げながら近寄ってくる。


「何に重要なんだ。」クロが半眼でユターに問い返す。


「それは、もちろんハチミツ狩りさ!」

 さも当然といった調子で、ユターは自信満々に答えた。


「……。」クロはしばし無言になったが、言葉をかける代わりに再びため息を漏らした。


 するとその時、聞き慣れない声が背後から届いた。


「何だか楽しそうじゃないか。第三と第五の師団長さん方。」

 低く重みのある声が背後から響き、クロとユターのやり取りを割った。


 クロが額を抑えて振り向くと、そこにはひとりの大男が立っていた。大地を穿つ落雷を彷彿とさせる面立ちの大男である。

 見るからに屈強な戦士。四十代ほどの年だろうか、日に焼けた肌と鋭い目つきが印象的だ。青い髭跡が残る顎には、職人のような武骨な風情が漂っている。背中に背負った巨大な斧は、彼の堂々たる巨体ゆえ、あたかも玩具のように見えた。


「新しく第七の師団長に任命された、ライセ・アイゼンバルトだ。」


 クロが少し驚いた様子で問い返す。「新しい?いつの間に代替わりしたんだ。」


「つい先日だ。先代の任を継ぐよう言われてな。といっても正式な任命式はまだだがな。」

 ライセが落ち着いた口調で返すと、ユターが勢いよく彼の手を取った。


「第五師団長のユター・ハルハルだ!!」

 気負いなく大声で自己紹介をするユターに、ライセも少し気圧されながら握手を返した。しかし、握った瞬間、その表情がわずかに歪む。


 クロが小さく笑みを浮かべて、ぽつりと忠告する。「そいつと握手するのはよした方がいい。」


「は?」ライセが不審そうに手を見ると、そこには奇妙なぬめりが残っている。


「ハチミツだ。」クロの苦笑まじりの言葉に、ライセの顔に一瞬、驚きと困惑が浮かんだ。


「なんで?」ライセが戸惑う声を漏らすと、ユターが悪びれる様子もなく笑いながら答えた。「あぁ、これかい?さっき引っかかってた時にこぼれちゃったんだ!」



「いるか?」クロは気を利かせ、手拭いを差し出した。しかしライセは軽く首を横に振り、静かに「いや、いい」と断りながら、右手を胸の前に掲げた。その動作はまるで儀式のように洗練されている。息を短く吐きながらライセの掌に闘気が凝縮され、青白く光り始めた。その闘気はまるで雷のようにパチパチと音を立てる。クロの闘気とは異なる、荒々しい自然の力そのものだ。


 掌の闘気がライセの右手を包み込むと、ほんの一瞬で手に付着していたハチミツが小さな粒となり、光のように飛び散っていった。地面に着地したその粒たちは雷鳴の残響のようなバチバチと音を立て、地面を小さく穿つ。


 クロはそれを見て、「器用だな」と、思わず関心を漏らした。


 ライセはにやりと笑い、「剣鬼に褒められるとは光栄だ。そういや、まだアンタの口から名前を聞いてねぇな」と、クロを見据えた。


 「必要か?」


 「名を交わして初めて親睦が深まる。俺の地元の風習みたいなやつだ。」


 「...クロだ。性はない。」と、少しばつの悪そうにクロが名乗る。性がないことは、奴隷であることの象徴であり、彼の隠しようのない過去だった。それを知ったライセがどう思うか、内心で少し身構えた。しかしライセは、まるでそれを気に留めるそぶりも見せず、快活に返した。


「あぁ、クロ。今日からよろしく頼む!オレはアンタに憧れてたんだ!!」そう言って手を差し出すライセの目には、子どものような純粋な光が宿っている。強烈な憧れは雷のように満ち満ちていた。



「あぁ、よろしく頼む…」クロは小さく笑顔を見せ、ライセの手をしっかりと握った。手を握る感覚が、これほど温かく心に染みるものだとは予想もしていなかった。


 存外、少年心とは重要なのかもしれない。クロは内心で呟いた。



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