第一章 プロローグ:夜明けに泣く

 「剣鬼」の生涯は過酷だった。きっとそれは彼の運命だったのだろう。彼がまだ無力な赤ん坊だった頃から…幸か不幸かはさておき、彼の人生の壮絶さは、彼自身が把握しきれないほどのものであった。


 アルカニア大陸は最西端の大陸であり、人類にとって最大の希望であった。この世界を構成する残りの七つの大陸のうち、三つは人類、もしくは人類と共存可能な種族が掌握していたが、残りは邪悪なものの手にあった。


 物語の始まりは、アルカニア大陸とは反対の東側。二つの大陸を繋ぐように伸びる島国であった。その国は、西側と東側で人類と魔物が常に睨み合う国であり、必然的に争いが絶えなかった。人々からは見捨てられ、魔物からは脅かされるこの島は「アクタス」と呼ばれている。(アクタスは、西側の言葉で「不毛な」という意味)


 その不毛な土地に「彼」は生まれた。ある冬の日であった。吹けば飛ぶようなあばら家の側に枯井戸があった。魔物の目を欺くため、彼の母親はその中で出産を迎えた。産婆をつける余裕などなく、麻紐を噛みしめて声を殺し、長く苦しい夜を独りで耐え抜いた。


 赤ん坊が産まれるや否や、母親は自身の命と引き換えに二つの呪文を唱えた。彼女は魔法に長けていたのだ。


 一つは「静寂の呪いまじない」である。仄かに青い半透明な帳が母子を包み、結界の内外の音を全て遮断した。もう一つは単純な「赤い閃光」であった。夜の名残を幾分か残した藍色の空へ向けて、彼女の打ち上げた魔法の閃光玉はぐんぐんと伸び、一瞬の光を放ち消え去った。それは宛先のない知らせであった。


 本来、出産を終えたばかりの彼女が魔法を使えるはずがない。では、なぜなのか。それは単に「愛」の代物であった。


 今なお産声をあげる赤ん坊を抱き寄せて、母親は涙した。希望や我が子の未来に対する憂い、そこにどのような思いが込められていたのだろうか。きっと誰も知ることはできないだろう。彼女は自身に残された全てを我が子に注いだ。「  」と、後に「剣鬼」となる彼自身が終ぞ知ることのなかった彼の真の名前を、彼女は何度も囁いた。何度も、何度も。その声音はどれ一つ同じものはなかった。


 そして、涙の一粒が彼女の頬を伝い、我が子の額を打った時、疲れ果てた彼女は眠りについた。それは永遠の眠りであった。赤子は一層大きく泣いた後、冷たくなる母の傍らで眠りについた。


 今一度申すならば、彼の人生は過酷であり、幼少期に待ち受ける彼の運命は悲痛そのものである。しかしながら、彼が生まれたその瞬間の輝きは、哀しく美しいものであった。誕生の美しさに関しては、彼に限った話ではないのかもしれないが。



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 夜明け方、あの枯れ井戸に人影が忍び寄る。


 その人影は井戸にひょいっと飛び込む。まるで重力を感じさせない落下速度は、魔法によるものであろう。


 暗い井戸の底で、その人影は薄気味悪い笑みを浮かべる。男は何やら呟いている。それを聞くのは、朽ちた女と、母の冷たさの意味を知らぬ赤子のみであった。

 

 奇跡は、そう長くは続かない。


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