ソノコノユクエ

04号 専用機

その紙を抜いてな

「パパの淹れてくれるコーヒーが好きだったの。日曜日の朝。前の日は昼まで寝てたパパが、眠そうに欠伸しながら豆を煎ってて、いい香りが私の部屋までしてくるのよ。私は元気に飛び起きて、食器棚の隅に置いたミルを持ってくる。今日は早いねって、お互いにおはようを言って。豆を挽く音でまたウトウトする」

 コーヒーの香りをくゆらせて、その子は言った。

 どこか爽やかな香りが店を包み込み、そのくせ店内の空気は少し重い。湿気を含んだ香りは、どこかに悲しみを匂わせていた。

「ハッとしたら、もうすぐコーヒーが入るって気付く。その頃になって、ああ、今日もパパはこの曲を聴いてるんだって気付くの」

 ギターが鳴っている。

 古いスピーカーは割れた音を叫ぶばかりだ。


「いつも決まってる。嗄れた、力強い、男の歌声。英語だったから、その時は何を歌ってるのか分からなかった」


 ヒーターの電源を落として、その子は急激に落ちていくコーヒーを見つめた。


「やるしかない。愛のために。今辞めても、何も変わらない――祈りながら生きている。そんな歌よ」


 フラスコの中に落ち切る。

 逃げ場なく、香りだけが立ち昇った。


「やぁね、私ったら。貴方が最後のお客様なのに」


 未だ道半ば。毎日お祈りばっかり。私の道はいつだってタフ――それが口癖だった。

 その子の……店長の淹れてくれるコーヒーは、いつも苦味がしっかりあって、それなのにキレがある。俺はこの味と香りに惹き込まれ、いつの間にか常連客になって、もう7年ほどになる。

 この店に、どれほどの思い出が詰まっているだろう。

 店長は物憂げに外を眺めている。

 外はそろそろ、紅葉くれはが散る頃だ。

「大丈夫。冬が来るだけよ。大丈夫……今は祈るしかないけど。いつかきっと笑える日が来るから」


 店に入り込んだ蝿を、店長の園子は鬱陶しそうに払った。


 まだ遠い春の訪れに、園子は胸を焼いていた。

 その子の行方は、誰も知らない。



◆ ◆ ◆ ◆



 蚊が秋のものになってから、もう随分経った気がする。

 ある夕暮れのこと、一人の男が、店の軒先で日の入りを待っていた。

 狭苦しい軒先だ。男の他には誰もいない。

 特段荒れた気配は無い。静かで、どこか頼りない印象の男だ。足元に置いた、使い込まれたビジネスバックを時折気にしては、また遠くに暮れる太陽を、見据えるでもなく見つめている。


 夏の頃とはまた違う。湿気の匂いもなく、鮮やかな朱が燃え盛る、憎たらしい秋の夕暮れだ。

 秋は夕暮れというのは遥か遠い昔の言葉であるが、その頃とは随分様子が違う。あの一連に飛来するのは帰巣に駆られる烏であるが、今や飛び回るのは血に飢えた羽虫だ。蚊はすっかり季節を忘れてしまった。

 男は、分の弁えないこの虫共を、鬱陶しそうに手で払う。

 短く悪態をつく、また視線を鞄に落とす。それから今一度前を見ると、太陽は、もはやビルの隙間から、僅かに頭を覗かせるのみで、すっかり輝きもなりを潜める程だ。

 夜が来るのだな。

 男の手が何を払ったものなのか、定かではない。


 男は所謂サラリーマンで、仕事にほとほと嫌気が差していた。夕暮れを見ると毎度嫌な気分になるのは果たして、そこに会社か自分が重なることに起因するのか。落陽というやつは、何か仄暗いものを去来させる。

 ほうとついたため息を射抜く様に、その日最後の輝きが、男の背後のガラスを照らす。

 ピカリと光を返し、男のスーツのくたびれた様と、どす黒いまでの内面を照らす。瞬きの間だけ見えた、背後の店のその中は、ホコリを被って随分な襤褸ボロだ。

 夕暮れの朱に夜の始めの青が混じり、紫の線が、サイフォンまでをも顕にした。チカチカと、輝きが男に語りかける。


 どこに行くんだ。

 待つと決めたろう。


 後ろ髪を引くのは幻聴の類に違いはない。あるいは、内に差し込んだ仄暗いものか。

 もうダメなんだ。

 もう待てない。

 男は心に答えた。

 この店のかつてのオーナーは、突然店を閉め、いつの間にか消えてしまった。もう何年か前のことだ――何年か前というのは、店が忽然と立ち消えて以来、男のせいがどこかぼんやりとしていたことに由来する――あれは恋だったのか、未だに答えは出ていない。そうかと聞かれればそうだったように思えるし、違うと言われればそのようにも感じられ、ただ、あの得も言われぬような充実感だけが、胸の内を虚しく満たしていた。

 ここに来ると、古びたスピーカーから流れる、あの曲が恋しくなる。

 ハードロックだったか、ヘビーメタルだったか。ジャズでなかったのは確かだが、どことなく、あれはブルースだったような……。

「うぉー……わはふえいぜーえ……」

 そう、ブルースだ。

 あれは確かにブルースだった。確かに悲哀だし、どうにもならないし、どうにもならなかった。春を待つと決めた男の数年は、もはやなんのことも無く、秋ですらない。

 続けるしかないことは、決して素晴らしい覚悟ではないのだと、男は打ちのめされてから気付いた。

 これは恋や愛ではないかもしれないが、ならば恨みかと聞かれると、それは違うとハッキリ返せる。

 ただ懐かしかった。戻れるならばあの時に戻るだろう。春など来ないと諭すだろう。

 夏を逃せば、次は暮れるのを待つ虚しい秋が続くのだと、強く諭すに決まっている。そういう頑固で説教くさいところが自分の嫌いな部分だが、それでもあの子を止めたかった。

 園子。

 君はどうしているだろう。

 誰に届けるでもなく、男の声は夜空に溶けた。


 胸中を蝕む、虫の足にも似た痛みのような黒さに、男は胸元をまさぐって、たまらず煙草を咥える。

 チキンと小気味良い音がして、巻き紙をジリジリと焼いた。

 目をゆっくりと閉じて、男は、今日までと明日からのことを思う。記憶によって反芻されるのは、もはや何度も咀嚼され、粉々に砕けきった、あの忌々しい程に真っ白い、箱の中での出来事だ。


 その男にとって、薄い扉に重さを感じない時は無い。

 明るいオフィスの電灯の光が息苦しい。

 照らされていると内実の全てを晒された気になる。

 席に座って、薄い板に向かい、同じ形の、様々な意味の凹凸を指で叩く。そういう作業は決して嫌いではなかったが、この堅っ苦しい服装と、重っ苦しい規則とを、決して好きにはなれなかった。

 時間を費やすべきだとはっきり分かっているのに、そこに取り掛かるわけにはいかない。自分で研鑽を積むしかないが、己の時間を使ってまで研究するような情熱や気力は最早残っていない。

 家に帰れば泥のように眠る。


 面白い仕事が回ってくればいいのだが、そんなものは年季の入った上役たちが内々に処理し、いかにもつまらない作業ばかりが回ってくる。

 始めて嫌気が差したのは、果たしていつ頃のことだったか。もはやそれすら定かではない。

 意気揚々と燃えていた己など今は亡く、泣く泣くこの箱の中にいるしかないのだと悟ると、男の意気はすっかりずぶ濡れて、一生も一緒に上役に握られてしまっている。男の命など風前の灯だ。

 そんな弱気を少しでも、見せるわけにも行かないのだから恐れ入る。一度ひとたび欠片でも見せてしまえば最後――なんじゃあワレェ、んならぁ、そんなぁ、やってみりゃあええんじゃあねぇか。そんなこって、ワレみたぁな、なよっちぃのんを面倒見とる、こっちの身にもなっちゃあくれんか。だいたい、やる気なんてぇもんは、さっさと女の一つでも――と、こんな具合だ。

 男は上役が嫌いだ。ふんぞり返る態度が気に食わない。成果を出せと喚く割に、成果が必要な仕事は取ってもこない。

 ただ、自分のことを棚に上げ、グダグダと管を巻く様は、正直言って男も上役とよく似ていると言える。


 そうやってのらりくらりとやって来たのは随分昔で、男はまだ若く、働き始めたばかりだった。家から会社の近くに行くバスは少なく、朝はいつも待たされることも、男の苛立ちに加担していたように思う。


 ある日のこと――そう、ある日のこと。

 男は待ちくたびれたように歩き出した。

 そして、件の店を見つけた。

 カウンターの向こうには、女性が一人立っていて、せっせと何かをやっている。見たところ、自分と同じか、それよりも若い。興味の唆られるまま頼んだ珈琲が、それから数年は続いた。


 店の女は園子と言った。

 浴びるほど話す仲ではなかったが、朝に来る客の少なさが、二人の仲を急激に縮めた。

 趣味の話をし、暮らしの話をし、夢の話をした。二人とも恋心からは遠く、それが自分たちにもあることは当然のように知っていたが、それはどこかへ置いてきたように、熱を込めてたくさんのことを二人は語った。

「その山を抜けてね、その山を抜けてね……。店を出したの。きっと出来るって思ってさ」

 夢を叶えたその子は輝いて見えて、男は、己の自尊心の頭を抑えて、冷然として、園子の話を聞いていた。

 二人で話している日々に、男の心には、ある種の勇気が湧いた。迎えるだろう安寧なる死を受け入れるのとは、丁度真逆の覚悟である。


 もう一度やってみよう。進めば何かがあるかもしれない。

 そうして男はその日から、目の前に何かが訪れることを待たなくなった。と言っても、乗り越える力があるわけでもない。ただ力無く、目の前の扉を叩くように、ほんの少しだけ、前へ向こうと決めたのだった。


 そんな折、この店は無くなり、園子は消えた。行方は知らない。

 きっとまた春が来るといったきり、もう数年は、ここに戻ってきていない。


 男はそんなことを思い出しながら、とっぷり暗くなってきた街に煙を吐いた。

 あの時待つと決めてしまったから、自分はどこへも行けなくなった。男も春を待ちたくなって、また立ち止まってしまったのだ。

 結局自分は一人の力でどこへも行けない。冬へと、寒空へと、雄大な一歩を踏み出す勇気など、きっとない。

 ただ、男は思う。

 きっと園子は自分を忘れたのだろうと。

 その後の行方など、男は知ろうとしなかったから。


 空は黒く高い。

 虫もすっかり寝静まろうという頃だ。

 男はふっと笑った。

 自分は、きっと、季節を忘れた羽虫と同じで、あの日店に入り込んだ蝿と似ていて、どれだけ矮小わいしょうであろうとも、必死に惨めに生き藻掻もがく、掌で潰せる小さな虫だ。

 自分を引き止めていたものとついに決別してきた。

 この男は、それを伝えるために、そのためだけに、今日一日だけは待つと決めていた。


 だが、待ち人は来ない。

 ならばと男は、独りごちた。


「なら、この俺がどこへ行こうと、まさか文句はあるまいな」


 鞄に入れたままだった細身の封筒は、今朝ようやく出してきたばかりだ。

 上役があれの中身を抜き取る時、自分も同じように、蛹の殻を脱ぎ捨てたのだから。


 男はタバコを踏みにじり歩き出した。

 黒い背広が闇夜に混じって溶けていく。


 そのの行方は、誰も知らない。

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