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第5話

 いつものようにビルの地下駐車場に車を停め、そこから煌佑こうすけ悠汯ゆうこうは連れ立ってボニタスへ向かった。


 店の入口までの表通りに出た少しの間に、片や近づきがたいオーラを放つ煌佑と、こなた彫りが深く強く張った弦を感じさせる悠汯と、長身の二人が並び立つとまるでそこに別の次元が紛れ現れたかのように道行く人の視線を奪う。


「お疲れさまです」

 ドアを開けるとすぐに、二人の姿を認めたボーイが一般客へとは違う挨拶をする。


「まあ、専務。どうぞ、こちらへ」

 やってきたボニタスの大ママ、たまきが出迎えた。和服の似合う愛らしささえある上品な女性だ。結い上げた黒髪に古風なかんざしと髪飾りが彩を添えている。


 煌佑の父、ライズの社長である槇之丞まきのすけがこの店の出資者である。環は槇之丞のいわば内縁の妻で、煌佑はそのことについては自分は門外漢と一切口を差しはさまないことにしている。


「空いていて良かった」

 この店は予約なしでの来店では席を確保できないこともよくある。


「『ニシザキ』さんの送別会がお開きになったばかりなのよ」

 煌佑達二人が席に着くと、環は言った。


 ライズの取引先である各社の、仕事に関するな情報は常に共有している。


「そうですか。どなたが来ていらしたんです?」

「佐々木部長さんのところよ」

 煌佑は佐々木の顔を思い浮かべながら、軽く頷いた。


「藤澤さんは、車かしら?」

 ロックグラスに氷を入れながら悠汯に向かって環が訊ねる。


「はい、──」

「ああ、悠汯も飲めよ。代行で帰ろう」

 煌佑は運転手を全うしようとしていた悠汯に最後まで言わせなかった。


「はい、では、そのように」

 表情を崩さずに、悠汯は煌佑と環二人のどちらにともなく小さく頭を下げた。


「愛くんは?」

 煌佑が挙げたのはこの店のバイトのホステスの源氏名なまえだ。週末だけのアルバイトで、ピアノを弾く。


「あなたは本当にあのこの演奏が好きなのね」

 環は近くに立っていたボーイを目で呼ぶと、愛に演奏するようにと伝えさせた。


 通常は演奏の時間帯は決まっているのだが、リクエストがあればその限りではない。愛は煌佑たちの席にいったん来て挨拶をし、それから僅かな段差のあるステージのセミコンサートグランドピアノへと向かった。


 店内に流れるBGMが途絶えるといきなり速いテンポの曲が始まった。始まってすぐに、煌佑が実際には行ったことのない、映像でのみ知るアンダルシアのイメージが広がる。煌佑は聴きながら愛の打鍵が自分の鼓動と同調しているのを感じた。


 曲が終わると同時に、槇之丞がフロアに姿を現した。


 これまで一度も染めたことのない髪の自前の白いメッシュは割合に若い頃からのものらしい。誰の目にもいつも穏やかさを湛え、荒ぶった姿など想像もできない槇之丞はこの店では常の和服を纏っている。


「今日は二人か?」

 腰を下ろし、槇之丞は真っ先に煌佑に訊ねる。接待ではなく、プライベートな来店なのか、という意味だ。


「ええ」

「ちょうどいい。実はお前に話があったんだ」

 真面目な顔の父を訝し気に煌佑は見やった。


 悠汯はそっと席を外そうとしたが、槇之丞が制したためその場に残った。


「なんです?」

「引退しようと思っている」

 唐突に槇之丞は言った。


「なんですって?」

「え?」

 煌佑と悠汯が寝耳に水の、試されているのかと思うような言葉に同時に驚きの声を上げた。


 槇之丞の隣では環がにこにこと、ともすればまるでほのぼのとした会話でも聞いているかのような笑顔をしている。

 ──この話をするために、出てきたのか……

 ここでは自分が接待する時のためか、或いはよほどのことがない限り槇之丞はボニタスには自身の姿を露出しない。


「いや、もう決めた。お前が次期社長だ」

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