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第3話

「しま」

 珠有玖みゆきに行き先も聞かずに、すぐさま佐々木部長は答えた。


  ──しまってどこ?

 珠有玖の行動範囲内でそういう場所には心当たりがない。佐々木部長がプロフィールを見ていたとしたら珠有玖の住所を知っていてもおかしくはないが、まさかすぐにいなくなる派遣社員の住所を記憶しているとするなら意外な感じだ。


 それともそこは自分が先に降りるつもりの場所なのだろうか。


「はい。どっち行きます?」

 言いながら運転手はメーターを作動させ、ウィンカーを出した。


 訊ねた運転手の声は努めて冷静さを装っているような、含みのある不自然な感じがした。


 カチッ、カチッと規則的な音がやけに耳につく。数台の車をやり過ごしてタクシーは車線に入った。


「裏で」

「かしこまりました」

 ──裏ってどういう意味だろう。

 玄関が二カ所もあるような家に住んでいるのだろうか。


「お住まいはどちらなんですか?」

 疑念は払拭しなくてはいけない。珠有玖は懸念を押し隠して訊ねた。


「水城くん、どうだい、派遣はやめて正社員になる気はないか?」

 ──質問に答えてない!

 佐々木部長の思わぬ質問返しに、珠有玖の中で疑念が増幅する。


「あの、どういうことでしょうか」

 珠有玖はもはや隠しもせず怪訝な表情を露わに部長の顔を見た。


 三十代前半の紛れもないイケメンの、仕事のできる人物だと言われている。そのうえ優しいだの、スマートだのと女子社員の間ではちょくちょく好感度抜群と話題に上っていた。


「言葉どおりだよ」

 そう言って佐々木部長はすいっと珠有玖の方へと身体を寄せてきた。


 ぞわぞわっと珠有玖の全身を悪寒が走った。


「おっしゃっている意味がよく……」

 飲み会の帰りのタクシーの中で話すような内容ではない。


「口を利いてあげられるよ」

 何という爽やかな笑顔で言うのだろう。


 まるで自分の魅力に陥落しない女はいないと思っているような。 自分の顔へ、部長の手が伸びてきた気配を感じて、さりげなくドア側へ身体をずらし、珠有玖は言葉をぼかす。


「お申し出はありがたいですが、現状に不満はありませんから。運転手さん、わたし降ります」

 ああ、これは恒常的な手口なのだな、と珠有玖は思った。


 社内では一切そんな噂も聞かなかったし、そんなそぶりさえ見せなかった。次のない派遣を狙って食い物にする、スケベ野郎なのでは。


「あの~」

 運転手が、自分はどちらの言葉を尊重すべきなのか即断できないようだった。


 しま、はおそらく隠語でどこかのラブホかビジホなのだろう。


「いいから向かってくれ」

「はい」

 部長の顔にはまだ余裕の笑みが浮かんでいる。


 もう珠有玖は自分の掌中にあるのだという自信が部長にはあるのだろう。そしてその自信は、これまでもさんざん繰り返されことごとく成されてきたことに裏打ちされているからに違いない。


 ──冗談じゃないわ。

 先ずは肩にストラップを掛けたままのショルダーバッグを自分と部長の間にはさんで、頼りなくも小さな壁にした。


 ──どうする、珠有玖。

 窓の方に顔を向けて、道順を記憶することにした。万が一、土地勘のない場所まで連れていかれても慌てたりしないように。


「君の仕事ぶりは大いに評価しているよ。報告書にもそう書こう。それに僕は他の所でもどこでも正社員の口を紹介してあげることもできる」

 甘い言葉を訝しむ人間などいるはずもないとでも言わんばかりだ。今、部長の頭の中ではどんなイメージが浮かんでいるのだろう。


 耳触りのいい言葉が真実だとは珠有玖には到底思えない。断れないように評価という言葉で暗に圧力を掛けているのだ。どうせ、そうやって釣りあげたらあとは自分の意のままにしようとするに決まっている。


 珠有玖の思考は警戒モードレベルマックスに跳ね上がった。


「どうも」

 もしもどうにかしてこの魔の手から逃げおおせた場合、今の提案は反故、ぼろくそに評価するかもしれない。そうなったら派遣会社はクビだろうか。今まで積み上げてきたものがまるでジェンガでミスったみたいに、崩れ去ってしまうのだろうか。


 ──でも、絶対に嫌だ。

 珠有玖は決断した。


 ──なんとしても車から降りる。

 とはいうものの、信号はむなしく青で通過していく。


 タクシーは繁華街を過ぎ、郊外へ向かっているようだ。交通量は少なくない。


「僕がいいようにしてあげるから心配しなくていいよ」

 部長の、その気でいるような言葉は珠有玖の耳を素通りしていく。


 ──あ!

 前方のカーブに光が見えた。


 ──対向車! 距離は……充分。後続車も……いる。


 ──チャンス!

 珠有玖はタクシーがカーブ手前で減速したタイミングでドアを開け、飛び降りた。

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