銀の鳥

 荊凍ケイテが防空壕から出たとき、鷲の巣の周囲は銀の鳥に焼き尽くされていた。それから半月が過ぎ、今では、彼の鳥は度々空に現れるようになっていた。



「やっと目を覚ましたか」

 ベッドに横たわる十花勝トカチを、傍らの椅子に腰掛ける荊凍ケイテが見下ろす。濡れた黒髪が額に貼り付き、褐色の頬には赤みが差している。

「私は……どれくらい睡っていたのでしょう」

 かつて燃えた紅い瞳もおきのよう、十花勝トカチは眠たげな目付きでぼうっと荊凍ケイテを見上げた。

「丸三日。一時はどうなることかと思ったよ。ロブラ回復者からの輸血が効いたのかもしれない」

「ロブラからの、回復者…………」

「ああ。霜銀ソウギンが手を挙げてくれた」

「あの子にはお礼と……お別れを言わなければいけませんね」

「……そろそろ期間満了だったな。任期延長は……しないようだな」

 窓から射す熱気を帯びた光に、十花勝トカチは目を細めた。かつて燃えた赤い瞳も今や陽に負けおきのよう。開け放した窓から彼方を見れば、編隊を組む銀の鳥。

「警報は鳴っていましたでしょうか」

「一昨日からは出なくなった。焼き尽くされた陣地からは禄に高射砲も撃てない、穴だらけ飛行場からは戦闘機も飛ばせない。こんな島に使う弾薬が惜しいらしい。この島を素通りして他の島へ向かっている」

 炸裂性の卵を孕んだ銀鳥の群れは、ギラギラと太陽を照り返して青空を行く。

「不謹慎かもしれませんが……綺麗」

 名画の前に立つ少女のように、十花勝トカチはうっとりと息を漏らした。

「新雪の朝に窓を見て、ああ、また雪かきだと肩を落とすとき、悔しいけれど、綺麗だなとも思うのです」

 荊凍ケイテは久しく忘れていた故郷の冬景色を思いだした――――銀のベールで覆われた庭、朝日を浴びて雪の一粒一粒がきらきらと輝く――――

「魘されている間、何度も同じ夢を見ました。熱帯雨林を彷徨って暑さのあまり倒れ、目覚めると冬山で雪に埋もれていて、熱いのは私の躰だったと気付くのです」

 十花勝トカチは自らの頬に手を宛てた。まだ熱で火照った膚。荊凍ケイテは窓際に行き、カーテンを引いた。幾らか熱と光が和らいだ。その背後で十花勝トカチが言う。

「熱病に魘されて死ぬより、故郷の雪に埋もれて死にたい」

 振り向いた荊凍ケイテ十花勝トカチの顔を見ると、瞼は閉じられ、つるりと円い褐色の丘を作っていた。

「あの人……炭焼きのことしか知らない不器用な人だけど、とても素直なんです……知らないことは、きっと私が教えられる…………」

 そう言うと、十花勝トカチは穏やかな寝息を立て始めた。



 荊凍ケイテが病室を出て歩くうち、曲がり角の先から硫咲イサキが現れた。すれ違いざまに言うことは、「だから云っただろう、やめておけと」

「盗み聞きとは」

「偶然耳に入っただけさ」

 荊凍ケイテはそのまま歩き続ける。進む先の部屋は〝薬局〟と記した木札が掛かっていた。硫咲イサキは足を止めて振り返り、荊凍ケイテを見送りながら言う。

「そっちも勧めない、と云ったはずだがな」



*****



 シーツで身体の前を隠しながら、紫晶華ショウカがベッドの上で上体を起こした。

 脇の机からグラスを取り、底に残る褐色の液体を飲み干した。シロップのような甘苦さが紫晶華ショウカの舌を包み、交錯する爽やかで刺激的なハーブの香りが口内に拡がった。傍らにはダーク・グリーンのボトル。雄々しい角の鹿の絵がラベルに印刷されている。

 気怠げに寝そべったままの荊凍ケイテが、上下する白い喉をぼんやりと眺める。

「ノイ・ハイマットラントの薬草酒はお気に召しましたか」

「ええ。自分で漬けたのとはまた違う味わいね」

 枕元にはジャスミンの花が並び、濃厚な香りを漂わせている。荊凍ケイテはそのうち一つを手に取ると、顔の上に掲げて花弁を一枚ずつ毮りはじめた。はらり、花弁が仰向けの顔へ落ちる。

「ぼくたちが無職になる日も近いですね」

「占いは好きではないのではなかったかしら。

「客観的事実に基づく予測です」

 カーテンを閉めた窓の外からは、見ずともわかる、銀鳥の群れが渡る轟音。

「そうね。失職もそうだし、この状況では自分の命の行方を予測した方がいいかもしれないわね」

 机の上には竹筒に立てた筮竹があった。紫晶華ショウカが指先を筮竹の束に差し入れ、しゃらりと音が鳴った。

「ぼくは、きっと生き残ります」

 荊凍ケイテがまだ花弁の残るジャスミンを投げ捨てた。紫晶華ショウカが首を傾げる。

「占いでなければ、運に自信があるのかしら」

「運ではなく、確率の問題です……ぼくは秘密の鼠忌避薬を部屋に置いていましてね」

「……やはり効くならなんでも、というわけ。ねえ、皆が懸命に考えた結果がこれなら、占いの方が良かったのではないかしら」

 じゃっ。紫晶華ショウカが指を筮竹の束におろし、真ん中で割った。

「確率の問題といったわね。占いなら、少なくとも半分の確率で、まともな方の答えを引けるでしょう」

 荊凍ケイテは半分に割られた筮竹を見る。その陰には浮き彫りの龍が巻き付く急須が置かれていた。貫入は蛇の鱗のようにも見える。ぼやりと脳裡に浮かぶ太極図、蛇のとぐろ――――映像は廻り、取り留めもなく、彼女は眠気を覚え、欠伸を噛み殺した。

 小さく体を起こして長い腕を紫晶華ショウカに伸ばし、自らの胸の上へ引き倒した。ふぁさり、顔にかかった薄紫の髪の香りを吸い込む。

 紫晶華ショウカは身体を回して荊凍ケイテの上に腹這いになった。裸の胸と胸が重なり、二人の視線が交わる。

「あなたの予想通り、生きて失業者になったら転職先は」

「祖母の病院にでも勤めればいいと考えていました。しかし――」

 そこまで言うと荊凍ケイテは押し黙り、目を伏せた。その瞳は黄や褐色が入り混じり深い奥行きのオリーブ。鮮やかな熱帯雨林には似ない、移ろう色の森が翳る。

「実は、内地に戻ったら北部統括隊司令部の衛生課に来ないかと言われているの。臨床ではなく、衛生管理の監督や計画策定などが主な仕事よ。ロブラ対策の特任部門を新設するという動きもあるわ」

 オリーブ・グリーンの森にかすか陽が射した。

「あなたが軍医学校を卒業したあと、一緒にどうかしら」

 窓の外で、置いていかれた銀鳥が仲間の後を追うような音がした。

「もちろん、それまで私たちの職場が解体されていなければ、の話だけれど」

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