巣立ち

「話にならないな」

 荊凍ケイテが引鉄を引いた。が、同時に鷲が荊凍ケイテに飛びかかり、狙いは逸れた。

 鷲が荊凍ケイテの腿を掴んだ。足元の霜銀ソウギンは羽根に弾き飛ばされて岩壁に頭を打ち、そのまま動かなくなった。鷲は荊凍ケイテを掴んだまま外に飛び出した。鈎爪が肉に深く喰い込み、血を撒きながら舞い上がる。

 ラワンの巨木からメカクレが飛び出し、荊凍ケイテの身体に取り付いた。鷲がバランスを崩し、がくんと高度を下げた。鷲が再び上昇しようとしたとき、メカクレが鷲の脚を強く握った。鷲はギャアと鳴き、鉤爪を荊凍ケイテから離した。メカクレが下になり、二人は地面へ落下した。荊凍ケイテが呻きながらメカクレの胸から地面に這い降り、重しの取れたメカクレはぬらりと立ち上がった。舌を出し入れして周囲を伺う。荊凍ケイテはまだ地面に腹ばいになったまま。鷲の鉤爪が刺さっていた腿からはどくどくと血が流れ、落下の衝撃が彼女の平衡感覚を奪っていた。

 ――ぐちゃっ、ばんっ。

 荊凍ケイテの目と鼻の先に、頭から斑雲むらくもが落下した。潰れた頭から脳味噌が溢れ、遅れて地面に叩きつけられた胴と腕も奇妙な曲がり方をしている。元から曲がっていた脛からは今や骨が突き出していた。

 上空で巨大な羽音と、「外れましたね」と霞早太の声。荊凍ケイテが見上げると、人面鷲は再び高く舞い上がっていた。メカクレが荊凍ケイテを脇に投げ飛ばした。荊凍ケイテはラワンの巨木に背を強か打ち、板根の隙間にずり落ちた。

 鷲はほとんど垂直に一瞬で急降下し、後ろ足でメカクレの頭を掴んだ。その勢いのまま頭を地面へ叩き付け、自身が地面に触れるすれすれで再上昇した。

 太陽を背に、首ががくりと折れ口から血を流すメカクレが中に浮かぶ。鷲が羽ばたく度、身体がぶらりぶらりと縊死体のように揺れる。それを板根の間の血池に座って眺める荊凍ケイテは、自身の意識が遠のいていくのを感じていた。熱帯の日中にも関わらず手足は氷のように冷たく奥歯がガチガチと鳴る。血の気のない蒼白な手で止血帯を脚に巻き、ビタカンフルと止血剤を注射する。

「鷲を相手に蛇とは、少し分が悪いのではありませんか」

 いつの間に樹を伝って降りたのか、霞早太は巨石の傍に立っていた。上面が平らな、棘途キョクトが血痕に気付いた石であった。霞早太が手を挙げると、鷲がメカクレを岩の上に落とした。と同時に、鷲――人面ではない――が群れ集った。人面鷲が頭を、他の鷲がメカクレの四肢を押さえつける。

 霞早太がメカクレの顔を眺める。鈎爪の隙間から指を差し入れ、頬をつつく。子供らしい、求肥のように柔らかな頬。

「蛇のくせに存外、綺麗な顔をしていますね」

 霞早太は雑嚢から麻縄を取り出し、メカクレの浴衣の袖を捲ると、肩に近い場所を縛った。麻縄の周囲が見る間に鬱血して暗紫色になる。身体をずらして腕が台の外に出るようにし、鷲が腕を掴んで滞空する。ちょうどメカクレの腕が宙に浮かぶようになった。

 一匹の鷲が、ナタを持って現れ、霞早太の傍らに落とした。霞早太がナタを拾い上げ、メカクレの腕に向けて振り下ろした。腕が切り離され、断面から血が吹き出したが一瞬で、血はすぐに勢いを失くした。腕を掴んでいた鷹が鈎爪を離すと、地面に落ちて自由になった腕が這って霞早太へ向かった。すかさず鷹が再び腕を掴み、空へ飛び上がった。

「さすが蛇の生命力と言ったところですか。羽根も与えていないのにまだ元気です。これはやり甲斐がありますね。しかし少々邪魔ですので、お好きにどうぞ」

 宙に浮かぶメカクレの腕に鷲が群がり、鋭い嘴で肉を啄みはじめた。血と肉片が下生えの草にぱらぱらと降りかかる。

 石の上では、霞早太がもう一方の腕も同様に切断した。落とした腕から手早く肉を削ぎ、少女の口に挿し入れた。

 霞早太は次に、両脚を足首で縄で括り、膝の上で切断した。一匹の鷲が縄を掴んで飛び立ち、樹の枝に引っ掛けた。断面を下にして二本まとめられた脚が枝から逆さにぶら下がり、ぼたぼたと血が流れ落ちる。

 四肢を失ったメカクレの身体を霞早太がひっくり返し、石の上にうつ伏せにした。鷲が背を押さえ込む。霞早太が浴衣の裾を持ち上げて中を覗き込むと、尾が、びち、と力なく跳ねた。

「なるほど、本当に蛇のようですね。では中の具合を確かめてみましょう。しかしその前に」

 そう言うと霞早太は軍刀を抜き、尾を根元から切り落とした。切り口から血が噴き出し、メカクレの身体が跳ねた。

「これでやりやすくなりましたね」

 そして軍刀の切っ先をに差入れた。刃と肉の隙間に血が滲む。刃が進むにつれ血が刀身を伝い、鍔を濡らす。

「きちんと押さえておくように」

 刀身の半分ほどがメカクレの身体に埋まった。ぐぷ、びちゃり。メカクレが口から血を吐いた。刀に押し出されるかのように口から血が溢れる。刀身が粗方埋まると、霞早太がメカクレの髪を掴み、頭を上げさせた。

「そのまま顔を上げていなさい。動いてはなりません」

 横から見るとメカクレの首は身体と一直線になっていた。霞早太は片手で髪を、もう片手で柄を握りながらゆっくりと刃を進める。びちゃびちゃと血を吐くメカクレの喉から、切っ先が顔を覗かせた。の方では、刀身は鍔まですべて埋まっていた。霞早太はメカクレの顔の前に回り喉の奥を確認し「やはり少し長さが足りませんね」

 再び後方に回ると、霞早太は軍刀を引き抜き、周囲の肉に突き刺した。ぐちゃ、にちゃ、血の糸を引く刃を、何度も抜き差しする。元は一本線の切れ込みのように見えたものが、今は孔のようだった。

 〝孔〟に勢いよく軍刀が突き刺された。鍔も肉に埋まっている。霞早太は柄を蹴って、柄もすべて孔に叩き込んだ。メカクレは口から血とともに刀先を吐き出した。

 霞早太はメカクレの身体を真横から眺める。身体と首は一直線になり、真っ直ぐ刀の先を吐き出している。

「良い具合です」霞早太は額の汗を拭い、言った。

 背に乗る人面鷲の下で、手足を失った躰を軍刀で貫かれ、最早メカクレは時折血溜まりの中でぴくりと跳ねるのみだった。

 霞早太がメカクレの前髪を乱暴に掻き上げた。右眼は瞼が半ば閉ざされ、虚ろ。左眼には、油紙のような覆いが貼り付いている。

「なんでしょうこの左眼は。まあ、先に右から」

 人面鷲が、メカクレの前に羽ばたいて浮かんだ。後ろ足の鈎爪をメカクレの顔に向け振り下ろす。


 ぶちゅ。右眼が抉られた。潰れた眼球が地面に落ちる。覆いの下の左眼は相変わらず光を捉えない。メカクレの視界が真っ暗になった。

 彼は生まれる前のことを思い出した。



 昏い土の下、端が破れた卵のうち。ただ腐っていくのを待つ、永遠とも思われた時間――――



 鷲の鉤爪がメカクレの左眼を突き、覆いが剥がれ落ちた。

 殻は破られた。


 メカクレの皮膚の下、すべての肉と骨が溶けて混ざり合い、どろどろの卵液に戻るような感覚。渦巻く〝中身〟は何色ともつかず、強いて云えば〝あをいろ〟の混沌。卵の中で感じた、死へ近付く感覚が蘇る。胃が裏返るような吐き気――――早く生まれねば、この混沌に呑み込まれて腐るのみ、と本能が告げていた。



 零れた眼球がメカクレの頬を伝う。蛇の舌がそれを絡め取り、持ち主の口内へ運んだ。ぐちゅり、メカクレが眼球を噛み潰し、一瞬の微かな快感、次いで凍り付くような寒気。そして、耳をつんざく雷鳴――空に閃光が走った。

 裂けた眼窩から、震える大蛇が昇り立つ。今、破れた殻から、中身が噴き出した。


 昇る大蛇から逃れるよう、鷲は天に羽ばたく。あっという間に密林の林冠を越える。

 大蛇は鷲に噛み付いたが、その牙は尾羽根をいくらか毮っただけで、鷲はするりと逃れて空高くへ羽搏き、そのまま彼方へ消えていった。

 地面では残された男が狼狽え「なぜ……戻ってください……」などと言っている。

 大蛇は胴体から着地した。地鳴りと、その裏でぐちゃり、水音が鳴った。着地点に霞早太がいた。大蛇の腹の下でくぐもった声が聞こえる。大蛇は腹を地面へ擦り付ける。声が収まったところで、大蛇も動きを止め、地面にとぐろを巻いたまま動かなくなった。


 荊凍ケイテは呆然として大蛇を見ていた。オレンジの陽を浴びても青か緑かはっきりしない、寒色の輝きの鱗。渦巻く蛇を眼前に、荊凍ケイテの脳裏に白黒二色が絡み合う太極図が浮かんだ――――果たしてあれほどはっきり白黒分かれるものだろうか――――BTB溶液のph検査結果のように、世界はグラデーションなのではないか、或いは、この蛇のような移ろう色――――


 大蛇の腹の一箇所が大きく膨らみ、そのまま肉が裂け、隙間からメカクレがまろび出た。それまでの少年の姿ではなく、大人の体格になっていた。大蛇の躰はたちまち乾き、縮み、巨大な抜け殻だけが残った。一糸纏わぬ姿のメカクレが荊凍ケイテの座る樹へ近付く。荊凍ケイテの喉がひゅっと鳴った。メカクレが荊凍ケイテの頭上の枝へ手を伸ばした。荊凍ケイテが見上げると、そこには〝人間の抜け殻〟とでも形容すべきものがぶら下がっていた。メカクレは〝抜け殻〟から浴衣を剥ぎ取って羽織り、雑に兵児帯を結んだ。もう、おはしょりは必要なかった。

「君は……」

「はじまりは、ある人喰いの大蛇でのう」声もまた、元通りだった。

 荊凍ケイテは目を見開いて固まった。メカクレは顔を伏せており、髪が邪魔して表情は窺えない。

「しかしあの巨躯は目立つ。人が徒党を組み、武器を巧みに操り戦うようになると、人に狩られるようになってしまった。そこで、人に化けて騙して喰うようになった」

 メカクレは抜け殻の腕を引き千切り、眼帯のように左眼へ結んだ。

「その子らは代を重ね、長い時間を人の姿で過ごすうち、大蛇に戻れぬようになった。そうして人を喰うことも忘れ、ついには未練がましく、時折人の血を啜るのみとなった」

 荊凍ケイテは唾を飲み込もうとしたが、口が乾いて殆ど飲み込めなかった。何度か空振りするように唇を上下させた後、枯れた声で絞り出した。

「なら、先刻さっきの姿は」

 メカクレが顔を上げ、荊凍ケイテの顔を見ながら答えた。

「わしは不具でのう…….生まれつき左眼の具合が悪うてからに、蓋をしておかねば、ああして中身が溢れてもうて」

 乱れた髪の隙間から、右眼が光る。左眼は結んだ抜け殻と前髪に隠されているが、荊凍ケイテはなぜか両目で射られた気がして、目を逸らして空を見た。


 南洋の景色は、コバルト・ブルーの空を天井に、幻覚のように色鮮やか。

 横たわる抜け殻は半透明で青や緑に弱々しく揺らぎ、かと思えば陽を照り返して山吹。現に渦巻く、曖昧な〝あをいろ〟の混沌。

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