水薬

 荊凍ケイテが看護師詰所に入ると、十花勝トカチが一人でカルテを整理していた。

「体調はどうかな」

「今のところ何も。荊凍ケイテ先生こそ」

「ぼくも平気だ。ところで、硫咲イサキ先生を見なかったかな」

「見たような、見なかったような」

 十花勝トカチは棚に向かったまま答えると、薄ら笑いを浮かべながら荊凍ケイテに詰め寄った。

「そんなに硫咲イサキ先生が気になりますか」

 荊凍ケイテは壁際まで後退った。

「仕事の用事に決まっているだろう」

「本当かしら」十花勝トカチが両手で荊凍ケイテの肩を押した。

硫咲イサキ先生は家庭持ちだ。君も知っているだろう」

「でも、荊凍ケイテ先生のお祖母様は……」

「今はそんな時代ではない」

 十花勝トカチは片手で白衣の釦を外すと荊凍ケイテの脇腹を探った。白衣の下に着る防暑略衣は、脇に釦で開閉する通気孔があった。その隙間に、指を潜り込ませる。脇腹を撫でる指の感触に、荊凍ケイテがびくりと肩を震わせた。

「君、いつからこんな大胆になったんだ」

 荊凍ケイテは小声で言い、詰所の小窓を見た。廊下を歩く者はいない。

「やりたいことをなんだって出来る、と教えてくださったのは荊凍ケイテ先生ではありませんか」

 もう片方の手を首へ顔へと滑らせ、荊凍ケイテの唇をつついた。荊凍ケイテの視線が十花勝トカチへ注がれる。艷やかな褐色の肌に今にも火が吹き出しそうな紅い瞳、触れれば皮膚を裂きそうな、黒耀石の髪。

 十花勝トカチが不意にぱっと身体を離し、莞爾にっこりと微笑んた。

硫咲イサキ先生なら、薬品倉庫の隣にある物置にいらっしゃるかもしれません」



*****



 硝子のスポイトから、無色透明の液が湯呑みの茶へ落ちる。スポイトが小机へ置かれた。傍らの硝子壜ガラスびんには「藍空薬局方 塩酸コカイン」と印字された白いラベル。

 硫咲イサキが茶を一息に煽った。椅子へ背を持たれさせ、天井を仰いで深呼吸する。ぬるい茶が空の胃へ落ちる。乾いた身体に水分が染み込み、脳を覆う疲労の霧がじわじわ晴れていく。電灯を落とした昏い部屋、窓を見ると、星がチカチカと強くまたたいている。密林から届く虫の音や蛙の声がそれぞれはっきりとした輪郭を持って聴こえる。廊下からはリズミカルに木を叩く音――――誰かの足音。

 硫咲イサキがはっとして戸を見た。鍵は掛かっていない。

 がらり、戸が開いた。部屋に足を踏み入れた荊凍ケイテの目が、闇に浮かぶ檸檬色の瞳と、机上の硝子壜を捉えた。後ろ手で扉を閉めた荊凍ケイテが顔を背けて言う。

「瞳孔が散大しています。スコポラミンでも点眼しましたか」

「いつの間に近視になったのかね。あまり進行が早いようなら網膜剥離にでもなったのかもしれん。診てやろう」

 荊凍ケイテは目を逸らしたまま強く瞬きをした。

「俺は下戸なんだよ」

「そういう問題ではありません」

「覚醒アミン嗜癖症の更生施設と同じだ。状態に置かれれば、と思ったんだがな。幸か不幸か、いや、不幸にも在庫が豊富らしい。どうも沖縄で増産に成功したんだとか。外科でも眼科でも、軍で麻酔は入り用だからな」硫咲イサキの語り口は軽い。

「それが目的で軍に……」

「まさか。だよ。さて、大尉に言うか、少佐に言うか。それとも中佐に言うかね。なあ、

 荊凍ケイテがちらりと硫咲イサキを見たが、瞬きもせず荊凍ケイテを貫く視線に、また目を逸らした。幾度か深呼吸すると、硫咲イサキを見据えた。

「戦地で軍医が死ぬのはどんなときか、と言いましたね」

「ああ」

「過労で死ぬのは、勘弁願いたいものです」

 硫咲イサキは思い出したようにパチパチと瞬きした。

「そうだな、身体を労るために、よく寝て、栄養のあるものを喰うといい。やはり卵なんかがいいぞ。完全栄養食だ。聞いたか、鶏舎でそろそろ卵が」――――

 荊凍ケイテは逃げるように部屋を去った。

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