赤い水

 会議室の長机を、院長以下、軍医たちが取り囲む。

 湖弓がノートに万年筆を走らせながら言う。

「――えー、では、昨日の事案を鑑みて『手榴弾での魚獲り禁止』という規則は『手榴弾での狩猟禁止』に改めるということで。ああ、例の少年たちには、次こそ反省室送りだと警告しております」

「狩猟禁止にもちろん異議はないけれど、食糧不足も心配ね。きちんと食べなければ癒るものも癒らないもの」と紫晶華ショウカ。机の端で、硫咲イサキが大きく頷いた。

 若い少尉が答える。

「そちらも考えております。畑を拡大し、鶏舎も作りました」

「それは重畳。是非励んでちょうだい」

 上座に座る院長、巳助ミスケ中佐が、硫咲イサキの隣に座る荊凍ケイテへ問う。

「錦蛇の中身は、行方知れずになっていた高射砲部隊の者だったな。解剖結果は」

「死因は窒息で、生前に肋骨と上腕骨が折れています。その他の損傷は少なく、錦蛇に絞め殺され、丸呑みにされて間もなかったと見て間違いありません」

「今回は素直な事例だな」

 荊凍ケイテが答える前に、湖弓が話し始める。

「遺体だけ見ればそうですが、実は気掛かりな点もあります。彼は元来情緒不安定の傾向ありとは聞いていましたが、親しい者が最近明かしたことには、彼は行方知れずになる前、しばしば軍への不満を口にし、その上」――――

 激しいノックの音がして、棘途キョクトが扉を開けた。

「会議中に失礼いたします、捕虜の容態が急変しまして……」



*****



 ベッドに横たわるアルフは目を閉じ、大きく胸を上下させている。

 棘途キョクトが体温計の目盛りを読み上げた。荊凍ケイテが触れると真っ赤な顔は熱い。

「ドクトル、死ぬ前に本当のことを言わせてくれ」

 荊凍ケイテがアルフの胸に聴診器を当てると、ポコポコと水音が聞こえる。

「エンジンがいきなり火を噴いたというのは嘘だ。恥ずかしいから黙っていたが俺の操縦ミスで落ちたんだ」

「あまり喋ると……」

 荊凍ケイテは脇机の血圧計を見て、口を止めた。赤い線が低い場所で上下している。

「いや、続けてくれ」

「俺はパイロットに向いていない」

「ビタカンです」棘途キョクトが注射器が載った盆を差し出した。

「戦争も、藪蚊ばかりのジャングルにも、うんざりだ……」

 荊凍ケイテが注射針を肩に刺すと、針と皮膚の境から、血が流れ出した。どくり、荊凍ケイテの心臓が跳ねた。内筒を押し込みながら患者を観察する。白い患者衣は汚れていない、ギプスを着けた脚、痩せ細った躰、閉じた瞼――――アルフがぱっと目を開いた。真っ赤に充血した虚ろな眼。たらりまなじりから血が一筋。

 棘途キョクトが叫んで後退るのとほぼ同時、アルフが噴水のように血を吐いた。噴き上がった血はボタボタと彼の顔に、首に、胸に落ち、飛沫がシーツを赤く染める。

「あの、血液検査では、マラリアだと……」

「光学顕微検査でロブラは判別できない……二重感染だ。早くマスクと手袋に消毒薬、誰か看護師も……」

 棘途キョクトは部屋を飛びだした。アルフは譫言うわごとのように話し続ける。

「ミシガン湖畔の静かなモミの森が懐かしい……森……父さんは黒い森シュヴァルツヴァルトのお伽噺をしてくれたっけ……なあドクトル、また聞かせてくれ……祖父さんの……」

「あ、ああ……春の朝には妖精たちエルフェンが花の上を舞い、冬の夜は狼人ヴェアヴォルフの雄叫びがこだまする…………」

 荊凍ケイテは細くだけ開いた口から掠れた声を押し出した。注射器を脇机に置くと、浅く呼吸しながら傷口を消毒する。ガーゼを押し当てると見る間に赤く染まり、端から血雫が垂れる。その間アルフはもごもごと呻いていたが、がばと急に起き上がった。

「おい、どうした」――――

 バケツで血を被ったような身体から、ゆらり手を伸ばし、アルフは脇机の注射器を掴んだ。

 荊凍ケイテはひゅっと息を呑み身を引いた。彼女へ向け腕を振ったアルフは、勢い余って顔面から床へ落ちた。が、すぐにふらふらと立ち上がった。ギプスを巻いた片脚をずるずると引き摺りながら荊凍ケイテに向かう。

「止まれ」

 荊凍ケイテが白衣の下から軍刀を抜いた。白刃を眼前に、アルフは立ち止まって膝をつき、身体を折って再び激しく吐血した。床に血池が作られ、そこから流れ出す川も生まれた。荊凍ケイテは後退り、浅い呼吸で、足元を流れる血と大元を交互に見る。

 荊凍ケイテの背後で勢いよく扉が開いた。衛生材料を手にした棘途キョクト、それから十花勝トカチが部屋に飛び込み、ぴちゃり、二人の靴が川を踏んだ。

「来るな!」

 荊凍ケイテが振り向いて叫んだ。棘途キョクトは部屋を飛び出したが、十花勝トカチは血に足を滑らせその場へ転んだ。アルフが一瞬で荊凍ケイテの脇を這い抜けた。片手で十花勝トカチの足首を掴むと、逆の手で注射器を突き刺した。

 十花勝トカチの悲鳴が鋭く響いた。荊凍ケイテがアルフの襟を掴んで引き離そうとするがびくともしない。軍刀の柄で頭を殴ると、アルフは振り向き、よろめきながら立ち上がり、注射器を手に荊凍ケイテへ飛び掛かった。

 針が荊凍ケイテに届く前に、白刃がアルフの身体を撫でた。前腕の肉がぱっくりと割れ、吹き出した血が荊凍ケイテの顔に飛び散る。荊凍ケイテは顔を背けぎゅうう、と目を閉じた。

 ばちゃり。

 血海の中へ、アルフが倒れた。びくびくと痙攣し、都度血を跳ねさせる躰を残して、医者と看護師は逃げ出した。



 荊凍ケイテが小銃を持った将兵を伴い部屋に戻ったとき、部屋は壁と言わず天井と言わず血が飛び散り、患者は床の血池で息絶えていた。



*****



 手術台の上、全身を隠す覆い布の隙間から、開かれた腹を露わにする死体が横たわる。

 傍らでは荊凍ケイテが、琺瑯の洗面器に置いた胃から、鑷子ピンセットでオレンジ色の羽根を摘み出した。湖弓と、書類を手にした若い軍医が羽根を見る。

「妙だと思ったのです。ロブラとマラリアの二重感染にしても、進行が急すぎます」

「錦蛇からは出なかったから、ようやく終わったと思ったが」

 湖弓が溜息をついた。

十花勝トカチ君の様子は」

「仮に感染していたとしても潜伏期間です。彼女も棘途キョクトも、日に三度検温し体調に異常があればすぐ報告するよう指示しています。検温はぼくも同様に行います」

 荊凍ケイテは羽根をクレゾールで洗い、硝子壜に入れた。

「マラリアでも脳症による他害行為はあります。衰弱しているからと油断せず、武装した兵士を同行させるべきでした」

「その点は俺も油断していた。あの脚で大したことはできないと思ったが……」

 湖弓は、このあと盲腸の手術がある、と言い残し、若い軍医を伴って去っていった。入れ替わりで紫晶華ショウカが入ってきた。

「珍しい症例なので見ておこうかと思ったのだけど、もう終わりかしら」

「はい」

 荊凍ケイテは死体の身体を縫い閉じながら、横目で何度も白布で覆われた頭を見ている。

「彼とは親しくしていたようね」と紫晶華ショウカ

 荊凍ケイテが手を止めた。まだ縫われていない皮膚の間から、腹の中を見る。

「ここに来てから、いえ船の上でも、沢山の患者を看取ってきました」

「そうね、いきなり大変だったと思うわ…………」

「人間、皮膚の下一枚は皆同じなのですね」

 面を上げて荊凍ケイテが上級医の顔を見た。

紫晶華ショウカ少佐、ぼくは臨床に向いていないでしょうか」

「手術の腕は見込みがあると湖弓が言っていたわ」

 荊凍ケイテは無言で手元に視線を戻した。鋭利な開創と等間隔に並んだ縫い目。

「人間、誰しも得手不得手があるでしょう。実を言うと私の興味もどちらかというと研究にあるの。硫咲イサキ先生の方がいいアドバイスをくれるかもしれないわね」

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