黒い雲が夕日を隠した。一気に暗くなった谷間を、冷たい風が通り抜け、荊凍ケイテが身震いした。雨が近い。

 川の音を背景に、震える声で棘途キョクトが語りはじめた。


遥基隔はるかもとへだてが昏き処に籠り、藍宙美上あいぞらみかみが無聊を持て余す折り、海は猛り河は逆巻き、空に昇った水巳那みみな藍宙美上あいぞらみかみの元へ忍び、大層もてなした。すると地に雨が降り注ぎ、草の一本に百の花が咲き、樹の一枝に千の実が成った」


 短い説話が終わるまで、他に言葉を発する者はいなかった。

「蛇は嫌いだ」

 そう言い捨て、棘途キョクトは密林へ駆けていった。残った少年たちは動かない。荊凍ケイテは逃亡者の後を追って走り出した。


 荊凍ケイテが密林に入ると、一気に湿気が濃くなった。霧で霞む薄闇を走る。目で追っていた先を走る影がぱっと消えた。訝しみつつ進むと、腰の高さまであるラワンの板根があった。熱帯雨林に育つ巨木特有の、板のように地表へ張り出した根である。根本から幾つも拡がる板根の隙間で、棘途キョクトが膝をついていた。板根に躓いたようだった。

 棘途キョクトは立ち上がり手で服についた泥を払う。戻るぞ、と荊凍ケイテが言ったがその場からは動かない。

「脱走兵として反省室に入りたいのか」

 ぱらぱらと雨が降りはじめた。バナナの葉を叩く雫が、ぱた、ぱっ、と音を立てる。

「俺の名前、そんなに変だと思いますか」

 俯く棘途キョクトの帽子に水染みが増えていく。

「ぼくの名は知っているだろう。女ににすいは珍しいが、使っていけないわけではない。男の名前にも、どんな字を使うか決まりはない」

 荊凍ケイテは板根を乗り越えて棘途キョクトの隣に立つと、足で地面にKätheケーテと書いた。

「……ノイ・ハイマットラントNHILは同盟国です」

「君が生まれる前はそうでない時期もあった。この戦争でも、同盟国だったアルブステッラの降伏後に、アルブステッラ人は外国人収容所に入れられた」

 遥か頭上でバタバタと雨粒が葉を叩き、大きくなった雨粒はすぐバナナの葉も叩き始めた。

「この間の手術を覚えているか」

 棘途キョクトが小さく頷いた。荊凍ケイテはかつて祖父の言ったことを思い出した。



*****



 窓を叩く雨風が望月の輪郭を歪ませる早秋の晩。

 荊凍ケイテが書き物机に向かう潤牙ウルガの肩を揺すり、潤牙ウルガは本の頁を繰る手を止めて荊凍ケイテを見た。娘の頭は、父の頭より少しだけ低い位置にあった。

「お父様、脚が痛くて眠れないのです」たどたどしい、高い声。

「どれ、見せてご覧」

 潤牙ウルガ荊凍ケイテを膝に乗せ、脚の様子を改めた。腰揚げをした浴衣から覗く脚はすらりと長い。

「怪我もないし、悪いところはなさそうだ。成長痛だろう。荊凍ケイテはどんどん大きくなるね」

「同級で一番になりました。男子にも、ぼくより大きい者はおりません」

「そうか。そのうちいくらかの者はじきに君を追い越すだろうが、残りの子たちはついぞ君には及ばないかもしれないな」

 荊凍ケイテが目を伏せ、小声で言う。

「男子たちが云うのです。男みたいに大きくて気色が悪い、不気味な異人の子、と」

 潤牙ウルガは溜息をつき、荊凍ケイテの頭をくしゃっと撫でた。骨張った指に絡む淡い灰金の髪が、デスクライトの灯りを透かす。

「少しドライブしようか」そう言って荊凍ケイテを抱え上げた。



 潤牙ウルガが扉を開くと、大理石の解剖台に載った死体の胸を、ベルトルフがメスで開いていた。死体の腰から下は白い覆布で覆われている。老医師は肉を切る手元から目を離さずに言う。

「子供は寝る時間だ」

「どうも寝付きがよくないようで、気分転換に。父様こそこんな遅くまで精がでますね」

「冷蔵庫の調子が悪いからな。仕方ない」

「明日、修理人が来ますから」

 潤牙ウルガ荊凍ケイテに声を掛ける。

「怖いかい」

いいえ、全く」

「この臓器が何か分かるかな」肋骨に覆われた内蔵を指した。

Lungeルンゲです」

「そうだ。では、これを見て、患者がどの国の者か判るだろうか」

 荊凍ケイテは首を傾げ、遺体の顔を見た。顔にも白布が載せられていた。

 ベルトルフが解剖の手を止めて荊凍ケイテを見た。荊凍ケイテが頭を反らして見上げる。高い眉骨の下で淡い金の瞳が、彼女の知る限り一番高いところからの視線を投げかけた。



*****



「人間、薄皮一枚の下はみな同じだ」

 スコールがバナナの葉を激しく揺さぶり始めた。荊凍ケイテは板根を跨いで元来た方へ戻る。今度は棘途キョクトも板根を乗り越えた。

 重い雨粒が地面を抉るように叩きつけ、文字は消えた。

 スコールが土を洗い流すため、熱帯雨林の土壌は浅い。地表に張り出した板根がなけれは、巨木はその身を支えられない。

 浸蝕する水に抗う仕組みなのであった。



 二人が川原へ戻ると、残された三人は庇のように崖から張り出して生えた樹の下にいた。霜銀ソウギンがそこから飛びだして、棘途キョクトの前に来ると、俯いて肩を震わせはじめた。何か言ったか泣いたか、スコールの轟音で何も聞こえず、顔も頭もずぶ濡れだった。

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