水の章

 山あいを蛇行する川岸に、断崖が鋸歯のように並ぶ。

 流れの外側は水流が速く、岩飛沫が白く舞う。猛る水は崖を削り出し、水面から昇る水蒸気は雲を成し、雨を降らし、溢れる川は一晩で土地の形を作り替える。

 内側の流れは緩く、石川原を作る場所もあった。しかし川原の小石も、水が洗って丸めたもの。


 そんな河原の一つで、平らな石の上に仔猿の生首が置かれていた。

 人間の子供にも似る無毛の小さな顔は、額から上の皮と骨が切り取られ、脳味噌が露出している。てらてらとした粘液に覆われた乳白色の組織は、夕陽を帯びて電球のように光る。

「やめてくれ、なぜそんな残酷なことが出来るんだ」

 鋸浦が霜銀ソウギンの腕に縋り付いて言った。

「残酷も何も、もう死んでる」

 霜銀ソウギンが鋸浦の手を振り払った。棘途キョクトは顔を寄せて脳の匂いを嗅いでいる。

「生はだめだ。どんな寄生虫が潜んでいるともわからない。火を通せ」

 下流から荊凍ケイテの声が飛んできた。

 少年たちはぎくりとして声の来し方を見た。匙を脳に差し込んでいた斑雲むらくもは、がっくり肩を落として匙を引き抜いた。

「まったく、小銃まで持ち出して」

 少年たちの元へ着いた荊凍ケイテが、岩に立て掛けた小銃を見咎めた。棘途キョクトが反駁する。

「狩りに使うのは許可を得ています。それに、食糧を集めよというのも湖弓大尉のご指示で……」

「貴重な弾薬を消費して集めた食糧を独り占め、いや四人占めせよというのも指示に含まれていたかな」

「血抜きして頭は捨てた、ということにしようと思ったのです」

 斑雲むらくもが平然と言い、背後の樹を指した。枝から首無しの仔猿が逆さ吊りになっている。首の断面からは血雫が滴り、辺りの石を赤く染めていた。猿の腕は体長に比して長い。手長猿の一種のようだった。

「手榴弾も、魚獲りの禁止であって動物の狩猟禁止ではなかったはずです」

 斑雲むらくもがつらつらと続けた。軍帽にはオレンジの菊のような名も知れぬ花を飾っている。霜銀ソウギンが、崖の中腹を這う灌木の茂みを指して言う。

「別の場所で見付けたとき銃を撃ったら外してしまって。今度は外すまいと……」

「まさか、あんなところへ手榴弾を投げつけたのか。崖崩れを引き起こしたらどうする」

 霜銀ソウギンは口に手を当て「しまった」という顔をした。荊凍ケイテが溜息をつく。

「とにかく撤収するぞ。暗いと危ない。獣や鳥……人も、何が潜んでいるやら」

 荊凍ケイテが周囲を見回した。崖や対岸の密林が、川原に長く交錯する影を落とす。崖の根元や中腹には灌木や蔓性植物が茂っており、その上を小鳥が跳ね、あるいは草の下で小動物が動くたび、葉が揺れる。

 少年たちが荷物と獲物を片付けはじめた。棘途キョクトは腰のホルスターに手を宛てながら周囲を警戒する。対岸の密林は川面に被さるよう枝葉を伸ばしている。川幅は狭く、虎でも渡って来れそうだった。いや、川ならもしかすると鰐――――

 荊凍ケイテの思索を中断して少年たちの悲鳴が響いた。

 はっとして振り向くと、一匹の手長猿が霜銀ソウギンを襲っていた。逃げる霜銀ソウギンが石に躓いて転び、長い腕が彼の背中に届く―――寸前で猿はくるりと方向転換し、生首の載る石へ飛び乗った。仔猿の首を掴むと、脇に抱えて走り去る。

 べちゃり。衝撃で脳味噌が河原に落ちた。 目玉も転がり、石の間に挟まった。空っぽの頭が、猿の腕の中で揺れながら灌木の茂みへ消えていった。

 仔猿の躰が吊るされた樹の陰で斑雲むらくもが言う。

「母猿ですか。こちはの肉は無事で」――――

 灌木の茂みに隠れていた棘途キョクトが、悲鳴を上げて飛び出した。石の上にへたり込み、茂みを指す。

「なにか、ぐにゃりとした太いものを踏んで……」

 あっ、と霜銀ソウギンが声を上げた。

「死体じゃないか。だって、まだ一人……」

 棘途キョクトの、普段は血色の良い灼けた頬が青褪めた。全員の視線が茂みに注がれる。荊凍ケイテが一歩踏み出して言う。

「待て、ぼくが見てくるから」――――

 がさ、しゅるる。

 茂みから顔を出したものを見て、荊凍ケイテは言葉を失った。巨大な錦蛇が鎌首をもたげ、長い舌を鞭のようにしならせていた。斑紋のある褐色の鱗が、水平に射すオレンジの陽を反射してぎらりと輝く。

 荊凍ケイテが銃を抜くより速く、錦蛇が棘途キョクトに巻き付いた。一瞬で棘途キョクトの身体を締め上げる。手脚も一緒に巻かれ、頭しか動かせない。さらに、その頭は蛇の頭の近くにあった。荊凍ケイテは灌木の下でうねる尾に向けて撃ったが、見えないものは当たらない。

 霜銀ソウギンが小銃を一発撃った。反動で小さい身体は跳ねて尻餅をつき、弾は明後日の方向へ飛んで行った。やめろ、と叫んで荊凍ケイテ霜銀ソウギンから小銃をもぎ取った。

 蛇に締め上げられた棘途キョクトの呻き声は段々小さくなっている。荊凍ケイテが周りを見れば、鋸浦は腰を抜かしてへたり込み、斑雲むらくもは樹の陰から様子を窺うだけで動く気配はない。頭を抱え、震える喉で息を吸い込むと、川に向けて青蛇の渾名を叫んだ。

 ――――ざぱり。

 川瀬に立った浅葱の浴衣。背を丸め、青磁色の髪からぽたりぽたりと雫が落ちる。びちゃ、と川面を尾で叩くと霜銀ソウギンと鋸浦が悲鳴を上げた。震える子らの間を、異形の童子が進み、ぺたり、かちゃりと裸足で石を踏む。

 錦蛇の元へ辿り着くと、胴の間に手を差し入れた。めりめりと音を立て隙間を拡げていく。錦蛇は頭を仰け反らせ、開いた口からシュウシュウと呼吸音が鳴る。細い指が鱗を破って肉へめり込み、流れる赤が、褐色の表面に彩りを加えていく。指が根本まで埋まり、胴の隙間から棘途キョクトの胸が見えるようになった頃、錦蛇は縛めを解いた。

 棘途キョクトが地面に転がり、荊凍ケイテが駆け寄る。上着を剥ぎ取って身体の様子を改める。入れ替わりでメカクレは下がり、湿った尾を引き摺って川岸に戻ると、川に張り出した枝へ飛び移り、対岸の密林に消えていった。

「骨は折れていなそうだし呼吸に異常もない。念のため病院へ戻ったらX線写真を撮ろう」

 聴診器を棘途キョクトの胸から外すと、荊凍ケイテは錦蛇に目を向けた。血を流し、躰――胴の中程が異様に膨らんでいた――を重たげにくねらせて去りつつある。小銃を手に近付いたが、鋸浦が駆け寄り荊凍ケイテの腕に取り付いた。

「待ってください、もう人を襲う力は……」

「この膨らみを見ろ」

 銃口で腹を指した。

「食い出がありそうですね」

 荊凍ケイテがぎくりとして振り向くと、いつの間にか鋸浦が背後に立っていた。が、すぐ猿の死体の側へ戻った。荊凍ケイテはふぅと短く息をつき、霜銀ソウギンに言う。

「死体かもしれない、と言ったな」

 霜銀ソウギンも蛇の腹を見て、顔を引き攣らせた。鋸浦は荊凍ケイテの腕から手を離した。

 荊凍ケイテは錦蛇の頭に二発撃ち、動かなくなったことを確認すると、霜銀ソウギンの銃剣を借りて錦蛇の喉元に刺した。鋸浦と霜銀ソウギンが背後で見守り、「中身を占いましょう。人、猿、蛇――――」頼みもしない背景音楽が流れる中、刃を降ろして行く。

 刃先が硬いものに当たった。筋肉の裂け目を拡げ、ぱんと張った腸を破ると、ぼろり、靴の爪先が飛びだした。「なあんだ」斑雲むらくもが花弁が一部毟られたオレンジの菊を投げ捨てた。荊凍ケイテの背では、この川原で、いな、この島で何度聞いた判らない少年の悲鳴。それと――――

「ちょっと待ってください」

 掠れた声。棘途キョクトも背後に立っていた。痛むのか腕を擦っている。幾度か咳き込んだ後、言葉を続ける。

「助けていただいたことには感謝します。しかし、は何者ですか」

「彼は……」

水巳那みみな様の御使いに違いない」

 霜銀ソウギンが大声で言った。銀の睫毛が縁取る眼は見開かれ、古い人形のように乾いている。言葉を遮られた荊凍ケイテは、二の句を継げないでいる。

「なぜなら蛇は」

「俺は蛇に殺されかけたんだ。霜銀ソウギンだってを怖がっていただろう」

「そうだ。怖いさ。なにせ水巳那みみな様はときに猛る――ああ、知らないのも仕方ない。君の名前では水巳那みみな様のご加護も受けられないし――」

「知らないとは言っていない!」

 裏返る叫び声が、崖の間に反響した。

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