樹脂

 少年たちが土を掘り一輪の手押し車で運ぶ。上がったばかりのスコールで濡れた土は至る所が泥濘ぬかるみ、細い腕が押す土砂を満載した手押し車は、危なっかしくふらつく。それでも病院附きの少年たちより体格が良い者や年嵩としかさの者が多く、階級章の脇に添えた双葉を象った章がなければ成年の兵士と見分けがつかない者もいた。

 密林の中ぱっと拓けた建設現場には、これから滑走路になるであろう長く深い穴があり、所々水が溜まっている。

 穴の縁から荊凍ケイテが覗き込む。隣には十花勝トカチを伴い、周囲を飛行場建設部隊の者たち囲む。

「やはり掘り進めるに従って水溜まりも増えたようだ。殺虫剤か石灰を撒くように」

 年若い工兵の少尉が、はい、と返事した。

荊凍ケイテ中尉、あちらは」

 十花勝トカチが密林と建設現場の境を指さした。椰子の切り株がいくつも転がっており、根本を掘り起こした穴はそのままになっている。

 一行が椰子の切り株に向かう。学生のような丸顔の少尉は、歩くたびガチャガチャと軍刀を蹴っている。長い脚に軍刀を絡ませず颯爽と歩く荊凍ケイテを見て「普段は外していますのでなかなか慣れず……お恥ずかしい」と言い訳した。

「これはもう埋めていい穴のように見える」

 荊凍ケイテが一つの穴を覗くと、底に濁った泥水が溜まっていた。十花勝トカチも覗き込んだが、すぐに身体を引いて、泥が裾に跳ねていないか確かめた。屋外作業用のため茶色に染めたハーフパンツに、見た所目立った汚れはなかった。

「ええ、まあ……しかし人も足りないので後手に回ることも……」

 少尉はちらちらと横に立つ軍曹を見ながら歯切れ悪く答えた。

「面倒に思えるかもしれないが、マラリアで働けなくなる者が減れば、長期的には生産性が上がるはずだ」

「少尉、あとで誰かに埋めさせておきますから。マラリアで人がどんどん減るのには俺たちも参っているんですわ」

 軍曹が挟んだ。精悍な顔立ちで、赤く灼けた肌には歳の割に深い皺が刻まれている。軍刀は吊っていない。これが自分の正装だ、と主張するかのようだった。

「そうしてもらえると有り難い。あとは、陽が高いうちは日射病防止のためにも薄着になるのは已むを得ないが、夕刻以降は極力長袖を着用するように」

 周囲を見渡すと、半袖の防暑略衣の前を開けて作業する者も多かった。熱帯の陽にじりじりと焦がされながら、シャベルを、ツルハシを振るう。

 生産性――とは言ったものの、実のところ彼女は焼け石に水程度の生産性向上にさしたる期待は寄せていなかった。というのも、建設現場にトラックなど車両や機械は僅かで、殆ど人力で建設は行われており、素人目にも飛行場の完成が遠いことは明らかだった。

 彼女は単に、指示が守られやすいような衛生指導をして病人を減らすのも、医師の技量の一つと考えていた。

 遠くから鷹揚に歩いてくる、口髭を蓄えた将校がいた。建設部隊長の大尉だった。一行が敬礼で迎える。

「君が兵站病院の新任中尉か。まあよろしく頼むよ。うちのは可哀想に、大学を出てすぐ南洋に一人で放り込まれたもので、ひぃひぃ言っているんでな」

 大尉の言葉に、目の下に隈を作った年若い軍医が、肩を竦める。

「はい、あの、服装や、宿舎の衛生については私からも言って聞かせますので、よろしくお願いいたします」

荊凍ケイテ中尉です。こちらは看護師の十花勝トカチ。お忙しい中ご協力ありがとうございました。では、そろそろ失礼いたします」


 立ち去る荊凍ケイテが、横を歩く十花勝トカチに尋ねる。

「飛行場を作るのはいいが、この島に来てからまだ友軍機を見ていないな」

「私もです」

 二人は丸太を担いだ少年とすれ違った。ベレー帽には泥で汚れた銀糸の蚕蛾カイコガ。しかし蛾であれ蜻蛉であれ、飛ばす飛行機があったとて、飛行兵でない彼自身が空へ飛び立つことはないのであった。



*****



 密林を裂いて流れるペトロール・グリーンの河。ぱちゃ、青緑の蛇が顔を出し、とぷん、すぐまた潜った。

 河原には、桃花を咲かせた灌木が茂っている。十花勝トカチが花に顔を近づけた。パウダリックな甘い香りが鼻を刺す。

「本当に強い、甘い香り」

「ああ、しかし夾竹桃キョウチクトウには強力な毒があるから、あまり触らない方がいい」

 花に触れようとした十花勝トカチの手を取って荊凍ケイテが言った。

「まあ。香る花には毒がある、というわけですね」

 川から風が吹き込み、名前の通り竹のような細い葉がさらさらと鳴った。あちこちに着く、ペーパーフラワーのようなくしゃっと丸い八重咲きの花が、香りを撒き散らす。荊凍ケイテが深呼吸した。

「ぼくもはじめて嗅ぐが、ここまで強烈とは。南洋の花は香りが強いのが多いな。この日射しと暑さがそうさせるのだろうか」

 見上げるとオレンジの太陽が空高く輝いていた。南洋の太陽は、色まで北海道の太陽――冬は青白く夏には冷たい黄――と異なっていた。荊凍ケイテが額の汗を拭い、水筒の水を飲んだ。

「紅茶の方がこの舶来の菓子のような香りに似合ったもしれないな」

「でも、熱すぎるかもしれません。ああ、そういえばあの紅茶、看護師たちに大層好評ですよ。砂糖を一匙入れて飲むと、夜勤のときにしゃきっとします」

「それはよかった。それにしても、今日はぼくの用事に付き合わせてすまなかったね」

いいえ、ずっと病院に籠りきりで退屈していましたから、気分転換になりました。それに」

 そう言うと、十花勝トカチ荊凍ケイテの胸に飛び込んだ。

「こうして荊凍ケイテ先生と二人の時間も取れましたし」

 見上げるのは、オレンジの陽も油と燃ゆる、熱を帯びた紅の瞳。

「あまり長居はできないがな」

 荊凍ケイテ十花勝トカチの背に手を回した。

 十花勝トカチ荊凍ケイテの肩越しに、樹々の隙間から覗く、椰子の葉で屋根を葺いた高床式の小屋を見付けた。

「あの小屋……」

「人形小屋だな。この夾竹桃も小屋の周りに植えたものが広がったのだろう」

 荊凍ケイテも振り向いた。よく見ると密林の中に点々と桃花が見え、小屋の周囲にも咲いているようだった。

「まったく、樟脳臭い人形の何がいいのか理解しかねるが……少し場所を変えようか」

 そう言った荊凍ケイテに応えて、十花勝トカチが密林の中、小屋とは別の方角を指す。

「なら、あちらへ。良い香りがします」

「確かに、夾竹桃とは別の……」

 二人は密林に分け入った。密林とは言っても足の踏み場も無いほど草が繁るのは陽光の豊富な辺縁部――河岸や道路沿い――である。光に乏しい内部へ進むにつれ、下生えは減っていった。そのうち、ある大木が陽を独り占めする空間へ出た。

 その樹は、幹から乳白色の樹液を流していた。周囲にはスパイシーな甘い香りが広がっている。

「まあ、なんて刺激的な香り」

 うっとりと十花勝トカチが言った。荊凍ケイテは根元に転がる固まって石のようになった樹脂を拾って嗅ぐ。

「バニラにも似た香りの樹脂……おそらく安息香ベンゾインだ。くらくらする」

 荊凍ケイテが後ろから十花勝トカチに抱きつき、十花勝トカチは、きゃっ、と声を上げた。

「イランイランほど有名ではないが、安息香も効能を持つという」

 吐息が耳をくすぐり、十花勝トカチの肩がぴくりと震えた。荊凍ケイテが後ろから覗き込むように十花勝トカチの胸元に顔を近付けた。玉の汗が褐色の艶肌を流れる。

「安息香もいいが、ここが一番いい香りだ」

 身体の前へ回された荊凍ケイテの腕に、十花勝トカチが手を重ねた――――



 ぽとり。荊凍ケイテの頭上に樹脂の塊が降ってきた。地面に広げた携帯用天幕から身体を起こす。幹のあちこちから、黄色がかった乳白色の樹脂が太い筋で垂れている。

「それにしても、これほど大量に樹脂が出るのか。南方の植物は活動が活発だな」

 十花勝トカチは横になったまま気怠げに樹を見上げた。幹の上方、裏側から布のようなものが枝葉の隙間から見えた。荊凍ケイテの袖を引く。

「ねえ、荊凍ケイテ先生、あれ……」

 荊凍ケイテも布を認め、二人は樹の裏側に回った。見上げると、高い枝に、体中にべっとり樹脂を纏う少年が座っていた。更に、防暑衣のはだけた胸から下腹部までまっすぐな切れ目があり、糸で縫われていた。荊凍ケイテが言葉を失って固まっていると、上空から風を切って鷲が急降下してきた。

 十花勝トカチの肩を抱えて荊凍ケイテが飛び退いた。しかし鷲は二人に興味を示さず、縫い目から血の滲む少年の腹を啄みはじめた。少年が小さく呻いた。声を上げるたび、口を覆うように固まった樹脂がぽろぽろと落ちる。

「まだ生きている!」

 荊凍ケイテが拳銃を抜いて構えた。狙いを定めようとしたが、射線上で加害者が被害者に重なっていた。舌打ちして空に向け一発撃った。が、鷲は銃声にも怯まず縫い目を啄み続ける。ついに糸が弾け、臨月の妊婦のように張った腹が裂けた。中には、巨大な樹脂の塊が詰まっていた。血と固まった樹脂が飛び散り、十花勝トカチが悲鳴を上げた。

 鷲が鋭い鉤爪で少年の頭を掴み飛び立とうとしたが、石を抱えた身体は重く、持ち上げることは叶わなかった。鷲が頭から鉤爪を離すと、バランスを崩した少年の身体は枝から落ち、頭から地面に衝突し、鈍い音を立てた。

 地へ堕ちた少年を尚も鷲は追ったが、荊凍ケイテが軍刀を抜いて振り回すと漸く空へ去っていった。

 あとには、全身が血と乳白色の樹脂で汚れ、首が折れ、腹に詰まった樹脂塊を曝す躰が残った。粘つく生乾きの樹脂が、甘い香りを撒き散らしていた。



*****



 ホルマリン浸けの標本が棚に並ぶ狭い室内。

 鑷子ピンセットに樹脂の塊を挟んで掲げ、荊凍ケイテが言う。

「整理します。今回の遺体は、胃に食物はなく、かわりに樹脂の塊がいくらかありました」

 湖弓と紫晶華ショウカが腕を組んでその様子を見る。荊凍ケイテは樹脂を琺瑯ホーローのトレイに置くと、トレイの中の、オレンジ色の羽根を指した。

「そのうちの一つを割って出てきたのがこの羽根です。口腔内や食道には生乾きの樹脂もあったため、胃にあった羽根を抱き込んで固まった可能性があります」

 上級医二人もトレイを覗き込む。荊凍ケイテは次に、オレンジ色の繊維を指した。

「これは、前回の遺体の消化器から摘出した、蘭の根に絡んでいた繊維です」

「一月以上ホルマリンに浸かっていたにしては、鮮やかな色ね」

「ええ。その点も奇妙です。そして……」

「人喰いウツボカズラにも鳥の羽根、か。なぜ今まで言ってくれなかった」

「気が触れたと思われるかと」

「まあ、人に話し難い体験ではあるな……しかし一番気掛かりなのはあの縫い方……あれはどう見ても……」

 そう言うと湖弓は、はっとして腕時計を見て「瓦斯壊疽の下肢切断手術があるので失礼します」と残し、足早に部屋を出た。

 無言の空間で、荊凍ケイテが硝子の小瓶に羽根や樹脂を収め、戸棚にしまった。部屋の扉を開けると、斑雲むらくもと、その陰に隠れるように霜銀ソウギンがいた。すぐにそそくさと廊下の奥へ向かって歩き出した。斑雲むらくもが、わざとらしい大きな声で霜銀ソウギンに言う。

「ほら、ぼくの占いのとおりになったろう」

 ぱたぱたと軽い足音を立てて少年二人は去る。その逆方向へ立ち去ろうとする紫晶華ショウカの背に、荊凍ケイテが声を掛ける。

紫晶華ショウカ少佐、このあとのご予定は」

「薬局で薬を調合するつもりよ」

 紫晶華ショウカが振り返った。一呼吸置いて、荊凍ケイテが言う。

「お邪魔でなければ、見学させていただけないてしょうか」

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