樹脂
少年たちが土を掘り一輪の手押し車で運ぶ。上がったばかりのスコールで濡れた土は至る所が
密林の中ぱっと拓けた建設現場には、これから滑走路になるであろう長く深い穴があり、所々水が溜まっている。
穴の縁から
「やはり掘り進めるに従って水溜まりも増えたようだ。殺虫剤か石灰を撒くように」
年若い工兵の少尉が、はい、と返事した。
「
一行が椰子の切り株に向かう。学生のような丸顔の少尉は、歩くたびガチャガチャと軍刀を蹴っている。長い脚に軍刀を絡ませず颯爽と歩く
「これはもう埋めていい穴のように見える」
「ええ、まあ……しかし人も足りないので後手に回ることも……」
少尉はちらちらと横に立つ軍曹を見ながら歯切れ悪く答えた。
「面倒に思えるかもしれないが、マラリアで働けなくなる者が減れば、長期的には生産性が上がるはずだ」
「少尉、あとで誰かに埋めさせておきますから。マラリアで人がどんどん減るのには俺たちも参っているんですわ」
軍曹が挟んだ。精悍な顔立ちで、赤く灼けた肌には歳の割に深い皺が刻まれている。軍刀は吊っていない。これが自分の正装だ、と主張するかのようだった。
「そうしてもらえると有り難い。あとは、陽が高いうちは日射病防止のためにも薄着になるのは已むを得ないが、夕刻以降は極力長袖を着用するように」
周囲を見渡すと、半袖の防暑略衣の前を開けて作業する者も多かった。熱帯の陽にじりじりと焦がされながら、シャベルを、ツルハシを振るう。
生産性――とは言ったものの、実のところ彼女は焼け石に水程度の生産性向上にさしたる期待は寄せていなかった。というのも、建設現場にトラックなど車両や機械は僅かで、殆ど人力で建設は行われており、素人目にも飛行場の完成が遠いことは明らかだった。
彼女は単に、指示が守られやすいような衛生指導をして病人を減らすのも、医師の技量の一つと考えていた。
遠くから鷹揚に歩いてくる、口髭を蓄えた将校がいた。建設部隊長の大尉だった。一行が敬礼で迎える。
「君が兵站病院の新任中尉か。まあよろしく頼むよ。うちのは可哀想に、大学を出てすぐ南洋に一人で放り込まれたもので、ひぃひぃ言っているんでな」
大尉の言葉に、目の下に隈を作った年若い軍医が、肩を竦める。
「はい、あの、服装や、宿舎の衛生については私からも言って聞かせますので、よろしくお願いいたします」
「
立ち去る
「飛行場を作るのはいいが、この島に来てからまだ友軍機を見ていないな」
「私もです」
二人は丸太を担いだ少年とすれ違った。ベレー帽には泥で汚れた銀糸の
*****
密林を裂いて流れるペトロール・グリーンの河。ぱちゃ、青緑の蛇が顔を出し、とぷん、すぐまた潜った。
河原には、桃花を咲かせた灌木が茂っている。
「本当に強い、甘い香り」
「ああ、しかし
花に触れようとした
「まあ。香る花には毒がある、というわけですね」
川から風が吹き込み、名前の通り竹のような細い葉がさらさらと鳴った。あちこちに着く、ペーパーフラワーのようなくしゃっと丸い八重咲きの花が、香りを撒き散らす。
「ぼくもはじめて嗅ぐが、ここまで強烈とは。南洋の花は香りが強いのが多いな。この日射しと暑さがそうさせるのだろうか」
見上げるとオレンジの太陽が空高く輝いていた。南洋の太陽は、色まで北海道の太陽――冬は青白く夏には冷たい黄――と異なっていた。
「紅茶の方がこの舶来の菓子のような香りに似合ったもしれないな」
「でも、熱すぎるかもしれません。ああ、そういえばあの紅茶、看護師たちに大層好評ですよ。砂糖を一匙入れて飲むと、夜勤のときにしゃきっとします」
「それはよかった。それにしても、今日はぼくの用事に付き合わせてすまなかったね」
「
そう言うと、
「こうして
見上げるのは、オレンジの陽も油と燃ゆる、熱を帯びた紅の瞳。
「あまり長居はできないがな」
「あの小屋……」
「人形小屋だな。この夾竹桃も小屋の周りに植えたものが広がったのだろう」
「まったく、樟脳臭い人形の何がいいのか理解しかねるが……少し場所を変えようか」
そう言った
「なら、あちらへ。良い香りがします」
「確かに、夾竹桃とは別の……」
二人は密林に分け入った。密林とは言っても足の踏み場も無いほど草が繁るのは陽光の豊富な辺縁部――河岸や道路沿い――である。光に乏しい内部へ進むにつれ、下生えは減っていった。そのうち、ある大木が陽を独り占めする空間へ出た。
その樹は、幹から乳白色の樹液を流していた。周囲にはスパイシーな甘い香りが広がっている。
「まあ、なんて刺激的な香り」
うっとりと
「バニラにも似た香りの樹脂……おそらく
「イランイランほど有名ではないが、安息香も
吐息が耳をくすぐり、
「安息香もいいが、ここが一番いい香りだ」
身体の前へ回された
ぽとり。
「それにしても、これほど大量に樹脂が出るのか。南方の植物は活動が活発だな」
「ねえ、
「まだ生きている!」
鷲が鋭い鉤爪で少年の頭を掴み飛び立とうとしたが、石を抱えた身体は重く、持ち上げることは叶わなかった。鷲が頭から鉤爪を離すと、バランスを崩した少年の身体は枝から落ち、頭から地面に衝突し、鈍い音を立てた。
地へ堕ちた少年を尚も鷲は追ったが、
あとには、全身が血と乳白色の樹脂で汚れ、首が折れ、腹に詰まった樹脂塊を曝す躰が残った。粘つく生乾きの樹脂が、甘い香りを撒き散らしていた。
*****
ホルマリン浸けの標本が棚に並ぶ狭い室内。
「整理します。今回の遺体は、胃に食物はなく、かわりに樹脂の塊がいくらかありました」
湖弓と
「そのうちの一つを割って出てきたのがこの羽根です。口腔内や食道には生乾きの樹脂もあったため、胃にあった羽根を抱き込んで固まった可能性があります」
上級医二人もトレイを覗き込む。
「これは、前回の遺体の消化器から摘出した、蘭の根に絡んでいた繊維です」
「一月以上ホルマリンに浸かっていたにしては、鮮やかな色ね」
「ええ。その点も奇妙です。そして……」
「人喰いウツボカズラにも鳥の羽根、か。なぜ今まで言ってくれなかった」
「気が触れたと思われるかと」
「まあ、人に話し難い体験ではあるな……しかし一番気掛かりなのはあの縫い方……あれはどう見ても……」
そう言うと湖弓は、はっとして腕時計を見て「瓦斯壊疽の下肢切断手術があるので失礼します」と残し、足早に部屋を出た。
無言の空間で、
「ほら、ぼくの占いのとおりになったろう」
ぱたぱたと軽い足音を立てて少年二人は去る。その逆方向へ立ち去ろうとする
「
「薬局で薬を調合するつもりよ」
「お邪魔でなければ、見学させていただけないてしょうか」
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