花十勝

 薬箱や硝子瓶の並ぶ棚の奥。


 灯りを消した部屋で窓の月を背負う十花勝トカチが、手に持つ一升瓶をひっくり返した。びちゃぴちゃ、ぼとぼと、中身は落ち、床にひれ伏す銀髪を濡らす。清酒の発酵臭と酒精アルコールの香りが広がる。

「私にこんな安酒を呑ませようというの」

「申し訳ございません、十花勝トカチ様。あの、一番、ラベルが上等そうなものを選んだのですが」

 霜銀ソウギンが恐る恐る顔を上げて十花勝トカチを見た。微かな逆光でも妖しく光る波刃のような黒髪と、闇に溶け込む褐色肌から火焔を噴くような瞳が、彼の目を惑わし、頭をぼうっとさせる。

「ああ十花勝トカチ様……あなたこそが…………」

 十花勝トカチは大仰に溜息をついた。

「ほんっと、見る目がないのね。床が汚れてしまったわ。綺麗にしなさい」

「は…はい、畏まりました……」

 霜銀ソウギンがずず、と音を立てて酒を啜り、ぺちゃぺちゃと床を舐める。見る間に霜銀ソウギンの顔が真っ赤になった。再び顔を上げ、懇願する。

「申し訳ございません、これ以上は呑めません……十花勝トカチ様……麗しくも恐ろしき石乙女のお御使いたる……どうか御慈悲を…………」

「まだ全然終わっていないわよ」

 十花勝トカチが靴の踵で霜銀ソウギンの後頭部を踏み付けた。顔がぴちゃりと酒に浸り、媚びるような高い呻き声が響いた。



*****



 薬品庫を出て廊下を歩く十花勝トカチの向かいから硫咲イサキが歩く。すれ違いざま硫咲イサキが呟く。

「あまり虐めてやるな」

 十花勝トカチが足を止め、振り向いた。

「あら、相手が虐められたがっている場合はどうすればいいのかしら」

「大人ならともかく、子供だぞ」硫咲イサキも歩みを止めた。

「私だってまだ子供ですよ」

「そう言っても、もうすぐ成人だろう。相手はまだ」――――振り向いた硫咲イサキの眼前に、一足で距離を詰めた十花勝トカチの顔。

「それで、私が気に喰わなければどうしましょう。湖弓大尉に云いつけますか、それとも紫晶華ショウカ少佐かしら。涼康班長の耳にも入れぬわけにはいきませんね」

 そう言うと十花勝トカチ硫咲イサキの耳許に口を寄せた。何やら耳打ちすると、硫咲イサキの顔が青褪めた。

「で、お前は院長にでも云い付けるか」床を見る檸檬色の瞳は小刻みに震えている。

「それは、硫咲イサキ先生次第」

 十花勝トカチは古代の彫像のように微笑んだ。



*****



 失礼します、との声に荊凍ケイテが箸を止めて顔を上げた。ふすまが開き、鋸浦が盆を持って入ってきた。いそいそと畳を摺り歩く。

「こんな深夜にどうした。子供は寝る時間だ」

「すみません、すぐ宿舎に戻りますから……」

 そう言って鋸浦は座卓の上に皿を置いた。焼いた黒い鶏肉が載っていた。

「昼間の鶏です。そちらは検食ですか。丁度良かった」

 座卓の盆には、食事が並べられていた。米麦飯に豆と芋の煮物、青菜が浮かぶ味噌汁、青パパイヤの漬物。入院患者の食事の栄養や衛生検査のため、当直の医師が入院患者と同じ食事を摂ることになっていたのだった。また、他に兵士の食事の検食もあった。

「ああ、バタバタしていて食べ切れなかったので残りを今食べている。これは校庭で育てているタロイモかな」

 荊凍ケイテが芋の欠片を摘み上げた。

「はい」

 芋を口へ運ぶ。かつて少年たちと一緒に食べたのと同じ、里芋をあっさりさせたような味。次に鶏肉へ箸を伸ばす。皮は艶々と黒光りし、断面の肉は墨が染みたような灰色。よく噛んでも、荊凍ケイテに普通の鶏と味の違いは判らなかった。

「あの、本当にありがとうございました」

 鋸浦はぺこりと頭を下げると、足早に部屋を去った。

 足音が聞こえなくなったころ、荊凍ケイテが口を開いた。

「まあ、今みたいなこともあるからあまり院内をうろちょろしないでくれ」

 畳まれた布団の隙間から、ぽろりとメカクレの尾の先が現れ、ぴち、と小さく跳ねた。

「厩舎はまあ、鼠を追うのはわかるがせめてミドリだけにしてくれ。鼠といってもヤマネは絶対だめだぞ」

 布団の影から顔を出したミドリがぽふりと布団に頭を載せ、またすぐにしゅるりと引っ込んだ。

「あとは……血塗れだからといってロブラ患者の身体を舐めたりするなよ」

 べち、と尾が畳を打ち、布団の中からくぐもった声が響く。

「男の血の匂いは好かぬ」

「そんなものか。たしかに獣の肉でも雄の方が臭みが強いと聞くな……いや、問題はそこではない。女でもだめだ。看護師や女性軍属なんかの患者もいるからな。もちろん襲って血を吸ったりするなよ」

「心得た」

「既に吸っていたりしないよな」

「しておらぬ」

 布団の隙間からずるりとメカクレが這い出した。畳の上に立つ姿を見て、荊凍ケイテが首を傾げた。

「到着してすぐ急に育ったが、もう一ヶ月近く成長が止まっている気がする」

 浴衣の袖はようやく指先が見えるほど。

「最初は暖かくて具合が良いと思ったが、暑すぎるのやもしれぬ」

「たしかに、この暑さはぼくも堪える。こうも毎日暑かったら、今ロブラかマラリアに罹ってもわからないかもしれないな……熱いのは外気か、自分の身体か」

 荊凍ケイテは手拭いで汗を拭い、ふとメカクレを見ると小首を傾げた。彼の膚はつるりと滑らかで、近頃彼女の膚を流れて已まない汗の川は見当たらない。手を伸ばし、彼の顔や生え際、頸の膚を確かめるように触る。薄い油膜を張っているかのように滑る手触りで、汗のべたつきは感じない。

「まあ、爬虫類に汗腺はないか……」

 荊凍ケイテは扇子を仰ぎながら言った。扇面には縞様の筋が透ける水浅葱の絽が張られており、目には涼し気だが、送られる風は微温ぬるかった。

「もう少し栄養を摂ればあるいは……」

 メカクレは荊凍ケイテの首元に視線を注いだ。

「院内ではだめだ、今度にしてくれ。それと、頼んでいたことだが……」

「うむ。かずらの近くに落ちていたのと同じ羽根が、幾つか森に落ちておった」

「ありがとう。助かる。どちらの方角が多いだろうか」

「あちらこちらに散っておって、ようわからぬ」

「そうか。ちなみに羽根を持ち帰ってきてくれたりは」

 メカクレは無言で布団を乗り越えると、布団と壁の隙間、板張りの床でべちゃりとうつ伏せになった。

「わかったよ、鷲は嫌いなんだな……冷たい床は気に入ったようだが」

 荊凍ケイテの鼻がふわり微かに漂う甘い花の香りを捉えた。室内を見回す。棚の上にはハイビスカスが生けてあるが、ハイビスカスは香らない。

 細く開けた窓から湿った夜風が入る。庭やその周りを取り囲む密林には、イランイランやジャスミン、或いは名も知らぬ強い香りの花が闇に芳香を撒き散らしているはずだった。

 荊凍ケイテは座卓の前で伸びをし、ふわ、と欠伸あくびをした。

「気の所為か。まあいい。とにかく来週はお楽しみだぞ」

 布団の陰で、メカクレとミドリも欠伸をした。

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