硫黄

「……先生………硫咲イサキ先生!」

 荊凍ケイテの呼び掛けに、硫咲イサキがはっとして目を開けた。手元のカルテでは、文字が途中で乱れてうねうねとした線になり、明後日の方向に伸びている。

「立ったまま寝るなんて、根を詰め過ぎではありませんか」

 硫咲イサキは眼鏡を押し上げ、目を擦った。黒板を備えた、教室を改造した病室。

「いやなに、これくらい、外勤先を掛け持ちしていた若い頃に比べれば……」

「あまり無理をしないでくださいよ。で、血液検査の結果ですが、やはり熱帯熱マラリアと三日熱マラリアの混合感染でした。入院時の検査では三日熱マラリア原虫しか見つからなかったので、熱帯熱マラリア原虫の増殖前だったものと思われます」

 荊凍ケイテはそう告げるとッドに横たわる患者を見た。色白の小柄な少年だが、顔は熱で真っ赤になっている。

「そうか……ではキニーネの注射を」

「はい」

 荊凍ケイテの傍らに控えていた棘途キョクトが注射器の載った盆を差し出し、荊凍ケイテが受け取った。

 薬剤節約のため、マラリア特効薬であるキニーネは重症化率の高い悪性の熱帯熱マラリアにのみ投与し、死亡例の少ない良性の三日熱マラリアには投与しないことになっていたのだった。

「準備がよくて助かるよ」

 患者が薄目を開けた。弱々しい声で言う。

硫咲イサキ先生、ぼくの病気、悪いのですか……」

「薬を射つから直によくなるさ。安心して寝ていればいい」

 硫咲イサキがぽんぽんと患者の頭を叩くと、患者は再び目を閉じ、寝息を立て始めた。注射のために荊凍ケイテが腕を探るも、ぐったりと力のない腕は鉛のように重かった。

 重い腕に注射を終えると、硫咲イサキの指示で棘途キョクトが血圧を測りはじめた。手持ち無沙汰になった荊凍ケイテは、ふと黒板を見た。白墨チョークで濃淡が表現された蜻蛉の絵があった。それに気付いた棘途キョクトが血圧計のポンプをしゅこしゅこと押しながら言う。

「あれ、俺が描いたんです。蜻蛉トンボはマラリア蚊のボウフラも喰ってくれるから」

 マラリアは通常人から人へ伝染しないため患者は内科病棟で収容しているが、内科入院患者の半数はマラリアなのであった。カルテに書き込みながら硫咲イサキが言う。

「それは頼もしいな。この島に来てから蚊に悩まされ通しだ。きっと皆を勇気づけてくれる」

 荊凍ケイテは患者の枕元に置かれたベレー帽を見た。帽章は蚕蛾ではなく、羽根を拡げた細身の蜻蛉トンボだった。

「船の次は、子供まで飛行機に乗るようになったとは聞いていませんが」

いや、最近では飛行場建設部隊でも使うらしい」

 パッと室内が橙色の光で染まった。窓から入る西日が荊凍ケイテの目を刺し、目を細めた。

 見たことないはずの風景が荊凍ケイテの頭に浮かぶ。

 ――――夕日を背に、建設現場でシャベルを振るう少年たち。少年たちの手首や足首に、ぷぅんと音を立てて蚊が群がる。その身にマラリア原虫を孕んだ蚊は、蜻蛉とんぼの帽章があるベレー帽の周りも飛び、汗を流す首筋に辿り着くと、汚染された口吻コウフンを――――

「念の為、俺も結果を見ておきたい」

 はっとして荊凍ケイテが目を開いた。硫咲イサキはカルテを閉じて小脇に抱え、棘途キョクトは血圧計を木箱にしまうところだった。

「はい、まだ顕微鏡に載せたままにしていますよ」

 二人は病室の出口に向かった。部屋を出る直前、荊凍ケイテが振り向いた。棘途キョクトに言う。

「もう日が沈むから、蚊取り線香を焚いてくれ」

 マラリアを媒介するハマダラカは、夕方から明け方にかけて活発に活動する性質があった。

 硫咲イサキは小さく溜息をつきながら戸に手を掛けたが、彼女が開く前に勢いよく扉が開かれた。戸を開いた少年が、あっ、と叫んだ。

「先生!大変です、すぐ伝染病棟に……」



*****



 体育館の舞台中央、演台の下の空間に血塗れの少年が収まっていた。手には剃刀を握り、ぱっくり開いた頸から流れる血が、元は白かったであろう長襦袢型の患者衣を真っ赤に染めていた。マスクにゴム手袋をした衛生兵たちが恐る恐る手を伸ばして少年を引き摺り出した。演台を中心に広がる血溜まりに、少年の身体が倒れ込んだ。びちゃりと飛び散る血飛沫に、衛生兵たちが飛び退いた。

「一時は瀕死の重体でしたが、奇跡的に持ち直して、退院も近い見込みだったのです。ただ……」

 二人を呼んだ衛生兵が言った。

 硫咲イサキが少年の上に屈み込んだ。血池に仰向く顔は青褪め、眼には真っ白な包帯が巻かれている。包帯の上からそっと眼を撫でた。独り言のように呟く。

「……ロブラの後遺症は、基本的に内出血によるものだ。例えば消化器官は新陳代謝が活発なため自然恢復することも多いが、眼はもっと繊細で、内出血による血行不良で視神経が侵されれば、恢復は難しい」

 荊凍ケイテは舞台の縁まで行き階下を見下ろした。演台の表側に溢れた血が舞台の下まで滴って血溜まりを作っている。近くにあったであろうベッドは体育館の端に寄せられていた。

 クロール石灰の袋を抱えた衛生兵が近付き、袋の中身を血溜まりにぶち撒けた。



*****



 硫咲イサキが顕微鏡と医学書を交互に覗き込む。

「熱帯熱マラリアと三日熱マラリア、本当に両方あるな」

「はい。ぼくもはじめて見ましたが、湖弓大尉によると、稀にあるそうです」

 荊凍ケイテは机に紙を広げ、定規で線を引いている。硫咲イサキも顕微鏡にセットしたプレパラートをしまうと椅子に座り、紙を繰りながら算盤そろばんを弾きはじめた。

「死亡者を数えるのは気が滅入るな……しかしようやく病棟仕事に慣れてきたと思ったら次は算盤か。これでは会計課の配属と間違えそうだ」

「昼間に厩舎でちょっとした騒ぎがあって、それが終わったと思ったら伝染病棟の一件ですからね。それよりは書類仕事の方が助かります。硫咲イサキ先生は、普段あまり算盤を触られないのですか」

いや、小さい病院だからな。帳簿も自分で見ている。お嬢さんとこは会計士任せかね」

「おそらく」

 硫咲イサキは苦そうな顔で茶を啜ると、大儀そうに湯呑みを置いた。書類を一枚ぴらりとつまみ、掲げ見る。

「名前を持った一人の人間も、死ぬと数字になるらしい」

「統計も医学の発展に貢献してきました」

 荊凍ケイテが算盤を弾きながら言った。

「腹立たしいほど正しい回答だよ。しかしまあ、数字や統計が大事なときもある」

 硫咲イサキはそう言うと立ち上がり、書棚から別の書類束を取り出した。ばさりと机に置き、座って書類を捲る。

「ロブラ後遺症の失明や視力低下の統計、やっぱり軍が一番情報を持ってるな」

「失明や弱視は一発で除隊ですからね」

「厭な理由だ。人間を兵器としての有用性だけで評価する――あの子もこの数字の中に埋もれてしまうんだろうな」

「……そういえば、彼の遺書ですが」――――

 ごとり、びちゃ。

 荊凍ケイテが書類から顔を上げて硫咲イサキを見ると、頭をがくんと前に垂らし、手元で万年筆のインク瓶が倒れていた。

 荊凍ケイテは勢いよく立ち上がって書類を瓶から遠ざけ、硫咲イサキの肩を揺すった。

「すまん、また寝ていたか。いや、どうも若い頃のようにはいかんな」

「外勤先を掛け持ち、でしたか。勉強熱心だったのですね」

「そんな大層な理由じゃないさ。俺の弟も北大の医学部に行きたがったが、色々あって本州の私立医大に入ることになってな。費用は任せろと母親に言って送り出したはいいものの、学費に仕送り、帰省の足代と色々入り用で……」

 硫咲イサキが雑巾でインクを拭きながら言った。

「今晩はぼくが当直ですから、ゆっくり寝てください」

「ああ、頼むよ」

 荊凍ケイテはインク洪水から避難させた書類を手元に抱え、ぱらぱらと捲った。幸い、被害を受けたものはなかった。そのうちの一枚に目を留めて言う。

「飛行場建設部隊でマラリアが増えていますね。ここはひとつ、宿舎や建設現場の衛生状況を視察しようかと思いますが、どうでしょう」

「良さそうだ。しかし、外科志望とは聞いているが、意外と衛生管理も向いているのではないかね」

 硫咲イサキはインクで汚れた雑巾をトタンバケツに放った。机の端に寄せられた書類の被害状況を確認すると、端が汚れたものはあったが書き直す必要まではなさそうだった。

「衛生は医療の基礎で、外科手術でも消毒の徹底は大切です。それに、衛生管理は軍医の重要な仕事でもあります」

「相変わらずお手本通りの回答だ」

「助手がわりに看護師を一人連れて行きたいのですが」

「人員の都合がついて、看護師長が承諾すれば問題ないと思うが」

「そうですね、相談してみます」

 荊凍ケイテは紙束を書類挟みに入れ、棚にしまうと部屋の入口へ向かった。

「あの女はやめとけ」

「誰とは云っていませんよ」

 背後からの声に、荊凍ケイテが振り向いた。

「あの女は好かんね。髪と膚の色艶がいいのは認めるが」

 荊凍ケイテは小声で「もし、少佐がもう少し……」

「あれもだめだ、何を考えているかわからん。頭はいいんだろうが、腹の底が見えない」

 考え込む荊凍ケイテを横目に、硫咲イサキは椅子の背に凭れて伸びをした。

「それにしても暑いな。日没後も暑さが続くのには、まだ慣れない」

 硫咲イサキが防暑略衣の裾を持ってパタパタと扇いだ。玉の汗が張りのある膚を流れる。子供を産んでいない腹だ、と荊凍ケイテは思った。

「俺の腹を見ろとは云っていない」硫咲イサキが扇ぐ手を止め、荊凍ケイテを見た。

「これは失礼いたしました」

 荊凍ケイテが視線を窓へ逸らした。細く開けた窓から吹き込む風で白いカーテンが小さく揺れる。窓際の棚に置いた蚊取り線香の火が消えていた。

「俺も若い頃には多少の火遊びもしたが、今は故郷で妻が待つ身だ。巻き込まないでもらおうか」

 硫咲イサキの声を背に、荊凍ケイテは窓際に赴いた。「ご家族を残して、なぜ軍へ」燐寸マッチを擦り、蚊取り線香に火を付けた。

「弟はまだ医学部を出たばかりでね。身内から志願の軍医を出している者は召集の優先順位が下がるという噂があるだろう」

 線香から細い煙がゆらり立ち昇る。荊凍ケイテがゆっくり振り向いて硫咲イサキの顔を見た。

「弟のところは最近子供が生まれたばかりだが、あいつは小さいころ父親がいなくて寂しい思いをしただろうから、その子にまで同じ思いはさせたくない」

 木軸を舐めた燐寸マッチの炎が荊凍ケイテの指先を炙った。慌てて燐寸マッチを振ると火は消え、焦げた木と、硫黄の匂いが漂った。

「とにかく、火遊びはほどほどにしておけ」

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