硫黄
「……先生………
「立ったまま寝るなんて、根を詰め過ぎではありませんか」
「いやなに、これくらい、外勤先を掛け持ちしていた若い頃に比べれば……」
「あまり無理をしないでくださいよ。で、血液検査の結果ですが、やはり熱帯熱マラリアと三日熱マラリアの混合感染でした。入院時の検査では三日熱マラリア原虫しか見つからなかったので、熱帯熱マラリア原虫の増殖前だったものと思われます」
「そうか……ではキニーネの注射を」
「はい」
薬剤節約のため、マラリア特効薬であるキニーネは重症化率の高い悪性の熱帯熱マラリアにのみ投与し、死亡例の少ない良性の三日熱マラリアには投与しないことになっていたのだった。
「準備がよくて助かるよ」
患者が薄目を開けた。弱々しい声で言う。
「
「薬を射つから直によくなるさ。安心して寝ていればいい」
重い腕に注射を終えると、
「あれ、俺が描いたんです。
マラリアは通常人から人へ伝染しないため患者は内科病棟で収容しているが、内科入院患者の半数はマラリアなのであった。カルテに書き込みながら
「それは頼もしいな。この島に来てから蚊に悩まされ通しだ。きっと皆を勇気づけてくれる」
「船の次は、子供まで飛行機に乗るようになったとは聞いていませんが」
「
パッと室内が橙色の光で染まった。窓から入る西日が
見たことないはずの風景が
――――夕日を背に、建設現場でシャベルを振るう少年たち。少年たちの手首や足首に、ぷぅんと音を立てて蚊が群がる。その身にマラリア原虫を孕んだ蚊は、
「念の為、俺も結果を見ておきたい」
はっとして
「はい、まだ顕微鏡に載せたままにしていますよ」
二人は病室の出口に向かった。部屋を出る直前、
「もう日が沈むから、蚊取り線香を焚いてくれ」
マラリアを媒介するハマダラカは、夕方から明け方にかけて活発に活動する性質があった。
「先生!大変です、すぐ伝染病棟に……」
*****
体育館の舞台中央、演台の下の空間に血塗れの少年が収まっていた。手には剃刀を握り、ぱっくり開いた頸から流れる血が、元は白かったであろう長襦袢型の患者衣を真っ赤に染めていた。マスクにゴム手袋をした衛生兵たちが恐る恐る手を伸ばして少年を引き摺り出した。演台を中心に広がる血溜まりに、少年の身体が倒れ込んだ。びちゃりと飛び散る血飛沫に、衛生兵たちが飛び退いた。
「一時は瀕死の重体でしたが、奇跡的に持ち直して、退院も近い見込みだったのです。ただ……」
二人を呼んだ衛生兵が言った。
「……ロブラの後遺症は、基本的に内出血によるものだ。例えば消化器官は新陳代謝が活発なため自然恢復することも多いが、眼はもっと繊細で、内出血による血行不良で視神経が侵されれば、恢復は難しい」
クロール石灰の袋を抱えた衛生兵が近付き、袋の中身を血溜まりにぶち撒けた。
*****
「熱帯熱マラリアと三日熱マラリア、本当に両方あるな」
「はい。ぼくもはじめて見ましたが、湖弓大尉によると、稀にあるそうです」
「死亡者を数えるのは気が滅入るな……しかしようやく病棟仕事に慣れてきたと思ったら次は算盤か。これでは会計課の配属と間違えそうだ」
「昼間に厩舎でちょっとした騒ぎがあって、それが終わったと思ったら伝染病棟の一件ですからね。それよりは書類仕事の方が助かります。
「
「おそらく」
「名前を持った一人の人間も、死ぬと数字になるらしい」
「統計も医学の発展に貢献してきました」
「腹立たしいほど正しい回答だよ。しかしまあ、数字や統計が大事なときもある」
「ロブラ後遺症の失明や視力低下の統計、やっぱり軍が一番情報を持ってるな」
「失明や弱視は一発で除隊ですからね」
「厭な理由だ。人間を兵器としての有用性だけで評価する――あの子もこの数字の中に埋もれてしまうんだろうな」
「……そういえば、彼の遺書ですが」――――
ごとり、びちゃ。
「すまん、また寝ていたか。いや、どうも若い頃のようにはいかんな」
「外勤先を掛け持ち、でしたか。勉強熱心だったのですね」
「そんな大層な理由じゃないさ。俺の弟も北大の医学部に行きたがったが、色々あって本州の私立医大に入ることになってな。費用は任せろと母親に言って送り出したはいいものの、学費に仕送り、帰省の足代と色々入り用で……」
「今晩はぼくが当直ですから、ゆっくり寝てください」
「ああ、頼むよ」
「飛行場建設部隊でマラリアが増えていますね。ここはひとつ、宿舎や建設現場の衛生状況を視察しようかと思いますが、どうでしょう」
「良さそうだ。しかし、外科志望とは聞いているが、意外と衛生管理も向いているのではないかね」
「衛生は医療の基礎で、外科手術でも消毒の徹底は大切です。それに、衛生管理は軍医の重要な仕事でもあります」
「相変わらずお手本通りの回答だ」
「助手がわりに看護師を一人連れて行きたいのですが」
「人員の都合がついて、看護師長が承諾すれば問題ないと思うが」
「そうですね、相談してみます」
「あの女はやめとけ」
「誰とは云っていませんよ」
背後からの声に、
「あの女は好かんね。髪と膚の色艶がいいのは認めるが」
「あれもだめだ、何を考えているかわからん。頭はいいんだろうが、腹の底が見えない」
考え込む
「それにしても暑いな。日没後も暑さが続くのには、まだ慣れない」
「俺の腹を見ろとは云っていない」
「これは失礼いたしました」
「俺も若い頃には多少の火遊びもしたが、今は故郷で妻が待つ身だ。巻き込まないでもらおうか」
「弟はまだ医学部を出たばかりでね。身内から志願の軍医を出している者は召集の優先順位が下がるという噂があるだろう」
線香から細い煙がゆらり立ち昇る。
「弟のところは最近子供が生まれたばかりだが、あいつは小さいころ父親がいなくて寂しい思いをしただろうから、その子にまで同じ思いはさせたくない」
木軸を舐めた
「とにかく、火遊びはほどほどにしておけ」
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