菫
天井の高い広い空間に、所狭しと血で汚れたベッドが並び、その間をマスクとゴム手袋をした看護師や衛生兵が歩き回る。体育館を急拵えの伝染病棟としたものであった。窓から吹き込む
体育館の奥、白地に緑
一つのベッドでは、鋸浦が泣きながら血で汚れた遺体の腕を拭う。脚を拭う
隣のベッドでは
「人間のためにも泣けるじゃないか」という呟きに、もう一方の手を処置する
「喉、大丈夫か」
「最近、声が出にくいときがあるんだ」
そう
「何度替えても、すぐ血浸しになってしまいますね」
「ロブラは全身の粘膜から出血するが、症状が進むと指と爪の隙間から出血することも多い」
聴診器を患者の胸から外した
「リンゲル液をお持ちしました」
「ありがとう」
「静脈への点滴や注射ができないほど血管が脆くなっていて皮下出血もあるから、通常の脱水患者のように揉む必要はない。余計に出血しそうだ」
腿にはぽつぽつと内出血の赤黒い跡があった。
隣の列のあるベッドでは、
「これは」
「麻黄湯をもとに配合を調整した煎じ薬よ」
「
「もう少しサンプル数は集めたいところだけど、効果がありそうよ」
「それは今後に期待できますね」
隣の列では、鋸浦と
「夕方になったら今日の分をまとめて埋葬するから準備しておいてくれ」
二人は返事をして、部屋の扉へ向かった。体育館は壁のない開放式の渡り廊下で他の棟と繋がっており、換気のため扉は開け放たれていた。
「ぼくも人並みには漢方は齧ったつもりではいるのですが、まだまだ勉強不足でして。よければもう少し詳しくお話お聞かせ願えませんか。たとえば」
そこまで言うと、
「ご都合よろしければ、今晩にでも、お部屋に伺ってもよろしいでしょうか」
*****
「経験的に
「麻黄が有効なら、麻黄から抽出したエフェドリン単体ではいけないのでしょうか」
「だめね。漢方とは、そういう単順なものではなく、生薬の組み合わせが肝なの。麻黄と組み合わせるには、特に桂皮が重要と見ているわ」
「ええと、葛根湯も麻黄湯も桂皮を含むのでしたか」
「ええ」
ほう、ふむ、と呟きながら、
「若い軍医のわりに勉強熱心ね。たいていは漢方に興味がないか、麻黄にしか興味を示さないもの」
「たしかに覚醒アミン類の原料にもなる麻黄は軍医の関心の的ですが、それだけでは勿体ない。漢方薬にはまだ原理の解明されていない原理が不明なものも多い分、研究し甲斐があります」
「これも薬草茶かなにかでしょうか」
「アマチャヅル茶よ。
「名前の通り、甘い」
すう、と息を吸い、
「ところで、到着早々大変なことになっていたけれど、今日で四日目。少しは慣れたかしら」
「ええ。ただ、初日のような症例はもうご勘弁願いたいですが」
「そう……でも、他に行方不明の少年が二人いるのが気がかりね」
「密林で食糧を探しているうちに、三人の少年が行方不明になったそうなの。あの子はそのうちの一人よ」
「それは……先が思いやられますね」
「しかし、わからないことで思い悩んでも仕方がない。花といえば、もっといいものがあります」
雑嚢から、浅い円筒の紙箱を取り出して、
「これをあなたへ。菫の砂糖漬けです。ウィーンの銘品で、あちらではシャンパンに入れて色が変わるのを愉しんだりもしますが、流石にシャンパンのボトルは荷物に収まりませんでした。しかし、そのまま齧っても香りを強く感じます」
「紅茶に入れても乙なので看護師たちとの茶会で出そうかとも思ったのですが、是非貴方にと思い取っておきました。あとはそうですね、ホットミルクに入れると菫色になって綺麗です」
一片摘んで齧ると、
「ありがとう。お礼と言ってはなんだけど、あなたもアマチャヅル茶を煎れるといいわ」
「
「何かしら」
「易占で用いる
ブリキ缶が
「あなたのところはたしか、
「……はい」
「そう。しかも御祖母様がハイマットラント遊学中に見初められたのが貴方の
「私のところはね、代々漢方医だったのよ。医学部を出たのは私がはじめて。あなたも西洋医者にしては漢方をよく勉強しているようだけど、やはり薬一辺倒ではあるようね」
「もっと患者の体質……つまり漢方の用語で言うところの『証』を見て処方せよ、ということでしょうか。易占となんの関係があるのです」
「もちろん証も大事だけど、一旦、薬の話から離れる必要があるわね。漢方医はただ薬草を煎ずるだけではないの。私は風水や易学も研究しているわ」
「しかし……」
「易も漢方も使いようよ……ごめなさい、明日も朝早いのでそろそろ休むわ。菫の砂糖漬け、ご馳走様」
薄紫の瞳は
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