天井の高い広い空間に、所狭しと血で汚れたベッドが並び、その間をマスクとゴム手袋をした看護師や衛生兵が歩き回る。体育館を急拵えの伝染病棟としたものであった。窓から吹き込むぬるい風が日除けのすだれをバタつかせても、室内は蒸し暑い。

 体育館の奥、白地に緑×バツが描かれた木箱が雑然と並ぶ舞台の中央では、演台の上で大輪のハイビスカスが一升瓶に挿されていた。フリルのように波打つ花弁が時折揺れる。

 一つのベッドでは、鋸浦が泣きながら血で汚れた遺体の腕を拭う。脚を拭う棘途キョクトに「同じ小学校だったんだ」と言った。棘途キョクトは静かに頷く。

 隣のベッドでは荊凍ケイテが患者の胸に聴診器を当て、霜銀ソウギンが少年の指に包帯を巻く。

「人間のためにも泣けるじゃないか」という呟きに、もう一方の手を処置する斑雲むらくもは、歌うような声――ではなく、掠れた声で「泣くのが好きなんだろう」と返し、咳き込んだ。

「喉、大丈夫か」

「最近、声が出にくいときがあるんだ」

 そう霜銀ソウギンに答えると、斑雲むらくもは喉に手を宛てた。大きくなりはじめた喉骨に触れるのは、関節が目立つ指。

 霜銀ソウギン荊凍ケイテに問う。

「何度替えても、すぐ血浸しになってしまいますね」

「ロブラは全身の粘膜から出血するが、症状が進むと指と爪の隙間から出血することも多い」

 聴診器を患者の胸から外した荊凍ケイテが、通路を歩いてくる十花勝トカチに気付いた。手に注射器の載った盆を持っている。霜銀ソウギンがはっとして十花勝トカチを見たが、すぐ顔を伏せた。垂れ掛かる銀髪の隙間から、ひらひら揺れるキュロット・パンツの裾を盗み見る。斑雲むらくもが、じっとその様子を見ていた。

「リンゲル液をお持ちしました」

「ありがとう」

 荊凍ケイテ十花勝トカチから注射器を受け取ると、少年の腿に注射した。針を引き抜くと血が滲んだが、すぐに十花勝トカチが止血した。

「静脈への点滴や注射ができないほど血管が脆くなっていて皮下出血もあるから、通常の脱水患者のように揉む必要はない。余計に出血しそうだ」

 腿にはぽつぽつと内出血の赤黒い跡があった。


 隣の列のあるベッドでは、紫晶華ショウカが患者とカルテに交互に目を配っている。赤い眼をして耳介を血で湿らせた患者の少年はベッドで上体を起こしており、衛生兵が椀の中身を飲ませる。茶碗には湯気を立てる茶色く濁った液体が入っていた。

 荊凍ケイテが近付き、紫晶華ショウカに声を掛ける。

「これは」

「麻黄湯をもとに配合を調整した煎じ薬よ」

紫晶華ショウカ少佐は漢方がご専門とお伺いしました。して、効果の程は」

「もう少しサンプル数は集めたいところだけど、効果がありそうよ」

「それは今後に期待できますね」

 隣の列では、鋸浦と棘途キョクトが遺体を担架に載せて、運びはじめた。荊凍ケイテが顔を上げ、歩き去る少年たちへ声を掛ける。

「夕方になったら今日の分をまとめて埋葬するから準備しておいてくれ」

 二人は返事をして、部屋の扉へ向かった。体育館は壁のない開放式の渡り廊下で他の棟と繋がっており、換気のため扉は開け放たれていた。

 荊凍ケイテ紫晶華ショウカに視線を戻した。紫晶華ショウカは患者に舌を出すよう指示したが応答がなく、半開きの口をヘラ状の舌圧子でこじ開けた。

「ぼくも人並みには漢方は齧ったつもりではいるのですが、まだまだ勉強不足でして。よければもう少し詳しくお話お聞かせ願えませんか。たとえば」

 そこまで言うと、荊凍ケイテは声を低めた。

「ご都合よろしければ、今晩にでも、お部屋に伺ってもよろしいでしょうか」

 紫晶華ショウカは患者の血と剥がれた肉片を纏った舌を見ながら、「構わないわ」



*****



「経験的に青蒿セイコウはマラリアに効果があると知られているのだけれど、同じ熱病でもロブラはだめね。麻黄剤――葛根湯や麻黄湯などが効きそうよ」

 紫晶華ショウカが机の椅子へ座り、荊凍ケイテがベッド脇の丸椅子へ腰掛ける。

「麻黄が有効なら、麻黄から抽出したエフェドリン単体ではいけないのでしょうか」

「だめね。漢方とは、そういう単順なものではなく、生薬の組み合わせが肝なの。麻黄と組み合わせるには、特に桂皮が重要と見ているわ」

「ええと、葛根湯も麻黄湯も桂皮を含むのでしたか」

「ええ」

 ほう、ふむ、と呟きながら、荊凍ケイテが鉛筆で手帳に何やら書き付ける。

「若い軍医のわりに勉強熱心ね。たいていは漢方に興味がないか、麻黄にしか興味を示さないもの」

「たしかに覚醒アミン類の原料にもなる麻黄は軍医の関心の的ですが、それだけでは勿体ない。漢方薬にはまだ原理の解明されていない原理が不明なものも多い分、研究し甲斐があります」

 荊凍ケイテが机から青磁の茶杯を取った。表面にはひび割れた氷のような貫入を纏い、裡には茶褐色の液面を湛えている。

「これも薬草茶かなにかでしょうか」

「アマチャヅル茶よ。伽羅カラ人蔘ニンジンにも似た滋養強壮効果があるの」

 紫晶華ショウカがこくりと茶を呑み、荊凍ケイテも一口含むと味を確かめるように口を動かし、呑み込んだ。

「名前の通り、甘い」

 すう、と息を吸い、紫晶華ショウカは立ち昇る香りを味わった。ゆらゆら昇る湯気が波打つ髪に重なり、薄紫の濃淡が烟る白でもっと曖昧になる。

「ところで、到着早々大変なことになっていたけれど、今日で四日目。少しは慣れたかしら」

「ええ。ただ、初日のような症例はもうご勘弁願いたいですが」

「そう……でも、他に行方不明の少年が二人いるのが気がかりね」

 荊凍ケイテが怪訝そうな顔で紫晶華ショウカを見た。

「密林で食糧を探しているうちに、三人の少年が行方不明になったそうなの。あの子はそのうちの一人よ」

「それは……先が思いやられますね」

 荊凍ケイテは顎に手を当てて目を伏せた。しかしすぐ、ぱっと目を開き、足元に置いた雑嚢を探り出した。

「しかし、わからないことで思い悩んでも仕方がない。花といえば、もっといいものがあります」

 雑嚢から、浅い円筒の紙箱を取り出して、紫晶華ショウカに差し出した。箱には菫の絵が印刷されている。

「これをあなたへ。菫の砂糖漬けです。ウィーンの銘品で、あちらではシャンパンに入れて色が変わるのを愉しんだりもしますが、流石にシャンパンのボトルは荷物に収まりませんでした。しかし、そのまま齧っても香りを強く感じます」

 紫晶華ショウカが箱を受け取り蓋を開けた。菫の甘い香りがふわりと広がる。中には、さざれ石のような菫青色の欠片が詰まっていた。銀河を煮詰めたようにきらきら光る砂糖衣を纏っている。

「紅茶に入れても乙なので看護師たちとの茶会で出そうかとも思ったのですが、是非貴方にと思い取っておきました。あとはそうですね、ホットミルクに入れると菫色になって綺麗です」

 一片摘んで齧ると、紫晶華ショウカの口に濃厚な花の香りが広がった。

「ありがとう。お礼と言ってはなんだけど、あなたもアマチャヅル茶を煎れるといいわ」

 紫晶華ショウカが立ち上がり、戸棚からブリキ缶を取り出した。戸が閉まる寸前、荊凍ケイテの目が、竹筒に立てられた細い竹ひごのようなものを捉えた。あっと声を上げ、紫晶華ショウカに問う。

紫晶華ショウカ少佐、今のは」

「何かしら」

「易占で用いる筮竹ぜいちくのように見えましたが、まさか……」

 ブリキ缶が荊凍ケイテに手渡され、ぎこちない動きで受け取った。

「あなたのところはたしか、御祖母様おばあさまの代から皆大学卒のお医者様だったわね」

「……はい」

「そう。しかも御祖母様がハイマットラント遊学中に見初められたのが貴方の御祖父様おじいさまで、貴方の御父様おとうさまもハイマットラントの大学院で学ばれた。つまり、ずうっと西洋医学の御一族」

 荊凍ケイテが無言で頷いた。紫晶華ショウカは机の上の乳鉢に入った乳棒をつついた。陶器が触れ合い、からん、と音を立てた。

「私のところはね、代々漢方医だったのよ。医学部を出たのは私がはじめて。あなたも西洋医者にしては漢方をよく勉強しているようだけど、やはり薬一辺倒ではあるようね」

「もっと患者の体質……つまり漢方の用語で言うところの『証』を見て処方せよ、ということでしょうか。易占となんの関係があるのです」

「もちろん証も大事だけど、一旦、薬の話から離れる必要があるわね。漢方医はただ薬草を煎ずるだけではないの。私は風水や易学も研究しているわ」

 紫晶華ショウカは机上の急須を撫でた。茶杯と揃いの青磁で、胴には龍の浮き彫り。青碧の濃淡を作る凹凸を、白い指先がなぞる。

「しかし……」

「易も漢方も使いようよ……ごめなさい、明日も朝早いのでそろそろ休むわ。菫の砂糖漬け、ご馳走様」

 薄紫の瞳は紫水晶アメシストのように静かな光沢。

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