イランイラン
部屋の壁際には身長計や体重計が並び、その間を肌着姿の少年たちが順に巡っていく。それぞれのブースでは、少年の持参した検診票に看護師が結果を記入して少年へ返す。壁の黒板には、「注意 計測器具には静かに乗ること 列に並んで順番を待つこと」云々と
列に並ぶ少年たちとは別に、緑
列が切れたタイミングで
「随分手慣れていますね」
「昔、外勤先で子供の健康診断もしていたことがあってね」
「小児科ですか」
「……網走刑務所併設の、少年矯正所だ」
新たに一人の少年が
「もうそろそろ終わるから、次は自分たちが受ける準備をしてくれ」
衛生兵たちが返事をし、ぱたぱたと検査器具に向かい、各々検査を受け始めた。身体を保護する必要の薄い後方勤務の彼らは、半袖の防暑略衣と膝丈の防暑略袴を着ることが多く、そのまま検査を受ける手筈になっていた。
陽に灼けた長身の少年が身長測定機に乗り、読み上げられた数字を聞いてがっくり肩を落とた。「
名指しされた
「こら、落書きするな」
少年たちはやいのやいのと話しながら検診を終えると、看護師たちと一緒に検査器具を片付けはじめた。
検査器具を担いで部屋を出る少年たちと入れ違いで、
「もう終わったかしら」
検診票の束を捲る
「いきなり任せきりにしてしまって申し訳ないわね。でも、子供の相手に慣れてもらうには丁度いいと思って」
「今日は牧歌的で助かりましたよ。昨日が猟奇的だったもので」
「昨日は本当にご苦労様。あれは例外で、普段はマラリアやロブラといった感染症の治療が多いのよ」
「あとは飛行場の建設や、防空壕堀りのような土木作業中の怪我。
「未熟者ではありますが、精一杯尽力いたします」
「内科は
「一応眼科の看板を掲げてはいるんですがね。他に病院はないからと村の連中が病人を見境なく運んで来るもんで、風邪や腸カタル、軽い怪我くらいは診るようにしていますよ。俺の手に負えない患者は網走の病院に紹介状を書きますが」
「それは頼もしいわね。それなら子供も診ているかしら。この病院にはもちろん大人の兵士も来るけれど、貴方たちには主に若葉兵を診てもらおうと思っているわ。まだ母恋しい年頃で、女の先生の方が心安いだろう、と院長が云うの」
看護師が黒板の注意書きを消すのを見ながら
「あの子たちも本当は学校で勉強していておかしくないのにな」
「元は現地民向けに建てた学校とは聞きましたが、学校設備が残っているのですね」
「急拵えで改造したから、あまり邪魔にならないものはそのままにしてあるの」
「ところで
「御免なさいね。私も本当は行きたかったのだけれど、急に司令部から呼び出されてしまって」
「本当に上の許可取ったんだよな」と
「ええ。戦地で疲弊した女性軍医および看護師を慰撫し、また新任軍医との親睦を深め、士気発揚が云々とかなんとか云いましたら、食堂の使用許可は出ました。物品はすべてぼくの持ち出しですから出費の決裁は不要です」
*****
茶と菓子の並ぶ机を、白いキュロット・パンツにブラウス姿の看護師たちが囲み、談笑している。色とりどりの髪や瞳を花と誇る、戦地に咲いた女たち。
「私、紅茶なんて久しぶりに飲みました」
年若い看護師が湯呑みから立ち昇る香りを嗅ぎながら言った。
「まだ一缶ある。
「こちらは、お砂糖ですよね」別の看護師が卓上の缶を指して言った。
「ああ。紅茶に入れるといい」
再び歓声。
「皆さんの労を労うために特別な経路で仕入れたものです。最近は特に苦労されていると聞きました」
看護師長が缶を受け取り匙で紅茶に砂糖を入れる。
「ええ。元々お医者様が足りず増員をお願いしていましたのに、一人急にいなくなってしまったものですから、それはもう」
「それは御苦労様でした。ぼくが来たからには一安心……と云いたいところですが、何分勉強中の身で至らないところもあろうと存じますが、何卒ご指導ご鞭撻いただきたく」
ティーカップを傾けながら看護師長は満足気に微笑んだ。
「さらさらな砂糖なんて久々に見たな。俺も村の者に分けてもらった甜菜を煮詰めて、湿っぽい塊の砂糖らしき物を作ってみたりもしたが」
「たしか甜菜糖工場を経営する患者から治療費がわりに貰ったものだとか。うちの台所に積んでありましたのでいくらか失敬してきました」
「
「お菓子も久しぶりです」看護師がクッキーを摘んで言った。
隣のテーブルの看護師たちが振り向いた。
「今そちらにもお持ちしますよ」
暫し歓談が続いた後、
「さあ、そろそろ時間です。仕事に戻りましょう」看護師長の声掛けでお開きになった。
部屋を辞す人波の中で、再び
「お名前をお伺いしても」
「
「それはよくない。あとで診察しましょう」耳許に口を寄せた。
「じっくり話を聞きたい。よければ、今夜ぼくの部屋へ」
*****
「これは洋酒でしょうか。私、はじめて飲みます」
「ああ。ブランデーだ。高級将校連中が隠し持っているものは学生風情に降りてこないが、これはぼくの私物だ。遠慮なく呑んでくれ」
グラスから一口ブランデーを呑んだ
「とても素敵な香りですが、喉が灼けてしまいそう」
「そう云うかもしれないと思ってな」
次に片手でスプーンとマッチ箱を持ち、ティーカップの上にかざすと、もう片方の手で器用にマッチを摺り、ブランデーへ火を点けた。ぽっと青い火柱が立った。揺らぐ蒼炎の足元で砂糖はふつふつと泡を上げて溶け、カラメルを混ぜたように濃厚な甘い香りが広がった。
砂糖が溶け切るころ、ふっと炎も消え、
「さあ」
「まあ、なんて素晴らしい……それに、いい香りといえば、あちらも」
「とても強い香り。くらくらしてしまいます。それに、なんだか、胸がどきどきしてきました」
「ああ、ぼくもだ」
「このあたりでは、イランイランの花びらを新婚初夜のベッドに撒くと聞く」
「やはり、いけません……私は故郷に許嫁が」
「許嫁だって。まだそんな前近代的な風習が」
「私の生まれたところは、冬になれば馬一頭も通れない峠の先の盆地で、考え方の古い者が多いのです」
「君はそれで満足なのか。なぜ、許婚を残していつ死ぬともわからぬ戦地へ来たのかな」
「あの谷底で氷漬けになるより、一目でいいから南の島を見てみたかった!」
「それで、学校を出てすぐに志願したのです。今から志願する者は皆南洋行きだという噂だけを頼りに、周囲の反対も振り切って」
「とやかく言う他人なぞ気にする必要はない。君は、何だってやりたいことをできる」
「私、あの人からこんな風に優しく触れられたことありません……」
「非道い奴だ。女性の扱い方を知らないのだろう。どう触れれば繊細な膚が傷つかないか、どうもてなせば柔らかな
****
病院の周囲にふよふよと漂う白い毛玉があった。月灯りにぽうっと照らされた
「すみません、あの、湖弓先生が緊急の手術をするそうで、病棟を見る看護師が足らぬと……」
「わかったわ。すぐに着替えて行きます」
イランイランの香を残して宿舎に消える
「あの、
振り向いた
「そうかしら」古代の彫刻のように微笑んで言った。
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