イランイラン

 部屋の壁際には身長計や体重計が並び、その間を肌着姿の少年たちが順に巡っていく。それぞれのブースでは、少年の持参した検診票に看護師が結果を記入して少年へ返す。壁の黒板には、「注意 計測器具には静かに乗ること 列に並んで順番を待つこと」云々と白墨チョークで書いてある。

 列に並ぶ少年たちとは別に、緑×バツ印の腕章を着けた少年たちが部屋の中を動き回って列を整理誘導する。視力検査を終えた少年は、医師――荊凍ケイテ硫咲イサキ――の前に並ぶ。二人はそれぞれ聴診器を少年の胸に当てていき、問診事項を確認する。硫咲イサキの列は、荊凍ケイテの列より進みが早かった。

 列が切れたタイミングで荊凍ケイテ硫咲イサキに尋ねる。

「随分手慣れていますね」

「昔、外勤先で子供の健康診断もしていたことがあってね」

「小児科ですか」

「……網走刑務所併設の、少年矯正所だ」

 新たに一人の少年が荊凍ケイテの前へ座り、荊凍ケイテは再び聴診器を手にした。硫咲イサキは衛生兵たちに声を掛ける。

「もうそろそろ終わるから、次は自分たちが受ける準備をしてくれ」

 衛生兵たちが返事をし、ぱたぱたと検査器具に向かい、各々検査を受け始めた。身体を保護する必要の薄い後方勤務の彼らは、半袖の防暑略衣と膝丈の防暑略袴を着ることが多く、そのまま検査を受ける手筈になっていた。

 陽に灼けた長身の少年が身長測定機に乗り、読み上げられた数字を聞いてがっくり肩を落とた。「斑雲むらくもに抜かされた。俺、もう全然伸びないや」と言った。成長が止まったという言葉とは裏腹に、すらりとした四肢と、萌黄の髪と瞳は、伸びやかな雰囲気だった。

 名指しされた斑雲むらくもは無表情で体重計に乗っている。視力検査の列に並ぶ霜銀ソウギンが、浮かぬ顔で「棘途キョクトは最初から大きいからいいじゃないか。ぼくたちは……」と隣に並ぶ眼鏡の小柄な少年へ言った。

「こら、落書きするな」

 硫咲イサキの声に、黒板に絵を描いていた棘途キョクト白墨チョークを置き、慌てて視力検査の列に並んだ。黒板には、キリンの絵が残された。

 少年たちはやいのやいのと話しながら検診を終えると、看護師たちと一緒に検査器具を片付けはじめた。

 検査器具を担いで部屋を出る少年たちと入れ違いで、紫晶華ショウカが入ってきた。

「もう終わったかしら」

 検診票の束を捲る荊凍ケイテ硫咲イサキに声を掛ける。

「いきなり任せきりにしてしまって申し訳ないわね。でも、子供の相手に慣れてもらうには丁度いいと思って」

「今日は牧歌的で助かりましたよ。昨日が猟奇的だったもので」

「昨日は本当にご苦労様。あれは例外で、普段はマラリアやロブラといった感染症の治療が多いのよ」

 硫咲イサキが小声で、ロブラも十分猟奇的だと思うが……と呟いた。

「あとは飛行場の建設や、防空壕堀りのような土木作業中の怪我。荊凍ケイテ中尉は外科志望よね。頼りにしているわ」

「未熟者ではありますが、精一杯尽力いたします」

「内科は硫咲イサキ少尉の方がお得意かしら」

「一応眼科の看板を掲げてはいるんですがね。他に病院はないからと村の連中が病人を見境なく運んで来るもんで、風邪や腸カタル、軽い怪我くらいは診るようにしていますよ。俺の手に負えない患者は網走の病院に紹介状を書きますが」

「それは頼もしいわね。それなら子供も診ているかしら。この病院にはもちろん大人の兵士も来るけれど、貴方たちには主に若葉兵を診てもらおうと思っているわ。まだ母恋しい年頃で、女の先生の方が心安いだろう、と院長が云うの」

 看護師が黒板の注意書きを消すのを見ながら硫咲イサキが言う。

「あの子たちも本当は学校で勉強していておかしくないのにな」

「元は現地民向けに建てた学校とは聞きましたが、学校設備が残っているのですね」

「急拵えで改造したから、あまり邪魔にならないものはそのままにしてあるの」

 荊凍ケイテ硫咲イサキが座る机も、小中学校で使うようなものだった。荊凍ケイテがちらちら紫晶華ショウカを見ながら言う。

「ところで紫晶華ショウカ少佐はやはり……」

「御免なさいね。私も本当は行きたかったのだけれど、急に司令部から呼び出されてしまって」

「本当に上の許可取ったんだよな」と硫咲イサキ

「ええ。戦地で疲弊した女性軍医および看護師を慰撫し、また新任軍医との親睦を深め、士気発揚が云々とかなんとか云いましたら、食堂の使用許可は出ました。物品はすべてぼくの持ち出しですから出費の決裁は不要です」



*****



 茶と菓子の並ぶ机を、白いキュロット・パンツにブラウス姿の看護師たちが囲み、談笑している。色とりどりの髪や瞳を花と誇る、戦地に咲いた女たち。


「私、紅茶なんて久しぶりに飲みました」

 年若い看護師が湯呑みから立ち昇る香りを嗅ぎながら言った。

「まだ一缶ある。看護師詰所ナース・ステーションに置いて、皆で飲んでくれたまえ。今病棟に残ってくれている者たちにも是非勧めてほしい」

 荊凍ケイテがそう言うと、看護師たちからきらやかな歓声が上がった。歓声の陰で硫咲イサキが呟く「茶は有り難いな。俺は下戸なんだ」

「こちらは、お砂糖ですよね」別の看護師が卓上の缶を指して言った。

「ああ。紅茶に入れるといい」

 再び歓声。荊凍ケイテが看護師長に砂糖缶を差し出して勧めながら言う。

「皆さんの労を労うために特別な経路で仕入れたものです。最近は特に苦労されていると聞きました」

 看護師長が缶を受け取り匙で紅茶に砂糖を入れる。

「ええ。元々お医者様が足りず増員をお願いしていましたのに、一人急にいなくなってしまったものですから、それはもう」

「それは御苦労様でした。ぼくが来たからには一安心……と云いたいところですが、何分勉強中の身で至らないところもあろうと存じますが、何卒ご指導ご鞭撻いただきたく」

 ティーカップを傾けながら看護師長は満足気に微笑んだ。

「さらさらな砂糖なんて久々に見たな。俺も村の者に分けてもらった甜菜を煮詰めて、湿っぽい塊の砂糖らしき物を作ってみたりもしたが」

 硫咲イサキはそう言うと、声を潜めて「で、実際の出所はなんなんだ」

「たしか甜菜糖工場を経営する患者から治療費がわりに貰ったものだとか。うちの台所に積んでありましたのでいくらか失敬してきました」

 硫咲イサキが溜息をつき「紅茶は」

ノイ・ハイマットラントNHIL占領下のリスブランから。ちょっとした伝手がありまして」

 硫咲イサキはまた小さく溜息をついたが「タダ飯、いや、タダ菓子と茶に文句は言うまい」

「お菓子も久しぶりです」看護師がクッキーを摘んで言った。

 隣のテーブルの看護師たちが振り向いた。荊凍ケイテが席を立つ。

「今そちらにもお持ちしますよ」

 荊凍ケイテはテーブルを囲む看護師たちを見回しながらクッキーの缶をテーブルの中央へ置いた。一人の看護師と目が合った。波打つ黒髪の隙間で、真紅の瞳が輝く。荊凍ケイテが微笑みかけると笑みを返した。薄い唇の端がきゅっと上がり、張りのある小麦色の頬が丸く膨らんだ。


 暫し歓談が続いた後、

「さあ、そろそろ時間です。仕事に戻りましょう」看護師長の声掛けでお開きになった。

 部屋を辞す人波の中で、再び荊凍ケイテと先程の看護師の目が合った。荊凍ケイテが看護師の隣へすっと寄る。

「お名前をお伺いしても」

十花勝とかちと云います。あの、最近あまり体調がよくなくて、診ていただけませんでしょうか」

「それはよくない。あとで診察しましょう」耳許に口を寄せた。

「じっくり話を聞きたい。よければ、今夜ぼくの部屋へ」



*****



 荊凍ケイテ十花勝トカチが、並んでベッドに腰掛ける。

「これは洋酒でしょうか。私、はじめて飲みます」

「ああ。ブランデーだ。高級将校連中が隠し持っているものは学生風情に降りてこないが、これはぼくの私物だ。遠慮なく呑んでくれ」

 グラスから一口ブランデーを呑んだ十花勝トカチが言う。

「とても素敵な香りですが、喉が灼けてしまいそう」

「そう云うかもしれないと思ってな」

 荊凍ケイテはベッド脇のデスクから紅茶を満たしたティーカップを取ると、十花勝トカチの手に持たせた。自分はデザートスプーンを持つと、角砂糖を一粒載せ、その上からブランデーを垂らしてスプーンを満たした。ブランデーの甘い香りが昇る。

 次に片手でスプーンとマッチ箱を持ち、ティーカップの上にかざすと、もう片方の手で器用にマッチを摺り、ブランデーへ火を点けた。ぽっと青い火柱が立った。揺らぐ蒼炎の足元で砂糖はふつふつと泡を上げて溶け、カラメルを混ぜたように濃厚な甘い香りが広がった。

 砂糖が溶け切るころ、ふっと炎も消え、荊凍ケイテはスプーンを紅茶へ沈めた。

「さあ」

 荊凍ケイテの勧めに応じて、十花勝トカチが紅茶を口に含んだ。ブランデーの華やかな香りと紅茶の薫香、砂糖の甘みと紅茶の苦みが絡み合い、十花勝トカチの口内で複雑な和音を奏でる。こくり、呑み下すと、甘い溜息をついた。

「まあ、なんて素晴らしい……それに、いい香りといえば、あちらも」

 十花勝トカチの視線の先、荊凍ケイテのベッドの枕元にはイランイランの花が添えられ、シーツの上には花びらが散らされていた。

「とても強い香り。くらくらしてしまいます。それに、なんだか、胸がどきどきしてきました」

 十花勝トカチが胸に手を当てた。

「ああ、ぼくもだ」

 荊凍ケイテ十花勝トカチの手を取り、荊凍ケイテの胸に当てた。二人の視線が交わる。荊凍ケイテ十花勝トカチの肩を抱き寄せ、耳許に口を寄せた。唇で、黒耀石のナイフのように波打つ不規則な輝きの髪を掻き分ける。

「このあたりでは、イランイランの花びらを新婚初夜のベッドに撒くと聞く」

 十花勝トカチの耳が真っ赤になった。

「やはり、いけません……私は故郷に許嫁が」

「許嫁だって。まだそんな前近代的な風習が」

「私の生まれたところは、冬になれば馬一頭も通れない峠の先の盆地で、考え方の古い者が多いのです」

「君はそれで満足なのか。なぜ、許婚を残していつ死ぬともわからぬ戦地へ来たのかな」荊凍ケイテ十花勝トカチの手を握った。

「あの谷底で氷漬けになるより、一目でいいから南の島を見てみたかった!」

 十花勝トカチ荊凍ケイテの手を強く握り返した。

「それで、学校を出てすぐに志願したのです。今から志願する者は皆南洋行きだという噂だけを頼りに、周囲の反対も振り切って」

 荊凍ケイテが手を離し十花勝トカチの指を解いた。指先と指先を合わせると、指の側面を撫でながらそっと指を下ろし、指の股をくすぐる。十花勝トカチは浅く呼吸しながら膝を擦り合わせる。

「とやかく言う他人なぞ気にする必要はない。君は、何だってやりたいことをできる」

「私、あの人からこんな風に優しく触れられたことありません……」

「非道い奴だ。女性の扱い方を知らないのだろう。どう触れれば繊細な膚が傷つかないか、どうもてなせば柔らかな和毛にこげが悦びに打ち震えるか――――」



****



 荊凍ケイテの部屋を辞した十花勝トカチが廊下を歩く。自室へは戻らず、玄関から外へ出た。月灯りが照らす二階建ての建物を見上げる。元は学校職員宿舎だったものを医師と看護師用の職員宿舎に転用したものだった。指を頬に当てるとまだ熱かった。顔を上げ夜風に当てる。胸に手を当てると鼓動は高い。口の中には、紅茶とブランデーの残り香。

 病院の周囲にふよふよと漂う白い毛玉があった。月灯りにぽうっと照らされた霜銀ソウギンの頭だった。十花勝トカチに気付くと短い手足を振ってぱたぱたと駆け寄った。

「すみません、あの、湖弓先生が緊急の手術をするそうで、病棟を見る看護師が足らぬと……」

「わかったわ。すぐに着替えて行きます」

 イランイランの香を残して宿舎に消える十花勝トカチの背中に銀霜が声を掛けた。

「あの、十花勝トカチ……さん、なにか、雰囲気が変わったような……」

 振り向いた十花勝トカチの、凄まじい流し目。闇に燃ゆる、月光を掻き消す紅い炎。

「そうかしら」古代の彫刻のように微笑んで言った。

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