殺鼠剤

 食堂では輸送指揮官の少佐以下、陸軍将校たちが長テーブルに向かって食事を摂っている。テーブルの間を司厨員の少年が歩き回り茶を酒を注ぐ。長い髪をお団子に丸めた若い女性の通信下士官が少佐に近付き、何やら紙を手渡した。紙を一瞥した少佐が咳払いをし、将校たちの視線を集めた。

「作戦は変更なし。予定地までこのまま進み、補充の人員と物資を陸揚げする。たただし防諜のため兵には三日前まで行先を明かさぬこと」

「はっ」将校たちが勇ましい声を返した。

 荊凍ケイテは口だけ大きく動かして小声で返答した。隣に座る硫咲イサキが、バター香る白身魚のムニエルをフォークで持ち上げ、小声で「兵たちにもこれくらいの物を喰わせてやれれば、俺たちはもっと暇だったろうな」と呟いた。荊凍ケイテは小さく頷きながらスプーンでコンソメスープを口へ運んだ。ふと見ると壁際に殺鼠剤の盛られた小皿があった。いつから設置されたものか、少なくとも荊凍ケイテの記憶では出航直後にはなかったものだった。

 食事を終えた荊凍ケイテが席を立つと、司厨員が声を掛け、卵を手渡した。

「先程頼まれたものです」

「ありがとう。今晩も夜通し診察しないといけなさそうでね。夜食に頂くよ」

「本当に生でいのでしょうか」

「ああ、卵は生の方が鮮度を保てるからね。こう暑いと、茹で卵はすぐ傷んでしまう」

 そう言い残して荊凍ケイテが廊下へ出ると、衛生兵の少年に声を掛けられた。

「あの、先生。一人、今にも死にそうな者が」

「わかった。着替えたらすぐ行くから、先に行ってくれ」


 荊凍ケイテが病室へ着くと、前日に〝溶解〟寸前と報告があった患者の傍らに、食堂室の前で荊凍ケイテを呼び止めた少年がいて、患者の指の包帯を変えている。

「何度替えても、すぐ血浸しになってしまいます。怪我をしているわけでもないのに、指から血が止まりません」

「ロブラは全身の粘膜から出血するが、症状が進むと指と爪の隙間から出血することも多い」

 荊凍ケイテは患者の患者衣を捲った。腹は抉ったように凹んでいた。腹の中身は疾うに〝溶解〟し、粗方流れ出した後だった。血のこびりついた唇に指先を近付けた。呼吸はない。

 患者の目は昨日にも増して虚ろ。首は、耳から流れた血があちこちに付いていた。その隙間、血のついていない箇所を選んで荊凍ケイテが指を宛てた。ラテックスの手袋越しに微かに一度脈を感じた。その後、十数秒開けて先ほどより弱くまた一拍。それが最後だった。

 荊凍ケイテが指を首から離した。少年が荊凍ケイテの顔を見る。荊凍ケイテが顔を左右に振った。少年はしばし俯いて患者を眺めていた。

「この後は……」

「ああ、これまで同様に。ぼくは硫咲イサキ先生に伝えてくるから、君たちは患者と同じ班の者を呼んで、準備しておいてくれ」



*****



「このところ毎日です。今日は一人だけなのでまだましかもしれません」

 ベッドから身体を起こしながら、眼鏡の女性軍医が荊凍ケイテから書類を受け取った。

「邪魔して申し訳ないのですが」

「構わんよ。そろそろ起きるつもりだった」

 彼女の名は硫咲イサキ《いさき》といった。荊凍ケイテと同様に半袖開襟の防暑略衣で、襟の階級章は少尉であると示していた。

「これだけ熱病でバタバタ人が死んで、医者が予備役の眼科医と軍医学校の学生、二人ぽっちといはな。しかも患者は子供ばかり。もう十年医者をやっているがこんなに子供の死体ばかり見るのは初めてだ」

「死亡診断書」と題された手書きの書類に眼を走らせる。薄暗い――船内どこでもそうだったが――医務室にあって、内側から発光するかのように輝く檸檬色の瞳が動く。

「それに、子供の兵隊と同じ船とは聞いていたが、船員にもこれだけ子供がいるとは思わなかったな。子供に石炭での缶焚かまたきなんて任せるから怪我人が出るんだ」

 硫咲イサキは横目でベッドに眠る少年を見た。船員服で、ズボンは捲り上げて脚に包帯を巻いている。伝染病患者は隔離病室に収容しているため、二つある医務室のベッドは空きがあることもあった。

 硫咲イサキ荊凍ケイテへ死亡診断書を渡した。

「問題ない――――いや、別の問題ならあるかもしれないが」

 硫咲イサキが寝癖で膨らんだ髪に手櫛を通しながら溜息をついた。真ん中で分けて肩の上で切られた柔らかな鶸茶ひわちゃの髪は、幾度か手を動かすと、すとんと落ちた。

「島に到着しても、人員損耗の責で詰め腹を切らされるのは御免だな」

「それならロブラに罹っておくのが得策でしょう。返り血で上官たちを道連れにできます」

 硫咲イサキは乾いた笑みを漏らし「違いない」と言った。

 部屋の隅で、ばり、ざりり、と音がした。二人が目を向けると、壁を這っていたヤマネがずり落ちるところだった。壁板に立てる爪は弱々しく、爪研ぎのような音を立てながら地面へ落下し、痙攣をはじめた。

「倉庫か厨房あたりで猫いらずを喰らったな」

「誰か片付けにこさせますから触らないでおいてください。硫咲イサキ先生までロブラに斃れたらぼくが過労で死んでしまいます」

 ヤマネはすぐ動かなくなった。

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