蛇二巻

 慌ただしく診察を行ううちに夜は更けた。ようやく自室へ戻った荊凍ケイテは、白衣を脱いで浅葱の浴衣に着替え、机に向かう。裾が僅か透ける麻の楊柳は涼し気だが、部屋には熱気が籠もっていた。荊凍ケイテは右手で万年筆を滑らせながら左手で扇子を仰ぎ、大きく開いた胸元に風を送る。

 背後では、電灯の傘から青蛇がぶら下がる。左眼は潰れており、はしばみ色の右眼が爛々と光る。蛇が舌を出し入れし、首を荊凍ケイテの方へ伸ばす。くねる躰の作る影が、荊凍ケイテの手元の紙へ落ちた。動く影に気付いた荊凍ケイテが振り返り、椅子から勢いよく立ち上がった。緩く結んで垂らした兵児帯の先が揺れる。蛇は荊凍ケイテを見詰めたまま動かない。

「蛇……驚いたが、ヤマネよりはましだな。それに、よく見るととても綺麗な青緑だ」

 荊凍ケイテがふふ、と笑みを漏らす。

「もしかすると、ぼくの部屋でヤマネを見ないのは、君が食べてくれたのかな」

 蛇が首を荊凍ケイテが眉を顰める。

一寸ちょっと待て。まさか、今、返事をしたか」

 蛇が、今度は首を荊凍ケイテが眼をぱちくりさせて蛇を見つめる。青緑の鱗、榛の左眼、潰れた右眼――――

「もしかして、メカクレか」

 再び、蛇が首肯した。荊凍ケイテがへなへなと椅子へ座った。

「なんだ、それが本来の姿ということか。否、それより、たしかに南洋へ行くとは云ったが、まさか追って来るとは。心配してくれたのか」

 蛇が電灯からべちゃり、と床へ落ちた。ベッドの方へ這い、頭をベッドの下へ突っ込んだかと思うと、また顔を出して荊凍ケイテの顔を見た。

「何かあるのか。ヤマネならご勘弁願いたいものだが」

 荊凍ケイテがベッドの下をを覗き込むと、奥に紐で括られた布の塊があった。引っ張り出すと、それは浅葱の着物だった。

「服、ということは人間の姿に戻るのか」

 蛇が小さく頷く。

「しかし困ったな、船内で大人一人匿うのは骨が折れる」

 蛇が首を左右に振った。

「違うのか。ええと……もしや、おかに着いたら人間の姿に戻るので、それまで服を棄てるな、ということか」

 蛇が大きく頷いた。

「そういうことか……うわ」

 ベッドの奥からもう一匹、一回り小さい蛇が這い出てきた。

「両眼がある。ミドリか」

 小さい方の蛇が頷いた。腹が僅かに膨らんでいる。

「待て。何を喰った。先ほどメカクレはヤマネは喰っていないと云ったが……ミドリはヤマネを喰ったのか」

 ミドリが首を振った。

「なら何だ」

 隻眼の方の蛇が、身体を緩く丸めて床に楕円模様を作った。

「ええと……卵か。倉庫か調理場で見付けたのか……いいか、二人とも絶対ヤマネは喰うなよ。触ってもいけない。卵でよければ調達してくるから、大人しくしてくれ」

 二匹の蛇が頷いた。

「服はぼくが預かっておく。そろそろ寝るが、君たちも好きな処で寝てくれ」

 荊凍ケイテはメカクレの着物を壁に作り付けの物入れへ放り、電灯の紐を引いて灯りを消した。蛇たちはベッドの下へ潜り込んだ。荊凍ケイテも布団を被った。

 彼女は普段、物思いに耽る間もなく眠りに落ちる性質だった。しかし今宵は、この船へ乗る前、大雪山は層雲峡でのことを思い返した。



*****



「また逢える気がしていた」


 天辺てっぺんを雲が隠す氷瀑を、荊凍ケイテが見上げる。巨大な氷柱つららを束ねたような氷瀑の中程、棚のように張り出した氷に裸足のメカクレが立ち、荊凍ケイテを見下ろしていた。雪混じりの風が舞い、擦り切れた青磁の裾をばたつかせる。


 荊凍ケイテが背嚢から、紐で括った油紙の包を取り出した。メカクレに向けて差し出す。

「これを」

 メカクレが氷瀑から滑るように降り、一歩幅の細流を挟んで荊凍ケイテの前へ立った。川の上に腕を渡し、包を受け取る。開くと、真新しい着物と襦袢、帯が入っていた。着物は、今着る色褪せた着物の在りし日の姿を忍ばせる、鮮やかな浅葱色。

「きちんと礼を云っていなかったからな」

 メカクレは目をぱちくりさせた。

「あの青罌粟を持ち帰り、母上の枕元に飾ったところ、母上は大層喜んで、その後しばらく持ち直した」

やまいが癒ったのか」

「完全に癒ったわけではない。本当に花が薬効を発揮したとも思わないが、ぼくが一人で遠くの山へ登り、花を摘んで帰ってきたのが嬉しかったのだろう。子の成長は親を元気付けるものだ。一昨年、身罷ったが、それでも元々思われていたより長かった」

 荊凍ケイテは空を見上げた。その後、メカクレに向き直り「ありがとう。君のおかげだ」

「本当はもっと早く来たかったのだが、色々と忙しくてな。しかし、明後日、南洋に向けて発つのだ。今を逃すともう一生会えないかもしれないと思って来た」

「南洋へ、と」

「ああ。小樽から輸送船に乗り、遥か南の島へく」

「南の島。物見遊山か」

いや。藍空は今、大陸でも、南洋でも戦争をしている」

 メカクレが首を傾げた。

「女の兵士とは珍しい。何より、お主は医者になるのではなかったか」

「軍医になることにしたのだ。父上も先に軍医となって散った」

「親が死んで、なお戦争にと。それでは死にに行くようなものではなかろうか。人は、自ら命を絶つのが好きだのう」

「死にたいわけではないのだが。人間には色々と事情があるものだ」



*****



 荊凍ケイテが寝息を立て始めるころ、蛇二匹もベッドの下で動かなくなった。

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