山鼠

 所狭しと三段ベッドが並ぶ天井の低い船倉、熱帯の太陽で蒸された蒸籠セイロのよう。天井からぶら下がる裸電球たちが、血染みのこびりついたシーツと、ベッドの上でうめく少年たちをぼんやりと照らす。

 人いきれの中、開襟の防暑略衣を着た少年たちが、汗だくでベッドの隙間を歩き回る。腕には衛生兵であると示す白地に緑×バツ印の腕章を縫い付けてある。元は半袖の服も、サイズが合わない大人用のため、七分袖のように見える。

 一人の少年は患者の血で汚れた患者衣を脱がして身体を拭うが、その間にも患者が血を吐き、少年は、ひぃっと上擦った声を上げて手を引いた。

 白いガーゼのマスクを着けた荊凍ケイテが、先の少年に先導されて最下段に横たわる一人の患者の横へ立った。真っ赤に充血した眼は虚ろで、荊凍ケイテが声を掛けても反応はない。脈を取ると遅く弱い。荊凍ケイテが傍らに置かれた血塗れの雑巾で一杯になったブリキのバケツを一瞥し、床を拭く少年へ問う。

「全部この患者のものか」

「はい。先程、爆発的に下血しまして」

 床に残る血は、壊死した組織が混じり、どろりと重い。

「失血性ショックだ。まずは脱水回避のためリンゲル液を点滴する。準備を」

「はい」少年が小走りで去る。

 患者が痙攣し、口から黒い血を吐き出した。飛び散った飛沫が床を拭く少年の頭に降った。少年が悲鳴を上げて飛び退いた。荊凍ケイテが叫ぶ。

「誰か急ぎ消毒を!」

 数人の衛生兵が走り寄り、患者と血を浴びた少年の血を拭う。

「点滴の準備が出来ました」

 最初の少年が荊凍ケイテに声を掛け、ゴムチューブに繋がる針を手渡した。少年が駆血帯で患者の上腕を縛り、肘の内側をヨードチンキで消毒した。浮き出た血管を目がけて荊凍ケイテが針を刺した。しかし、針の周囲からは血が細い噴水のように噴き出した。場所を変えてもう一度刺したが同様だった。

「血管も壊死して脆くなっている。これでは切開して血管を確保しても逆効果だし、いずれにせよ失血と脱水が加速するだけだから点滴は諦めるしかない。まず止血して、それからリンゲル液の皮下注射を試みるから準備を」

 少年が患者の腕にガーゼを当て、包帯を巻く。

 荊凍ケイテがカルテに目を走らせながら言う。

「進行が早い。既往症はないが、やはり年齢と身長の割に体重が軽い。元から栄養不良気味だったのが良くないのかもしれない」

 少年が、ひっ、と息を呑んだ。防暑略衣越しに薄い腹を撫でながら、暗い声で言う。

「ぼくも、入隊時の検査で体重が軽いと言われました。ぼくも、もしロブラになったら……あの、軍に入ったら、お腹いっぱいご飯が食べられると思って、それで」

「今からでも沢山食べて精をつけるに越したことはない。しかし、心配しすぎも身体に障る。気を強く持ったほうが良い」

 別の少年が荊凍ケイテに声を掛ける。

「こちらの患者も先程から様子がおかしくて」

 少年の案内で狭い通路を歩き患者の元へ向かう。この船は元来貨客船として造られたものだが、貨物室に蚕棚と呼ばれる三段ベッドを詰め込み、下士官兵の居住区間としていた。

 荊凍ケイテがベッド中段を覗き込む。患者は半開きの眼と口から血を流している。うめきながら身体を跳ねさせて爪で腕を掻き毟っており、指先と腕が血塗れだった。

「ロブラによる脳症だろう。錯乱して自傷に及ぶことは珍しくない。傷が浅い割に出血が多いのもロブラのせいだろう。暴れていては彼の血から他者にロブラを感染させかねないから鎮静の必要がある。フェノバールを持ってきてくれ」

「お持ちします」少年は小走りで去った。

 室内に甲高い悲鳴が響いた。

「ロブラヤマネだ!」「捕まえろ!」「早く!」

 少年たちが虫取り網を振り回し、床を走る淡褐色の小動物を追う。その背には黒い一本線が入り、ふさふさとした尾は胴と同じほど長く、藍空固有種のランクウヤマネによく似る。

 ロブランシュヤマネは体色がより灰色に近いことは多いが個体差も大きく、よく見れば一回り大きい耳が判別の手掛かりとされている。

「病室にもヤマネとはな。門司もじ港を出てから増える一方だ。せっかく北海道から船を出したのに九州で荷積みするとは、上層部は何を考えているんだ」

「船内どこにでも出ます。倉庫にも、居室にも」少年が脳症患者の腕に包帯を巻きながら言った。

 壁は天井より僅か低く、虫取り網が当たる度に揺れる。兵士の居住区画を板で仕切り、急造の病室としていたのであった。

「やはり居室にも出るか。ぼくの部屋ではまだ見ていないのだが」

「そうでしたか。やはり部屋を綺麗にされているのでしょうか。女性の二人部屋は、男の集団部屋より掃除が行き届いていそうです」

 将校と一部の下士官はデッキの客室を居室としており、荊凍ケイテの部屋はツインの二等客室だった。

「家では人任せなので掃除はあまり得意な方ではないのだがな。しかし医者の不養生ではないが、ロブラ危機に瀕して衛生管理の徹底が叫ばれる中、医者の部屋が綺麗でなければ他の者に示しがつかないので、ひいひい言いながらなんとか」――――

「先生、鎮静剤をお持ちしました」少年が荊凍ケイテに薬液の満ちる注射器を手渡した。

「ありがとう。患者を抑えていてくれ」

 荊凍ケイテは注射器を受け取ると、患者の上腕へ垂直に針を突き立てた。狙うのは血管ではなく三角筋である。針の周囲に血が滲んだが、構わずプランジャーを押し込む。針を引き抜くと孔から血が流れ、少年がガーゼを当てた。すぐに患者は動きを止めた。

「止血は念入りに。血液の凝固作用も失われつつある。小さな孔でも油断はできない」

 部屋の隅から大声が上がった。

「捕まえたぞ!」

 虫取り網を床へ押し付けた少年が声を上げ、周囲に人集りができた。網の中でもがく小動物は、キュウキュウ声を上げている。、部屋の反対側から「こっちにもいるぞ!」と声が上がり、人々の注意はそちらへ向かった。

 荊凍ケイテは部屋を見回した。血塗れの患者たち。部屋に反響する悲鳴とうめき声。

「出港して二週間。まだ折り返しだというのにこれでは先の航海が……いや、到着後もどうなることやら」

 荊凍ケイテが部屋の隅を見ると、トラバサミが虚しい口を開けて獲物を待っていた。

「こいつはお気に召さないようだ。いっそ鼠取りのために猫か蛇でも飼うか」

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