北辰

 荊凍ケイテが病室へ戻ると、遺体は帆布を縫い合わせた袋に収められていた。棺にするだけの材木は尽きていたのだった。周囲を少年たちが取り囲み、そのうちの幾人かは啜り泣いている。

 荊凍ケイテが近付くと、一人の少年が缶詰の空き缶を荊凍ケイテへ差し出した。中には切り取られた小指が入っていた。

「よし、これは焼いておいてくれ」

 少し遅れて硫咲イサキが病室へ入ってきた。遺体袋を取り囲む少年たちへ声を掛ける。

「お別れは済んだか」

 幾人かの少年が頷いた。荊凍ケイテが促すと少年たちが遺体袋を担ぎ、縄梯子を登って部屋の外へ出た。硫咲イサキ荊凍ケイテも後に続いた。


 甲板では、温い雨が甲板を打っている。蒸し風呂のような湿度と熱気の中、所狭しと並ぶ上陸艇やドラム缶の間を進む。船縁に着くと、少年たちが遺体袋に鉄の錘を詰めた。船の周囲は昏い夜の海。泣き腫らした眼の少年が荊凍ケイテに問う。

「こんな暗い中。まるで地の底まで落ちていくようです。せめて朝まで待てませんでしょうか」

「ロブラ重症者の体内は、生きている内から壊死が進んでいる。この熱帯夜で一晩置いては、文字通り中身が溶けて漏れ出してしまう。そうなればより多くの者に感染させる危険性が高まる。君たち自身を守るためだ」

 その少年も周囲に促され、一緒に遺体袋を担いで船縁に立った。いち、にい、さん、という掛け声と共に、遺体袋が海へ投げ入れられた。どぼん、と水面へ落ち、そのまま沈んでいった。雨が甲板を打つ音に混じって啜り泣きが響く。一人の少年は硫咲イサキの胸に顔を埋めていた。水葬の延期を提案した少年だった。

 荊凍ケイテが自分の髪に手を遣ると潮でべたついており、彼女はシャワーがわりにこのまま暫く出ていよう、と思った。出航直後は船員ボーイの案内で毎日入浴していたのが遠い昔のように感じた。短髪の彼女は、長髪を濯ぐ下士官を横目にゆったり湯船へ浸かったものだった。

 白衣を脱いで丸めて脇に抱え、マストに凭れた。満天の星空で北極星を探す。はたしてそれは船の斜め後方の低い空に輝いていた。

 気付くと一人の少年が荊凍ケイテの傍らに立っていた。

「先生、何を見ていらっしゃるのです」

「北極星だ。わかるか」

 少年が首を傾げた。荊凍ケイテが空を指差して言う。

「あれが北斗七星。柄杓のような形が見えるか。その先の大きな星、そう、あれだ」

 周囲には、他にも数名の少年が集まっていた。硫咲イサキも泣く少年の頭を撫でながら歩み寄り、空を指差して言う。

「北極星は、夜空でずうっと変わらず北の空にいるんだ。だから、昔の船乗りはこれを目印に航海した」

「あちらが北、ということですか。では、あのずっと先に、藍空が、北海道があるのですね」

「ああ、そうだ。札幌時計台なんかの赤い星印も北極星を表しているんだ。北極星は北辰とも呼ぶが、北辰旗といってな、昔は道庁の屋根に赤い星印の旗を掲げたりしていた。その名残だ」


 荊凍ケイテはマストに凭れたまま上を向き、雨が顔を流れるに任せた。濡れた髪に手櫛を通す。潮は落ちたが、まだ残る脂が髪を重くしている。



*****



 荊凍ケイテが自室へ戻ると、電灯の傘の上で青蛇が二匹とぐろを巻いていた。

 濡れた服を脱いで椅子の背に掛ける。ショーツ一枚になると、雫の垂れる身体を手拭いで拭き、替えの服を着た。机の籠から卵を掴み、電灯の傘の上でとぐろを巻く隻眼の蛇へ差し出した。部屋の隅でかさり、と音がなり、荊凍ケイテは肩をびくりと震わせた。見ると、棚から書類が落ちていた。荊凍ケイテは脱力して息を吐いた。

 蛇が卵に喰らいつき、荊凍ケイテの手から奪うと、するり傘の上へ戻った。

 廊下で足音がし、硫咲イサキが部屋に入った。

「今晩はぼくが見ておきますから、もうお休みになってください」

「ああ、頼んだよ」

 硫咲イサキは白衣を脱ぐと倒れるようにベッドへ入り、すぐ寝息を立て始めた。


 薄暗い傘の上の薄暗がりで、蛇の右眼が電灯を帯びて榛色に輝いた。

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