捌 青蛇

 荊凍ケイテが銃を、倉庫と廊下を繋ぐ開き戸へ向ける。扉は微かに開いているが、奥の様子は見えない。ぎい、と音を立てて扉が開き、ナイフを持った男が現れた。

「動くな!」荊凍ケイテが叫び、男はひぃっと情けない声を上げた。

「両手を頭の後ろで組んで地面に伏せろ」

 男は転ぶように床へ伏せた。荊凍ケイテがじりじり歩み寄り、ごり、と男の頭へ銃口を押し当てる。羽織の襟元からは紋々が覗く。

「騙された!なんで軍がいるんだ…………」

 男の喋り方は妙に高い。男娼時代の癖が抜けきっていないと荊凍ケイテは察した。

「何を言う、ここは軍の施設だぞ。貴様こそ何者だ。森で死んでいた奴の仲間か」

「森で……もしかしてそいつは苔色の羽織を着ていたか……途中、吹雪ではぐれたんだ……俺の女がここで監禁されていると聞いて…………それで……あいつも一緒に来てくれて……」

「誰がここを教えた」

 男に問いながらも、荊凍ケイテの注意は廊下の奥へ向けられていた。突き当りに扉があり、裏から

「それは、その……」

 男が言い淀む間に、ぎい、と音を立て扉が開いた。荊凍ケイテも男もそちらへ目を向ける。現れたのは柘榴――――薄野で警察に犯人ありと荊凍ケイテに耳打ちした警官――――だった。柘榴は素早く銃を抜くと続けざまに二発男の胸に撃ち込み、男は動かなくなった。

「何故君がここに。この男は何だ」

「警察も一枚岩じゃあないの。殺人鬼とやくざ者が相討ちにでもなれば、少なくとも軍の手柄ではなくなると考えた奴がいてね……もちろん私じゃないわ」

 荊凍ケイテの脳裏に昨日の刑事の顔が浮かんだ――――あの男、龍市朗は時報と同時に扉をノックした。本当に、のか。

「怪しげな情報を頼りに大役狙って空札引いても、賭け金が只なら構わないというわけ。こいつらは不適格出産準備罪で逮捕寸前だったのだけれど、全く余計なことを」

 語る声は薄野で聞いた玉の音ではなく、気怠げな低い響き。

 柘榴は扉の向こうへ消えた。荊凍ケイテが追い、メカクレも続いた。

「ならば君は何をしに」

 部屋の中央、海老反りに吊られた女がいた。手と足を金属製の鈎が貫き、天井から伸びる鎖で金属製の重しが下がっていた。腹の皮は重みで長く伸びていた。

 しかしそれより荊凍ケイテの眼を引いたのは、部屋の奥の床に横たわる女だった。白い手ぬぐいで目隠しをされているが、目元は赤く滲み、口と耳からも血を流していた。柘榴が吊られた女へ歩み寄る。

「待て、その女も」

「そうね、ロブラかもしれないわね」

 そう言うと柘榴は腰からサーベルを抜き、吊られた女の身体を斬り付けた。返り血が柘榴の全身に飛び散る。

 荊凍ケイテが大きく後退った。南洋の記憶が目の裏に浮かぶ。全身の孔という孔から血を流す患者――――ベッドの並ぶ病室――――

 柘榴がもう一度サーベルを振るい、今度は女の顔面を斬り付けた。目隠しが切れて落ち、女は眼を見開いた。

「ねえ……柘榴なの……もしか」――――

 女の言葉を遮って柘榴が空の薬瓶を女の口へねじ込み、頬をサーベルの柄で殴った。くぐもった硝子の割れる音が鳴り、二度三度と撃ち込まれる打撃に合わせてぬちゅ、にち、と水音。女はその後言葉を発さず、うめき声を漏らすばかりだった。

 廊下から物音がした。ガラスを踏む音が近くなる。荊凍ケイテは壁を背にして右手に柘榴が、左手に扉が同時に見えるよう陣取った。すぐに扉から、銀髪の若い男が飛び込んできた。立ち襟シャツに着物と洋袴、羽織は雪で白くなっている。肩で息をしながら柘榴へ問う。

「その女は次のフィルムで使う予定でした」

予定ね」

 柘榴は振り向きもせず、女の腹にサーベルを突き刺した。びしゃりと血が床に落ちる。臙脂の瞳が映すはひたすら赤。荊凍ケイテが更に後退った。

青波あおなみはどこです」

「さあ……邪魔だから締め出しておいたのだけれど、狼か蛇にでも喰われたのではないかしら」

 そう返しながらも柘榴は繰り返しサーベルを女の腹へ抜き差し続けている。男が柘榴の肩に手を掛けようとしたが、振り払われた。

「柘榴さん、何故」

「私、男に興味ないの。あなた以外の皆が知っていたわ」

「嘘です」

「信じたくなければどうぞ。いずれにせよ、あなたに張って正解だったわ。薄野でブルー・フィルムを見てどこからか8ミリのカメラを持ってきたときはどうなることかと冷や汗かいたし、最後の最後でも邪魔が入ったけど、ギリギリ間に合ったから私の勝ちね」

 男は目を見開き、口をぱくぱく動かしているが発する言葉もない。

「何故こんなつれない女に懸想できるのか私にはさっぱり。それか、もしかして」

 漸くサーベルを動かす手を止めた柘榴は一度言葉を切り、横目で男を見遣ると、吐き捨てるように言った。

「私、お母さんに似ていたかしら」

 柘榴は拳銃を自らのこめかみに当て引鉄を引いた。銃声が響き、柘榴がゆっくり仰向けに倒れた。虹柘榴レインボー・ガーネットの髪が床に広がる。の男は膝から崩れ落ち、這うように柘榴に近付くと、なにやらぶつぶつと死体に向かって呟きはじめた。

 荊凍ケイテは一瞬固まったが、すぐあと男に銃を向け「動くな」と言った。腰で構えた銃の先は男を向いているが、視線はその背後、床に倒れた女に注がれていた。荊凍ケイテの脳内で、女の腹が爆ぜた――――飛び散る肉片、頭上から降り注ぐ血混じりの羊水――――息を潜めゆっくりと横歩きで場所を僅かに変える。射線から女が外れた。荊凍ケイテはごく小さく息をついたが、次の瞬間、建物が大きく揺れだした。

「余震だ!」

 荊凍ケイテが叫んだ。天井も床も大きく揺れる。棚の中では薬瓶がぶつかり合い、そのうち一つが落ちて、床に横たわる女の腹に着地した。それまで一言も言葉を発していなかった女が身をよじり、うめき声を上げはじめる。揺れが収まった頃、荊凍ケイテの視界に飛び込んできたのは、女の腰を中心に、床へ血混じりの透明な液体が広がる様子だった。荊凍ケイテは息を飲み、喉からひゅうと音が鳴った――――破水した――――

 女を見詰める視界の端で、男がゆらりと立ち上がった。瓜実顔にだらりと肩から落ちる羽織は、掛け軸の幽霊画のよう。

「動くな!」

 荊凍ケイテの制止を無視して男が荊凍ケイテに向かって動き出した。荊凍ケイテが一発撃った。銃弾は男の肩を掠め、背後の床、女からは離れた位置に着弾した。荊凍ケイテは心臓が口から飛び出すように錯覚した。肩から血を流す男は、ゆっくり膝をつき、項垂れた。

「両手を頭の後ろに――――」

 男の胸元から釦が飛び、荊凍ケイテは言葉を止めた。男を凝視する。シャツの隙間の胸は、見る間に長い銀の毛で覆われた。次いで髪がぶわりと伸びて広がり、上腕と背中も着物の下で膨れ、だらりと垂れた腕の先では爪が鋭く伸びた。ばり、と音がして洋袴が裂けた。男がゆっくり頭を上げる――――男の顔は狼のそれになっていた。狼人とでも形容すべき姿――――長い口吻の付け根で、金の瞳が輝いた。


 荊凍ケイテは扉に向かって駆け、廊下に出ると破れた窓から外に飛び出した。すぐ後に続いたメカクレは、窓から出るとすぐ荊凍ケイテを抱え上げた。森へ向かって走り、広場との境に立つ白樺へよじ登った。

 後を追う狼人は獣の唸りを上げながら四足で駆け、一瞬で白樺の根元まで辿り着いた。大きく跳躍して二人が乗る枝に噛み付く。ばき、めり、と枝が裂ける。メカクレは荊凍ケイテを背後へ突き落とし、自らは狼の頭目掛けて足を振り下ろしたが、踵が落ちる前に枝が折れた。そのまま枝ごと落下する。

 一足早く着地した狼人は、雪へ落ちたメカクレの足首に噛み付くと大きく振り回し、身体を幹に叩きつけた。鈍い音が響き、幹が揺れる。メカクレがごぷり、と血を吐いた。


 背後の雪上に転がった荊凍ケイテは、建物の影から飛び出した狼に気付いた。脇腹から血を流している。先程倉庫の屋根から荊凍ケイテが狙撃した狼だった。今度は荊凍ケイテが撃つより早く、狼が荊凍ケイテに飛びかかった。顔を庇った左手を狼の爪が掠め、革手袋ご

と掌の皮膚が裂けたが、顔を歪めつつも銃床を狼腹に押し当て、右手で引鉄を引いた。続けざまの銃声が響く。狼は甲高く鳴き、腹から吹く血で雪を染めながら斃れた。


 一方のメカクレは繰り返し樹へ叩きつけられている。白樺の白い樹皮が血で汚れていく。となっている足首は食い込んだ牙の周囲が大きく抉れ、肉が顕わになっていた。

 狼人が大きく首を振り、勢いを付けた一撃。先程縫ったメカクレの手首が飛び、断面から血が飛び散った。次撃の前に、メカクレが足を強引に狼人の口から引き離した。足首が千切れ、反動で倒れたがすぐ身体を起こし、樹に凭れて片足で立った。狼が飛びかかり、メカクレの喉笛に喰らい付た。血が勢いよく吹き出す。狼は白銀の毛並みを赤く染めながら、爪をメカクレの顔へ食い込ませた。


 その瞬間、背後の森から鳥の群れが飛び立った。紺碧の空を黒い影たちが横切る。

 狼人も後退って距離を取る。戦いの音で騒がしかった森が、静まりかえる。


 かさり、メカクレの前髪の下で微かな音がした。

 メカクレがゆっくりと前へ歩き出した。片足は足首から先が無いため、一歩ごとにがくり、と身体が大きく揺れ、切断面を押し付けられた雪に血が滲む。しかし、対峙する狼人は麻痺したように動かない。

 数歩歩いたところでメカクレが立ち止まった。

 折り皺残る油紙のようなものが、前髪の裏から落ちる。はらり、宙を舞い、雪の上に載った。

 長い前髪の奥で、眼窩から眼球が零れ、つう、と頬を滑り落ちる。


「わしは不具での……蓋をしておかねば、中身が零れてしもうて」


 眼球はメカクレの足許、雪に転がる枝の上へ落ちた。メカクレは無事な方の足を振り上げ、眼球を踏み潰した。素足の下で、ぐちゃり、湿った音が鳴った。

 刹那、夜空を閃光が貫き、数瞬遅れて地鳴りのような雷鳴が響いた。


 メカクレの身体が大きく反って空を仰ぎ、昏い眼窩から青磁色の蛇が顔を出した。

 蛇はその身体と同じ色の髪を掻き分けながら、天にも登る勢いで上方へ伸びる。同時に太さも増していき、ついには人間の胴ほどになった。

 尾が眼窩から引き抜かれ、メカクレの身体だったものが宙を舞う。

 大きな音を立て、大蛇おろちが腹から地面へ着地した。傍らへは半透明の薄皮がゆっくりと地面に落ちる。さしずめ〝人間の抜け殻〟といったところだった。髪の付いた頭部は左目を中心に大きく裂け、ねじれた胴と手足に着物が絡み付いている。


 闇の中、大蛇の体表は薄く油膜が張ったような硬い輝きで、青にも碧にも灰にも見えた。鱗のひとつひとつは人間の顔程もある。

 大蛇はとぐろを巻き、鎌首をもたげて狼人を睨め付けた。とぐろの高さは人狼の背丈ほどもあり、その更に上から牙を剥く口が見下ろす。狼人はまだ動かない。大蛇が大きく口を開けた瞬間やっと背を向け走り出したが、大蛇は一瞬で首を伸ばして狼人に食らいつき、同時に胴で巻き付いた。

 狼人の身体は宙高く巻かれて浮かび、大蛇の胴が締まると、ごり、と鈍い音が鳴り、狼人は血を吐き、動かなくなった。

 大蛇が巻く胴を緩めた。狼人の躰が抜け、雪上へ落ちた。大蛇もまたとぐろを解いてだらりと横たわった。

 蒼い雪の上に、二つの動かぬ躰と、一つの抜け殻。


 ややあって樹の影から荊凍ケイテが現れた。ゆっくりと大蛇に近付く。血の滴る腕を押さえながら、大蛇の頭を見る。夜より暗い瞳孔を、榛色の虹彩が細く囲む。蛇には瞼がない。睡っているのか身体を休めているだけか、はたまた――――


 大蛇の腹が一箇所、内側から棒で突いたように飛び出した。そのまま膨らみ続けて肉が裂け、血肉の隙間からメカクレの手が伸びた。手が裂け目を下へ下へと拡げていく。大きくなった隙間から、ずるり、メカクレの全身がまろび出た。すると大蛇の身体は急速にしぼみ、同時に干乾び、あとには巨大な抜け殻だけが残った。

 メカクレはよろめきながら〝人型の抜け殻〟へ近づくと着物を剥ぎ取って羽織り、雑に帯を結んだ。次に抜け殻の腕を引きちぎると、左目に当てて眼帯のように縛った。抜け殻からはミドリがするり抜け出して、慣れ親しんだ袖に潜り込む。荊凍ケイテがメカクレに歩み寄り、その肩へメカクレが靠れた。


 森は静寂を取り戻した。

 風が吹いても雪で枝を重くした針葉樹は葉音を立てず、獣の足音は厚い雪が吸い込み、遠い梟の声が沈黙を際立たせる。空は一番濃い藍色で、青白いシリウスが夜を一層寒くする。


 メカクレが荊凍ケイテの手を取り、破れた革手袋を脱がせると、指に伝う血を舐め始めた。青磁色の簾が血で汚れた手へ垂れ掛かり、その奥から、ぴちゃ、ちゅ、と微かな水音。

 手を掴む掌の冷たさと膚を這う舌の熱さが伝わる。荊凍ケイテの中に再び古い感触が蘇える――――肉、あの青猫の肉――――

 そうするうち、指への血流れは止まり、掌の傷口も凝固した血で半ば塞がった。メカクレが顔を離し、荊凍ケイテはメカクレの口に手を当てて吐息を確かめる。生温い風を浴びて荊凍ケイテの掌はじっとり湿っていった。


 静寂は長く続かなかった。谷底に落ちた鹿を鷹が啄むように、死はまた生を呼ぶ。たとえ鹿にまだ息があったとて、死は気配だけでも強く香る。


「やめろ、来るな!」

 いつの間にか狼人は元の姿へ戻っていた。獣ではなく人の声で叫ぶ。周囲の雪から次々小さな赤蛇が湧き、男の躰に纏わる。男の服は〝変身〟の際に弾け飛んだため、いまや帯の解けかけた着物と釦の飛んだシャツのみで、開いた胸元や裾から多くの蛇が潜り込んでいた。

 一匹が男の口へ頭を突っ込んだ。男がえづき、蛇を掴んで引き抜こうとするが虚しく、蛇はするすると身体を進めていく。

「なんだあれは。見た目はアカジムグリのようだが」

 ジムグリは地潜じむぐり、普段は土中に潜む小型の蛇で、藍空全土に分布する。通常、体色は茶褐色に黒斑点だが、北海道には朱赤の個体が多く、それらを俗にアカジムグリと呼ぶ。

「奴らは獣の雄に卵を産み付ける。今時分は土の中で睡っている頃合だが、わしの中身に当てられて目を醒ましたのであろう」

 蛇を窒息して顔を真赤にした男が、甲高い奇声を上げ、手を脚の間に伸ばして腿に絡む蛇を掴んだ。しかし別の蛇がするりと腕の間を抜け、へと進む。くぐもった呻き声を上げながら男が身を捩り、うつ伏せになると今度は腰のあたりを手で払いのけるような仕草を見せたが手は空を打つばかり。赤蛇の尾が腿の上で跳ね、すっと吸い込まれるように消えた。男の躰がびくんと一際大きく跳ねた。

「産み付ける、というのは……」

「上から下から卵を詰め込み、これが稀なる滋養に富んでおるので、獣は飲まず食わずで永らえる。溶けずに残った卵は獣の熱で孵り、仔は他の卵と獣の血肉を喰らって育つ」

「地面ではなく人間へ潜るということか。まるで活きた培養床だな。しかし何故、雌ではなく雄なんだ」

「理由は知らぬが」

 雪上でのたうち回る男は口の端から蛇の尾を垂らしていたが、お構いなしに二匹目、かと思うと三匹目、四匹目、と次々蛇が這入っていった。男は白目を向き、壊れた笛のような音を喉から漏らしている。捲れた着物の裾からは、尻尾が生えたかのように蛇の尾が飛び出している。尻尾しっぽの本数は見る間に増え、かと思うとに吸い込まれて消えていくものもあった。

「待てよ。雌の場合、前後を間違えると大変だ。生殖器には消化吸収の機能がないから卵が無駄になってしまうし、消化されず残った卵が腐れば敗血症で培養床が死にかねない。たしかに雄を狙う方が効率的かもしれないな」

 男の着物は大きくはだけ、合わせの隙間から除く鳩尾は、不自然に膨らんでいた。

 口には何本もの蛇が頭を突っ込んでいたが、一匹逆走して頭を出したと思うと、ずるり、と全身が姿を現した。ぬらぬらと粘液に塗れて光っている。続いてもう一匹出てきたが、一緒にいくつかの卵も絡まっていた。見ると男の腰の周りにも溢れた卵が散らばっていた。

 男は手足を投げ出し仰向けになっており、水揚げされてしばらく経った魚の如く、時折思い出したかのように跳ねる。最早ほとんど声も上げなくなっていた。かわりに、蛇が孔を出入りする水音が響く。

「赤蛇もそうだが、あの男はなんだったんだ」

「そうだのう……匂いから察するに、狼と人間の合いの子といったところか」

「弟もか」

「否、彼れはおそらく人の子」

 ぶちゅり。男が身悶え、腿のまわりに溢れていた卵が脚の下敷きになった。卵は細長い楕円形で、ゴムのような弾力がある。あるものは潰れて裂け目から卵液が溢れ、あるものは裂けないまでも中心で折れ曲がっていた。

「近付くでないぞ。雌に興味を示さぬ筈とは云え、今は気が立っておる」

 損ねた蛇が一匹、男の腹の上に陣取った。総排泄孔から、次々卵が溢れ落ちる。


 男の腹は、臨月の妊婦と見紛うほど膨れていた。



*****



 真暗な部屋、窓の外で稲妻が走った。一瞬光が射し、消え、轟音が響く。束の間の沈黙の後、遙か彼方の山中、樹々の間から細長い物が顔を出した。月明かりに照らされて青白く光るそれは、直ぐに消えた。

 室内に、かちゃり、金属の触れ合う音と衣擦れの音が響いた。それから障子を引く音がして、部屋の外から、わっと驚いたような男の声。

「あれ、将校さん、この暗い中どちらへ……すみませんねえ、未だ電気が付かなくて」

「お気になさらず。自然現象ですから仕方ありません。何より、お陰でが見れました」

「えっ。いいものとは、どういった……」

「仕事で急用が出来ましたので帰ります」

「あの、お泊りと伺っていましたが。それに、地震で鉄道が止まっております」

「車で来ていますので。いいお湯でしたよ。では」



*****



 静まり返った司令部の一角、医務室で紫晶華ショウカ荊凍ケイテの手に赤紫の軟膏を塗る。

紫雲膏シウンコウはあなたのものが一番良く効く」

「生薬をただ決められた分量使えばいいというのではなく、原料を選りすぐるのが大事よ。特にムラサキは自分で育てたものだから質がいいの」

 塗り終わるとガーゼを載せてその上から包帯を巻いていく。

「大蛇と人狼、これでは怪奇小説みたい…………探偵小説というよりは」

 荊凍ケイテは俯いた。脳裡に翻る瑠璃紺の髪、悪戯っぽく光る金の眼、仔猫のような―――

「私が伝染病調査班をこの件に関わらせていなければ、と思うかしら」

――――ような口が言ったことは。

「瑠璃雛菊は、刺激が欲しいと云っていました」

「……物騒ね」

「ぼくもそう云いました」

 包帯の端を留めた紫晶華ショウカは、包帯の上から荊凍ケイテの甲をとんっ、と叩いたら

荊凍ケイテ。貴方はなぜ、物騒なお友達と付き合っているのかしら」

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