四日目
漆 蛇の舌、蝙蝠の眼
窓のない部屋。
台に横たわる瑠璃雛菊は、既に血を拭き清められ、真新しい軍服を着ていた。首の傷も縫合されている。傍らに
がらんとした空間に、ひやり冷たい澱んだ空気。部屋はその用途の要請上、暖房を備えていなかった。
「解剖したがるんじゃないかと思っていたのよ」
「意味がありません。狼に噛み付かれたのも、階段から落ちる瞬間もはっきり見ました。南洋とは状況が違います。あのときはロブラについて分からないことだらけだった」
「そうね」
「人間の表皮は約二ミリ。その下はみな同様の皮下脂肪、骨格筋、内蔵。薄皮一枚の違いで人間はいつも大騒ぎです」
「モモンガを飼っている、と云ったことがあったと思います」
「ええ」
「名前はザフィアと言うのですが、実は三代目なのです」
「初代が死んだときは大層枕を濡らして、翌日の数学の試験は散々でした。しかしその次の日には、大学の入学祝いに同じ種類のモモンガを買ってもらう約束を祖母と取り付けました」
「何が云いたいの」
「貴方の勧めに従って、臨床ではなく衛生課を選んだのは賢明な判断だったようです」
少しの間を置いて、
「彼女は、立派に戦ったのかしら」
「一発も当たらなかったと思います」
「瑠璃雛菊は射撃訓練の成績が良かったわね。誰にでも得手不得手はあるものよ」
廊下は薄暗い。コンクリート床を叩く軍靴の音が響く。
「定山渓の毒瓦斯倉庫が怪しいと云ったわね。行く価値あるかしら」
「もっと有力な候補があれば別ですが、他に心当たりがありません。あまり大きな施設ではありませんし、憲兵か師団から兵を出せばすぐ制圧できるのでは」
「警察の装備では心許ないということ」
「さあ。戦力どうこうは専門外ですが、信用できる連中とも思えないだけです」
「そうね。ただ、他所を動かしておいて、行ってみたら無人でした、だと体裁が悪いわ。しかも情報の出処をおおっぴらにしにくいし。悪いのだけど、
「斥候ですか。経験ありませんよ。それこそ師団に頼めませんか」
「なにも敵兵の陣地へ忍び込んで詳細な戦力を把握せよ、ということではないの。軽く下見といったところで、使われていそうかくらいがわかればいいし、危ないと思ったら引き返していいわ」
「そういうの、貴方のお友達が得意ではないかしら――――彼に行ってもらってもいいのよ」
「得意と云えなくもありませんが。一人で出歩かせるわけにはいきませんから、当然ぼくも行きますよ。それに……
*****
「おかしい」
周囲は見渡す限りの樹々と雪で、人や獣の気配もない。積もった雪が音を吸い込むため辺りはしいんと静まりかえり、
「蛇の飼育指南書には、水槽にはいつでも水浴びできるよう水入れを置き、脱皮前には
胸まで湯に浸かりながら、
「蛇は真冬の屋外に連れ回すべしとも書いてあったかの」
「餌は与えすぎぬが吉とも書いてあった。君たち毎日食べて大丈夫か」
「
そう言うとメカクレは、湯船脇のナナカマドへ目を向けた。葉の落ちた枝から、鈴生りに連なった朱赤の房がぶら下がっている。枝と実には雪が積もる。
「あれは苦いだろう」
枝の上の雪が動いた。
獲物を手にしたメカクレはすぐに湯へどぼんと飛び込んで戻り、顔を上に向けるとシマエナガを放り込んだ。黒い尾羽根だけが口から飛び出す。
一瞬で為された捕食活動を見た
「流れを確認するぞ。本格的に動くのは日が落ちてからだ」
陽は真横から射し、長く伸びる樹の影が、雪上に蒼い縞模様を描いていた。宙をちらつく雪は、山吹色に光る綿。
「目指す毒瓦斯倉庫は、ここ、定山渓の奥にある。完成直前で終戦を迎えて、結局使われなかったが」
「奥とは云いつつ、定山渓鉄道の終点からさほど遠くない。あの辺りは温泉街だ。その近くに毒瓦斯を貯蔵しようとしていたと市民に知られれば体裁が悪いし、突貫工事で建てて放置されていたので劣化が著しく崩壊の虞れがある。そのため表向きは軍の演習場ということにして、周囲一帯を立入禁止にしてある」
語り終えた
目線を横に向けると、湯の傍には背の高いエゾマツが並んでいた。積もった雪で重たく頭を垂らし、湯の上へ庇のように伸びている。小さく風が吹き、再び雪塊が落ちた。
「それにしても良い湯だ。定山渓には上げ膳据え膳の温泉旅館も揃っているが、たまにはこういう野趣あふれる湯というのも乙ではないか。しかし創成川の座敷といい、君が思っていたよりこのあたりに詳しいのは驚きだ。実はよく来るのか」
「なに、それほど頻繁に訪れるわけではないが、長く生きていればその分、というだけ」
「そんなものか」
ざぱ。
「陽が沈みきる前に身支度をしよう」
*****
十六夜月が照らす山中。
綿のような雪が間断なく舞い落ち、空気を白く濁らせている。
「どうだ」
背の高いトドマツの傍らで、
「近くにはおらぬが、もう縄張りの中であろう。この木にも〝しるし〟が残っておる」
「となれば。そろそろ現れてもおかしくないはずだが……泳がされているのか。倉庫は視えるか」
「樹しか見えぬな」
「もう少し近付く必要がありそうだな。移動しよう」
「待て。少し先の樹に、人間が引っ掛かっておる」
*****
〝危険 不発弾有リ 演習場ニツキ立入禁止 陸軍北部統括隊〟
苔色の羽織は血で染まり、赤と緑、重なった補色が布を黒くしている。首には抉れた傷があり、雪で濡れた裂け目からは僅かに血が流れ続けている。男の真下、血で溶けた雪の窪みには拳銃が転がっていた。
身体を内側に折っているため
「男娼の間で、胸にパラフィンを注入し大きく見せることが流行している。男娼くずれのやくざ者といったところか。こんなところで何をしていたんだ」
樹上のメカクレが、柵の向こうの樹に移ろうと身を乗り出した。
「待て、柵を超えるな」
メカクレが動きを止め、
「この足跡を見ろ」
「もうこのあたりは既に狼の縄張りだと言ったな。では
「向こうも無駄に死体を増やして目立ちたくはないのだろう。このあたりは山菜採りなどで民間人が入ることもあるが、普通は立入禁止の柵を超えない。つまり、わざわざ侵入する者は敵の可能性が高い、というわけだ」
「して、どうする」
「ぼくたちはこれまで尾根に向かって登ってきた。この尾根を超えた先の谷底に毒瓦斯倉庫があるが、ここからでは尾根に阻まれて見えない。しかし、柵は建物を円形に囲んでいて、もう少し山頂方面へ進めば、柵が尾根を超えた先にある場所もある」
「だから、一度山頂方面に登り、山側から回り込んで尾根に登る。そこなら柵の手前から谷底を見下ろせる。その上、蝙蝠の射程だ。念の為柵から少し距離を取りながら進もう」
「まだ息があるようだが」
「この山奥でその出血量だ。いずれにせよ助からない。今日はモルヒネも一人分しかない。行くぞ」
歩く
*****
尾根を少し超えた立木も疎らな急斜面。柵から若干の距離を取ったエゾマツの樹、中程の枝にメカクレが潜む。少し先に舌を数度出し入れして言う。
「相変わらず縄張りの中ではあろうが、すぐ近くまでは来ておらん」
「そうか。狼が近づいたらすぐ教えてくれ。なにか視えるか」
「倉庫のような建物が見える」
「それだ。よくやった。他には……人影はあるか。灯りはついているか」
「人や狼の影は見当たらん。倉庫は暗いが、その裏が少し明るいかもしれん」
「管理棟だな。ここからだと倉庫の影に隠れてよく見えないかもしれないが、倉庫は隣の管理棟に繋がっていて、そこに医務室もある。灯りが漏れているなら人がいそうだ」
「とにかく人がいると分かっただけでも収穫だ。もう撤収してもいいかもしれない」
「であればこれは降ろして構わぬか。これを背負っておると動きにくくて叶わん」
メカクレの背には革ベルトで固定された木箱と、その下部に括り付けた金属製の筒があった。
「だめだ。持って帰るんだ。電池を替えてまた
「こいつを選んだとき、面白いものがあると言われて一緒に取り寄せたのだが、まさか本当に役立つときが来るとは」
メカクレの手元にも、同じ型の銃があった。しかし
「人間は奇妙な
メカクレは銃を片手で掴み上げてスコープを覗き込んだ。
「奇妙ではない。先ほども説明したがこれは赤外線ランプとスコープの暗視装置。通称
「こんなときに地震とは間が悪いな。大丈夫か」
再び
「どうした。怪我でも」
メカクレは無言で
メカクレが大きく跳躍し、着物の裾がぶわりと空気を孕んだ。森の切れ目、跳んだ先には青い蒲鉾屋根。肩に担ぐ
「そうでもないぞ」
獣の唸り声が響いた。
「柵を超えたからな……」
「森の奥に男が一人と狼が一匹。こちらへ近づいて来よる」
「こちらの狼を片付ける前に着きそうか」
「お主の銃が早かろう。しかしその後が問題。雪崩で足元が荒れておるし、登れる樹も減ってしもうた。狼の足から逃れられるかどうか」
「メカクレ、
「一か八かだ……狙撃は得意ではないのだが」
「いない!どこだ!」
メカクレも顔を寄せ、頬で
「もう少し下かのう……そう、そのあたり」
「樹の陰に引っ込んだが、狙撃を恐れて迂闊に動けないはずだ。足止めにはなるだろう」
「よし、森に入って風下へ」――――
倉庫内には廃材や棚が並んでおり、メカクレが床へ落ちると同時に周囲の廃材が倒れ、彼の上に降り注いだ。
崩壊が収まった後、メカクレは瓦礫の山から上半身を出したが、右手の手首から先がなかった。
倉庫の中に銃声が響いた。まずメカクレの胸に一発。メカクレが口からごぷりと血を吐いた。二発目。メカクレの髪を掠めて壁に当たった。三発目が首に命中した。首はがくんと横に倒れて落ちたと見えたが、辛うじて皮膚一枚でぶら下がった。
倉庫の奥の廊下から、小銃を構えた一人の少年が現れた。
千切れた手首が、
「やめろ!」
「来るな!」
手首が頸まで辿り着いた。指先がゆっくりと膚へ沈む。
「なんで、まだ、うご、いて」
細い頸が締め上げられ、
破れた天井からは月灯りが差し込んでいる。
月光を帯びて一層生白い頸と、血の気のない手首は、まるで一体とも錯覚するようだった。ただ、その境に滲む血が、二つの持ち主は別者であると主張していた。赤い境界線は段々と太くなり、喉の音も止み、
青白い光が二つの動かぬ躰を照らす。
コンクリートの床に仰向けの小さな骸、瓦礫に
沈黙も束の間、すぐに天井が騒がしくなった。がしゃ、どご、と音を立て、
「生きているか」
それまで微動だにしなかったメカクレの躰が、ぴくり動いた。残った右手が、文字通り首の皮一枚で繋がった自身の頭を掴むと、首の上へ据える。手首のない左腕は瓦礫を掻き分け、瓦礫の隙間から本体が抜け出した。
自由の身になったメカクレが、右手で頭を支えながら
「早う」くぷ。「縫うて」ぬちゅ。「くれ」
首はメカクレが動く度に端が浮いて糸を引き、隙間からは声に合わせて泡が立つ。
「ぐらぐらして」ぴゅ「かなわん」
「頭と……手首はあるか」
「円山の杜に来ていた子じゃないか」
メカクレは
「まずは首だ」
靭帯の縫合に使う太い糸を選んで針に通すと、筋肉ごと頸の皮膚を縫い始めた。針は深く潜り、顔を出し、を繰り返す。
「モルヒネは効かないから打たない」
メカクレは言葉を発さず、沈黙の中で
「要らんて」
今度の声に水音は混ざっていなかった。
再度の沈黙の中で
「首も中々だったが断面の具合はこちらの方が酷いな。瓦礫に潰されたのだろうが、果たして綺麗に付くか」
「おそらくは」
メカクレの視線は
「肉が足りない」
「構わぬ」
「結果は保証は出来ないが。こちらも外側だけで大丈夫か」
「うむ」
「分かった。自分で持っていてくれ」
メカクレが手首を支え、
「これが一等効く」
メカクレが口を大きく開け、
痺れた皮膚に伝わる生温い口内の感触。血の気のない腕は死人のように冷たいのに、口の中は妙に熱い。
ある冬の夜明け前。
家中を探し回っても見つからず、
曙の光が差し込み、
毛皮についた血は、既に凍っていた。
「終わったぞ」
息。湿気を帯びた、生温い、微風。
血と唾液で濡れた頸がひやり冷える。
メカクレの荒い呼吸音だけが響く倉庫内に、硝子の割れる鋭い音が飛び込んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます