四日目

漆 蛇の舌、蝙蝠の眼

 窓のない部屋。

 台に横たわる瑠璃雛菊は、既に血を拭き清められ、真新しい軍服を着ていた。首の傷も縫合されている。傍らに荊凍ケイテ紫晶華ショウカが立ち、物言わぬ躰を見下ろす。

 がらんとした空間に、ひやり冷たい澱んだ空気。部屋はその用途の要請上、暖房を備えていなかった。


「解剖したがるんじゃないかと思っていたのよ」

 紫晶華ショウカが顔を上げ、向かいに立つ荊凍ケイテへ声を掛けた。荊凍ケイテが俯いたまま返す。

「意味がありません。狼に噛み付かれたのも、階段から落ちる瞬間もはっきり見ました。南洋とは状況が違います。あのときはロブラについて分からないことだらけだった」

「そうね」

 荊凍ケイテはぼんやりと瑠璃雛菊の顔を眺め続ている。視線は次に身体へ。その眼は瑠璃雛菊の身体を透かして見ていた。

「人間の表皮は約二ミリ。その下はみな同様の皮下脂肪、骨格筋、内蔵。薄皮一枚の違いで人間はいつも大騒ぎです」

 紫晶華ショウカは黙って荊凍ケイテの顔を見詰めている。

「モモンガを飼っている、と云ったことがあったと思います」

「ええ」

「名前はザフィアと言うのですが、実は三代目なのです」

 荊凍ケイテは俯いたまま話し続ける。その声は低く小さい。

「初代が死んだときは大層枕を濡らして、翌日の数学の試験は散々でした。しかしその次の日には、大学の入学祝いに同じ種類のモモンガを買ってもらう約束を祖母と取り付けました」

「何が云いたいの」

「貴方の勧めに従って、臨床ではなく衛生課を選んだのは賢明な判断だったようです」

 少しの間を置いて、紫晶華ショウカがゆっくりと口を開いた。

「彼女は、立派に戦ったのかしら」

 荊凍ケイテが漸く顔を上げた。「ぼくなら」一呼吸置いて続ける。

「一発も当たらなかったと思います」

「瑠璃雛菊は射撃訓練の成績が良かったわね。誰にでも得手不得手はあるものよ」


 紫晶華ショウカは戸棚から白布を取り出すと、瑠璃雛菊の身体へ掛けた。部屋を出る。荊凍ケイテも後に続く。


 廊下は薄暗い。コンクリート床を叩く軍靴の音が響く。

「定山渓の毒瓦斯倉庫が怪しいと云ったわね。行く価値あるかしら」

「もっと有力な候補があれば別ですが、他に心当たりがありません。あまり大きな施設ではありませんし、憲兵か師団から兵を出せばすぐ制圧できるのでは」

「警察の装備では心許ないということ」

「さあ。戦力どうこうは専門外ですが、信用できる連中とも思えないだけです」

 荊凍ケイテが周囲を見廻した。近くに人影はない。廊下の突き当りは丁字路になっており、軍服の人間が横切った。

「そうね。ただ、他所を動かしておいて、行ってみたら無人でした、だと体裁が悪いわ。しかも情報の出処をおおっぴらにしにくいし。悪いのだけど、ず様子を伺ってきてくれないかしら」

「斥候ですか。経験ありませんよ。それこそ師団に頼めませんか」

「なにも敵兵の陣地へ忍び込んで詳細な戦力を把握せよ、ということではないの。軽く下見といったところで、使われていそうかくらいがわかればいいし、危ないと思ったら引き返していいわ」

 紫晶華ショウカが足を止めた。声を顰めて続ける。

「そういうの、貴方のお友達が得意ではないかしら――――彼に行ってもらってもいいのよ」

「得意と云えなくもありませんが。一人で出歩かせるわけにはいきませんから、当然ぼくも行きますよ。それに……もあります」



*****



「おかしい」

 周囲は見渡す限りの樹々と雪で、人や獣の気配もない。積もった雪が音を吸い込むため辺りはしいんと静まりかえり、荊凍ケイテの呟きが妙に大きく聞こえた。

「蛇の飼育指南書には、水槽にはいつでも水浴びできるよう水入れを置き、脱皮前には微温湯ぬるまゆで温浴させるのが良いとあった。然し、毎日風呂に入れろとは書いていなかった。昨日も一昨日も家で風呂に入れたのだが……」

 胸まで湯に浸かりながら、荊凍ケイテが呟いた。半歩離れて浅い湯があり、そちらにはメカクレが全身沈んでいる。光の反射で見えにくいがミドリも一緒である。どちらの湯も周縁にごつごつとした岩を積んだ、屋根もない簡素なものである。ざぶり。メカクレが湯から顔だけ出した。

「蛇は真冬の屋外に連れ回すべしとも書いてあったかの」

 荊凍ケイテは腕を伸ばして指先を浅い方の湯へ浸し「こちらは微温ぬるいな。浅い分冷めやすいのだろう」、再び独り言。またメカクレに向き直ると「そういえば」と声を掛けた。

「餌は与えすぎぬが吉とも書いてあった。君たち毎日食べて大丈夫か」

うも寒いのに動き回るので腹が減って仕様がない」

 そう言うとメカクレは、湯船脇のナナカマドへ目を向けた。葉の落ちた枝から、鈴生りに連なった朱赤の房がぶら下がっている。枝と実には雪が積もる。

「あれは苦いだろう」

 枝の上の雪が動いた。いや、シマエナガだった。白い毛で覆われたまあるい身体をぴょこぴょこ跳ね回らせ、目当ての木の実へ近付く。メカクレがざぱりと湯を飛び出した。素早く樹へ登り、あっという間にシマエナガを手に捉えた。

 獲物を手にしたメカクレはすぐに湯へどぼんと飛び込んで戻り、顔を上に向けるとシマエナガを放り込んだ。黒い尾羽根だけが口から飛び出す。

 一瞬で為された捕食活動を見た荊凍ケイテは、あっと声を上げたが、すぐ「まあいい」と話しはじめた。

「流れを確認するぞ。本格的に動くのは日が落ちてからだ」

 陽は真横から射し、長く伸びる樹の影が、雪上に蒼い縞模様を描いていた。宙をちらつく雪は、山吹色に光る綿。

「目指す毒瓦斯倉庫は、ここ、定山渓の奥にある。完成直前で終戦を迎えて、結局使われなかったが」

 荊凍ケイテが語る間、メカクレは湯に潜り細長い手足を自由にくねらせ遊ばせる。彼の身体は凹凸が少なく、両脚の間もとしていた。ぱちゃり、ぽちゃり、水音が鳴り、止み、どぷんと頭が沈む音。

「奥とは云いつつ、定山渓鉄道の終点からさほど遠くない。あの辺りは温泉街だ。その近くに毒瓦斯を貯蔵しようとしていたと市民に知られれば体裁が悪いし、突貫工事で建てて放置されていたので劣化が著しく崩壊の虞れがある。そのため表向きは軍の演習場ということにして、周囲一帯を立入禁止にしてある」

 語り終えた荊凍ケイテが、ふう、と一息ついた。合いの手を入れるように、ぽちゃり、雪が湯に落ちる音。空を見上げれば、天辺てっぺんはまだ青い。脳裏に浮かぶ青――雪に広がった瑠璃紺の髪と見下ろす彫像の藍の髪――身体は熱い湯に浸かっているのにぶるりと身震いした。

 目線を横に向けると、湯の傍には背の高いエゾマツが並んでいた。積もった雪で重たく頭を垂らし、湯の上へ庇のように伸びている。小さく風が吹き、再び雪塊が落ちた。荊凍ケイテは頭を振って残影を追い出した。

「それにしても良い湯だ。定山渓には上げ膳据え膳の温泉旅館も揃っているが、たまにはこういう野趣あふれる湯というのも乙ではないか。しかし創成川の座敷といい、君が思っていたよりこのあたりに詳しいのは驚きだ。実はよく来るのか」

「なに、それほど頻繁に訪れるわけではないが、長く生きていればその分、というだけ」

「そんなものか」


 ざぱ。荊凍ケイテが立ち上がった。夕日が濡れた躰を照らす。幅のある肩と腰、全身鍛えられた筋肉の上にうっすら柔らかな脂肪が乗っている。厚い胸筋にわずかな覆いを載せた固い印象の胸は、堂々と張って上を向く。

 荊凍ケイテはふと自分の躰を見下ろすとびくり、と震えた。臍のあたりに血――――ではない。夕陽の濃い橙を血と錯覚したのであった。先程見た、白い肌を覆う本物の血が重なり、頭を振って追い払った。

「陽が沈みきる前に身支度をしよう」



*****



 十六夜月が照らす山中。

 綿のような雪が間断なく舞い落ち、空気を白く濁らせている。

「どうだ」

 背の高いトドマツの傍らで、荊凍ケイテが白い息を吐いて頭上に声を掛けた。斜上する枝に阻まれ、荊凍ケイテからその姿は見えないが、樹の上方、梢に近い場所の枝にメカクレが伏せていた。数度舌を出し入れし、答える。

「近くにはおらぬが、もう縄張りの中であろう。この木にも〝しるし〟が残っておる」

 荊凍ケイテは樹の根元をちらりと見た。

「となれば。そろそろ現れてもおかしくないはずだが……泳がされているのか。倉庫はか」

「樹しか見えぬな」

「もう少し近付く必要がありそうだな。移動しよう」

「待て。少し先の樹に、人間が引っ掛かっておる」



*****



 〝危険 不発弾有リ 演習場ニツキ立入禁止 陸軍北部統括隊〟


 荊凍ケイテの眼前には注意書きの看板。天辺に有刺鉄線を備えた柵へ、針金で括り付けてある。荊凍ケイテが頭を上げると、柵を超えてすぐの冬枯れの枝に、干された布団のように胴を半分に折った男がぶら下がっていた。

 苔色の羽織は血で染まり、赤と緑、重なった補色が布を黒くしている。首には抉れた傷があり、雪で濡れた裂け目からは僅かに血が流れ続けている。男の真下、血で溶けた雪の窪みには拳銃が転がっていた。

 身体を内側に折っているため荊凍ケイテからは見えにくかったが、胸元にも爪で裂かれたような跡があり、首から肩、はだけた胸元には刺青が入っていた。しかし荊凍ケイテの目は、胸がわずか膨らんでいることにも気付いた。

「男娼の間で、胸にパラフィンを注入し大きく見せることが流行している。男娼くずれのやくざ者といったところか。こんなところで何をしていたんだ」

 樹上のメカクレが、柵の向こうの樹に移ろうと身を乗り出した。荊凍ケイテが声を掛けた。

「待て、柵を超えるな」

 メカクレが動きを止め、荊凍ケイテを見下ろす。

「この足跡を見ろ」

 荊凍ケイテが指差した先には、山の奥へ続く人間の足跡と、ほとんど重なるようにして引き返す足跡、それから複数の獣が追う足跡があった。

「もうこのあたりは既に狼の縄張りだと言ったな。では何故なぜ狼が襲ってこないか。理由はおそらくこの柵だ」

 荊凍ケイテが左右を見回す。柵は緩く弧を描きながら左右に伸び、先は木立の中へ消えている。

「向こうも無駄に死体を増やして目立ちたくはないのだろう。このあたりは山菜採りなどで民間人が入ることもあるが、普通は立入禁止の柵を超えない。つまり、わざわざ侵入する者は敵の可能性が高い、というわけだ」

「して、どうする」

 荊凍ケイテが懐から地図を出した。指で紙面をなぞりながら言う。

「ぼくたちはこれまで尾根に向かって登ってきた。この尾根を超えた先の谷底に毒瓦斯倉庫があるが、ここからでは尾根に阻まれて見えない。しかし、柵は建物を円形に囲んでいて、もう少し山頂方面へ進めば、柵が尾根を超えた先にある場所もある」

 荊凍ケイテは地図を仕舞うと、腰で銃を構え、左右を見回しながら歩き出した。

「だから、一度山頂方面に登り、山側から回り込んで尾根に登る。そこなら柵の手前から谷底を見下ろせる。その上、の射程だ。念の為柵から少し距離を取りながら進もう」

 荊凍ケイテは柵から距離を取りつつ、山頂方面へ歩き出した。メカクレは荊凍ケイテの後を追いすがら、枝にぶら下がる男を一瞥した。胸が微かに上下している。

「まだ息があるようだが」

「この山奥でその出血量だ。いずれにせよ助からない。今日はモルヒネも一人分しかない。行くぞ」

 歩く荊凍ケイテが身震いした。山が深まるにつれ、空気もその冷たさを増していた。



*****



 尾根を少し超えた立木も疎らな急斜面。柵から若干の距離を取ったエゾマツの樹、中程の枝にメカクレが潜む。少し先に舌を数度出し入れして言う。

「相変わらず縄張りの中ではあろうが、すぐ近くまでは来ておらん」

「そうか。狼が近づいたらすぐ教えてくれ。なにかか」

「倉庫のような建物が見える」

 荊凍ケイテがよし、と声を上げた。

「それだ。よくやった。他には……人影はあるか。灯りはついているか」

「人や狼の影は見当たらん。倉庫は暗いが、その裏が少し明るいかもしれん」

「管理棟だな。ここからだと倉庫の影に隠れてよく見えないかもしれないが、倉庫は隣の管理棟に繋がっていて、そこに医務室もある。灯りが漏れているなら人がいそうだ」

 荊凍ケイテが地図を広げながら、位置関係を確認する。

「とにかく人がいると分かっただけでも収穫だ。もう撤収してもいいかもしれない」

「であればこれは降ろして構わぬか。これを背負っておると動きにくくて叶わん」

 メカクレの背には革ベルトで固定された木箱と、その下部に括り付けた金属製の筒があった。

「だめだ。持って帰るんだ。電池を替えてまた使つか――――いや、また使う機会があるかはわからないが」

 荊凍ケイテが手元の銃を指でつつきながら続ける。

「こいつを選んだとき、面白いものがあると言われて一緒に取り寄せたのだが、まさか本当に役立つときが来るとは」

 メカクレの手元にも、同じ型の銃があった。しかし荊凍ケイテのものと異なり上部にスコープを備えており、さらにその上には掌大のガラス面を前方に向けたランプが載っている。ランプの後部からはケーブルが伸び、背中の装置に繋がる。

「人間は奇妙な絡繰からくりを思いつくのう」

 メカクレは銃を片手で掴み上げてスコープを覗き込んだ。

「奇妙ではない。先ほども説明したがこれは赤外線ランプとスコープの暗視装置。通称、蝙蝠バンピールマムシの真似事といったところか」

 荊凍ケイテが樹上を見上げ「ぼくも見てみたい。そこまで登れるだろうか」と言ったところで、枝々が小刻みに揺れはじめた。雪の積もったエゾマツの枝が揺れ、雪が落ちていく。地面も揺れだした。荊凍ケイテは樹の幹に捕まり、足を滑らせぬよう両脚に力を込める。暫しそうして凌ぐ内、揺れは収まり、荊凍ケイテはふう、と溜息を付いた。

「こんなときに地震とは間が悪いな。大丈夫か」

 再び荊凍ケイテが見上げると、メカクレが飛び降りてきた。

「どうした。怪我でも」

 メカクレは無言で荊凍ケイテを抱え上げ、米俵のように肩へ担ぐと、樹によじ登った。そのまま樹から樹に飛び移る。荊凍ケイテはメカクレの背で大きく身体を揺さぶられながらも顔を上げ、上方の斜面を見ると、「地面の雪が小刻みに震えている」と思った。次いで、地底から響くような轟音――――細い白樺の若木が根本から折れ、雪に呑まれるのが見えた。荊凍ケイテがハッと息を呑んだ。視界一面、雪の波が二人の方へ向かっている――――雪崩だ――――〝波〟はすぐ近くまで迫っていた。見れば雪に呑まれて折れる木もあれば折れぬ木もある、今いるこの樹は、果たして次の樹は――――

 メカクレが大きく跳躍し、着物の裾がぶわりと空気を孕んだ。森の切れ目、跳んだ先には青い蒲鉾屋根。肩に担ぐ荊凍ケイテの身体も大きく揺れる。荊凍ケイテの胃が縮み上がり、ひゅう、と息を呑んだ。メカクレは大きな衝撃とともに倉庫の屋根に着地した。荊凍ケイテは額を木箱に打ち付け、小さなうめき声を上げた。雪崩はいくらか倉庫の外壁にあたり、倉庫がぐらりと揺れた。しかし、雪が当たったのは地面に近い部分のみで、屋根の上までは届かなかった。先の地震で雪が落ちたのか屋根の上にほとんど雪はなかった。

 荊凍ケイテはメカクレの肩から降り、頭に被った雪をほろいながら「助かった」

「そうでもないぞ」

 獣の唸り声が響いた。荊凍ケイテが倉庫の下を覗き込むと、周囲に狼が集まっていた。

「柵を超えたからな……」

 荊凍ケイテが下へ向けて銃を構えた。メカクレも肩の銃を握り、スコープを覗き込む。

「森の奥に男が一人と狼が一匹。こちらへ近づいて来よる」

 荊凍ケイテの顔が引き攣った。

「こちらの狼を片付ける前に着きそうか」

「お主の銃が早かろう。しかしその後が問題。雪崩で足元が荒れておるし、登れる樹も減ってしもうた。狼の足から逃れられるかどうか」

 荊凍ケイテは右肩に担いでいた自分の銃を左に掛け直した。

「メカクレ、蝙蝠バンピールをこちらへ」

 蝙蝠バンピール付きの銃を受け取ると、右肩に掛けて構えた。

「一か八かだ……狙撃は得意ではないのだが」

 荊凍ケイテがスコープを覗き込む。黒い背景の中、緑一色の濃淡で樹々が浮かび上がる。

「いない!どこだ!」

 メカクレも顔を寄せ、頬で荊凍ケイテの顔を押しやりスコープの端を覗き見る。

「もう少し下かのう……そう、そのあたり」

 荊凍ケイテがメカクレの指示通りに銃を動かすと、スコープの中に狼を従えた男が現れた。引鉄を絞ると、銃口が放つ閃光で夜闇が一瞬ぱっと晴れる。明滅が四度繰り返されたのち、荊凍ケイテは顔を上げて「狼に一発、男はわからん!」と叫んだ。

「樹の陰に引っ込んだが、狙撃を恐れて迂闊に動けないはずだ。足止めにはなるだろう」

 荊凍ケイテは次に銃を建物の下に向けた。銃を水平に薙ぐよう動かし、群がる狼に端から銃弾を叩き込んでいく。銃口から放たれる閃光で辺りがパッと明るくなった。すぐにすべての狼が動かなくなった。荊凍ケイテは屋根の端、森に近い方へ這い進んだ。

「よし、森に入って風下へ」――――

 荊凍ケイテの言葉を遮って大きな音が鳴り、屋根の一部――ちょうどメカクレの座る場所――が抜けた。メカクレは辛うじて右腕一本で捕まったが、掴む屋根板は今にも落ちそうに揺れる。左手を屋根に掛け登ろうとした瞬間、下方、倉庫内で音と光が炸裂し、階下に落下した。

 倉庫内には廃材や棚が並んでおり、メカクレが床へ落ちると同時に周囲の廃材が倒れ、彼の上に降り注いだ。

 崩壊が収まった後、メカクレは瓦礫の山から上半身を出したが、右手の手首から先がなかった。


 倉庫の中に銃声が響いた。まずメカクレの胸に一発。メカクレが口からごぷりと血を吐いた。二発目。メカクレの髪を掠めて壁に当たった。三発目が首に命中した。首はがくんと横に倒れて落ちたと見えたが、辛うじて皮膚一枚でぶら下がった。


 倉庫の奥の廊下から、小銃を構えた一人の少年が現れた。青波あおなみ――円山でヤマネを見たと主張した少年であった。メカクレの傍まで歩み寄り様子を確認する。下半身は瓦礫に埋もれたまま、上半身は仰向けに倒れており、首から流れる血以外はぴくりとも動かない。青波あおなみはふぅ、と息をついたが、すぐに躰を仰け反らせて後退あとずさり、ひいっ、と上擦った声を上げた。

 千切れた手首が、青波あおなみの足首にしがみついていた。

「やめろ!」

 青波あおなみが銃口で手首を突き回すが、手首は一向構わず指を動かし、青波あおなみの身体を這い上がる。断面から滴る血で白波の服や膚に跡を残しながら。青波あおなみが足元へ向けて一発撃つ。甲高い音が響きコンクリートの床に小さな孔が穿たれた。手首はもう腰まで来ている。青波あおなみは瓦礫に半分埋もれたメカクレの身体へ一発撃った。肩に当たり、身体が一瞬跳ねたがその後は動かぬま。一方、手首は止まらず、青波あおなみの胸によじ登る。

「来るな!」

 青波あおなみは手首を掴んで引き剥がそうとするが、手首は止まらない。銃のボルトを引く。薬莢が飛び出す。すぐボルトを押し込むが手応えが軽い――――弾切れである。ポケットから銃弾を取り出したが、震える手が取り落とした。

 手首が頸まで辿り着いた。指先がゆっくりと膚へ沈む。青波あおなみは悲鳴を上げて駆け出したが、すぐに躓き倒れた。喉からひゅうひゅうと音を漏らしながら、細い声で言う。

「なんで、まだ、うご、いて」

 細い頸が締め上げられ、青波あおなみの顔は真っ赤になった。軟組織の潰れる音が鳴り、血の泡が口のから零れた。


 破れた天井からは月灯りが差し込んでいる。

 月光を帯びて一層生白い頸と、血の気のない手首は、まるで一体とも錯覚するようだった。ただ、その境に滲む血が、二つの持ち主は別者であると主張していた。赤い境界線は段々と太くなり、喉の音も止み、つい青波あおなみは動かなくなった。


 青白い光が二つの動かぬ躰を照らす。

 コンクリートの床に仰向けの小さな骸、瓦礫にうずまる生首垂らした半身はんみ


 沈黙も束の間、すぐに天井が騒がしくなった。がしゃ、どご、と音を立て、荊凍ケイテが天井の穴から廃材を伝って降りてくる。

「生きているか」

 それまで微動だにしなかったメカクレの躰が、ぴくり動いた。残った右手が、文字通り首の皮一枚で繋がった自身の頭を掴むと、首の上へ据える。手首のない左腕は瓦礫を掻き分け、瓦礫の隙間から本体が抜け出した。

 自由の身になったメカクレが、右手で頭を支えながら荊凍ケイテのもとへ向かう。

「早う」くぷ。「縫うて」ぬちゅ。「くれ」

 首はメカクレが動く度に端が浮いて糸を引き、隙間からは声に合わせて泡が立つ。

「ぐらぐらして」ぴゅ「かなわん」

「頭と……手首はあるか」

 荊凍ケイテが周囲を見廻し、メカクレの左手首と、次いでそのすぐ上、青波あおなみの顔に目を留めた。

「円山の杜に来ていた子じゃないか」

 メカクレは青波あおなみに歩み寄り、頭が落ちぬよう右手で支えながら屈み込むと、自らの手首へ噛み付いて剥ぎ取った。そのまま近くの廃材に凭れて座り込む。

 荊凍ケイテもメカクレの隣に座ると「今は先に縫合だな」と言い、腰の軍医携帯嚢からガーゼを取り出して床へ広げると、メカクレの口から手首を取り上げ、ガーゼの上へ置いた。

「まずは首だ」

 靭帯の縫合に使う太い糸を選んで針に通すと、筋肉ごと頸の皮膚を縫い始めた。針は深く潜り、顔を出し、を繰り返す。

「モルヒネは効かないから打たない」

 メカクレは言葉を発さず、沈黙の中で荊凍ケイテが手を進める。粗方縫い終わったところでメカクレが口を開いた。

「要らんて」

 今度の声に水音は混ざっていなかった。


 再度の沈黙の中で荊凍ケイテの針は進み、首を一周し終えた。

 荊凍ケイテはよし、と呟き、ガーゼから手首を取り上げて眺めた。断面は歪み、肉は削がれて骨が露出していた。

「首も中々だったが断面の具合はこちらの方が酷いな。瓦礫に潰されたのだろうが、果たして綺麗に付くか」

「おそらくは」

 メカクレの視線は荊凍ケイテの首元へ注がれていた。荊凍ケイテは俯きながら腕側と手側、双方の断面を弄くり回して砂利を取り除き、形を整えている。

「肉が足りない」

 荊凍ケイテが手首を腕に宛てがって見せた。一部は抉れて肉が剥き出しになっている。

「構わぬ」

「結果は保証は出来ないが。こちらもだけで大丈夫か」

「うむ」

「分かった。自分で持っていてくれ」

 メカクレが手首を支え、荊凍ケイテが縫い進める。半分ほど進んだところで、メカクレが荊凍ケイテの首元に顔を寄せた。鋭い毛先が荊凍ケイテの膚を刺激する。

「これが一等効く」

 荊凍ケイテは一瞬手を止めたが、自らの手元から目は逸らさず、すぐに無言で縫合を再開した。

 メカクレが口を大きく開け、荊凍ケイテの頸へ牙を沈めた。じゅる、じゅる、と音を立て血を吸う。その間も荊凍ケイテの手は動き続けた。


 痺れた皮膚に伝わる生温い口内の感触。血の気のない腕は死人のように冷たいのに、口の中は妙に熱い。荊凍ケイテはふと幼い頃飼っていた猫を思い出した。



 ある冬の夜明け前。荊凍ケイテがふと目を覚ますと、一緒に寝た筈の猫がいなかった。


 家中を探し回っても見つからず、荊凍ケイテは庭に出た。東雲の空の下、地上は前夜の雪ですべて覆われ、真っ青な世界の中を、外套でまあるく着膨れた童女が歩く。

 荊凍ケイテは庭の隅に植わる、葉に厚く雪を載せたトドマツへ近付いた。根の周囲は樹の発する熱で雪が浅いため、穴のように落ち窪んでいる。果たして猫はその窪みの中で死んでいた。ブルー・グレーの毛並みに枝葉が影を落としている。荊凍ケイテは猫を根元から引き上げ、新雪の上へ横たえた。首や胸へ触れても、小動物特有の速い鼓動は既に失せていた。猫の鼻先は乾き、指を当てても呼吸は感じなかった。

 荊凍ケイテは一度家に戻ると部屋からメスを持ち出し、再びトドマツの前へ立った。猫の上へ屈み込み、メスを毛皮に刺し入れる。肉を切り開くと、湯気が立ち昇った。荊凍ケイテは指を切れ目に差し込んだ。雪にまみれた毛皮の表面は冷たかったが、肉の中は温かく、血がぬるりと指に纏わった。

 曙の光が差し込み、荊凍ケイテの目を一瞬眩ませた。手を抜き出してくうにかざすと、真っ青な雪景色の中、指先が赤く照らされる。束の間ぼうっと眺めていると、ひゅうと風が吹き、地吹雪が舞った。たちまち指は凍え、また猫に手を差し込んでみたが、先ほどよりは温かくなかった。

 毛皮についた血は、既に凍っていた。



「終わったぞ」

 荊凍ケイテが声を掛けると、メカクレが頸から口を離した。薄赤混じる透明な液体が糸を引く。メカクレが息をついた。


 息。湿気を帯びた、生温い、微風。

 血と唾液で濡れた頸がひやり冷える。

 荊凍ケイテはメカクレの首元へ手を当てた。傷口の一部には薄皮が張り始めている。鼓動は、普段より強く速かった。


 メカクレの荒い呼吸音だけが響く倉庫内に、硝子の割れる鋭い音が飛び込んだ。青波あおなみの来た廊下からだった。

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