三日目
陸 青い髪
「ここを曲がった先に『羊蹄』という会議室がありまして、
「お気遣いありがとうございます」
元来た道を戻る瑠璃雛菊を見送り、背広に中折れ帽の男が足音を立てず歩き出した。廊下は薄暗い。褐色肌の上、耳下で切り揃えた鬱金色の髪が鈍く光る。髪と同じ色の瞳で周囲を見回し、壁に掲げられた札を確認しながら進む。まず「大雪」。それから「羅臼」、「藻岩」、「羊蹄」。
男は足を止め、腕時計を確認した。ゆっくり左右を見る。人影はない。そうっと扉に耳を当てた。
扉の内側。窓を背にして紫髪の女将校が机に向かう。机上には筆文字で「違法妊婦スナッフ・フィルム調査報告書」と題し、綴紐で綴じた冊子が置いてあった。正面には
「定山渓の毒瓦斯倉庫跡、ね」
「はい。あそこなら周りに狼を遊ばせておけますし、
「でも、犯人は
「
「戦中は重要機密扱いでしたが、今は崩落の
「そういうことね」
一瞬間を置き、
「
「ご褒美がまだです」
「駄目よ。もう少しで約束の時間」
ぼおぅん、と壁時計が鳴り、ほぼ同時にノックの音。
「どうぞ」と
「
「お仕事を邪魔して悪かったわね。座ってちょうだい」
とんでもございません、と変わらない作り笑いで男が返し、長杖の前に座った。
再びノックの音と、今度は瑠璃雛菊が、失礼します、と一声掛けて入室した。男の前と
湯呑みから立ち昇る香りを吸い、龍市朗は軽く眉を顰めた。
「
「はあ。薬草茶ですか。たしか少佐は南洋で漢方をロブラ治療に応用して成果を挙げられたとか……」
「甘くて美味しいですよ」瑠璃雛菊が挟んだ。
怪訝そうな顔のまま龍市朗が湯呑みを口へ運んだ
「苦いが言われてみれば微かに甘い」
「失礼いたしました」と言い残して瑠璃雛菊が部屋を出た。扉が閉まるのを待って
「ところで、捜査の進展はどんな具合かしら」
「フィルムの所持者を洗っても埒が開きませんので、違法妊婦かその疑いがある、行方知れずの女を探っております。
「もっと犯人心理を分析すべしという連中もおりますが、あれは最早人と云うより化物の所業。心中なぞ推測しても徒労に終わりましょう。其れより物理的な証拠に目を向けるべきです」
「物理的な証拠なんてあったかしら。死体はまだ一つも見付かっていなかった筈」
「はい。ですので最大の物証たるフィルムの中身を実際的に検討すべきかと。場所は病院のようで、その上犯人は医術の心得があると見える。と来ればこれは〝医者〟の仕業ではないかという者もおります」
龍市朗は「医者」という単語を強く発音し語った。ぼんやり
「莫迦莫迦しいな。押収したフィルムはすべて見たがどれも大した手技ではない。この報告書にもそう書いた」
「点滴程度なら看護師でも出来るし、針が血管に入ればいいなら覚醒アミン嗜癖症の者だってやっている。第一、映像が粗くて本当に点滴が為されているか判然としない。それより」
「警察内部に犯人ありという話もあるようだが」
龍市朗は眉を顰め、一瞬視線を下へ泳がせると「そんな下らない噂に踊らされているとは」と返し、
苦虫を噛み潰したような顔で、龍市朗は去っていった。
扉の向こうで足音が遠くなるのを待って、
「全く心当たりないわけでもなさそうね。警察が頼れないなら、私たちで毒瓦斯倉庫の調査なんてどうかしら」
「勘弁してください。今日は午後から円山の
「ヤマネですって。北海道にヤマネはいないのだから、
「それが、衛生課員が市中の病院に検疫の応援を頼みに行った際、そこの職員から相談を受けたという話なのです 」
「検疫というと、例の」
「はい、引揚船団です。師団の衛生部に陸軍病院、保健所から人を掻き集めても足りず、市中の病院にも協力を仰いでいます。勿論、夕焼からも人を出していますよ」
「とにかく、戦争が終わっても軍が威張り散らして命令ばかりとなると市民からの心証がよくないので、時々はこういうことも」
ガチャリ、扉が開いた。二人がびくりとして扉の方を見れば、盆を持った瑠璃雛菊だった。
「お茶のお替りをお持ちしましたぁ」
「ノックくらいしなさいよ」と
「驚かせようと思って」
二人の湯呑みに茶を注ぐと、瑠璃雛菊は
*****
ミント・グリーンの
札幌郡の南西部は深い山地が広るが、車が向かう円山は、山地と平地の境目ともいうべき場所に位置している。
車内は暖房がよく効き暑いくらいだった。助手席では瑠璃雛菊が眠っている。月寒の陸軍司令部を出て半時間も経っていなかったが、午睡には丁度良いようだった。
駐車場に入ると
「着いたぞ」と
「すみません。眠ってしまって」
「構わないさ。『お前の運転は荒い』と難癖付ける奴らへの反論材料になる」
遠ざかる二人の背後で、ぎぃ、フロント・フードが軋んだ。
*****
二人並び、短いが幅広の石段を登る。
登りきった先には門が構えている。両側の柱はひと抱えもある丸太で、藍色の綱が天辺で二本を繋いでいた。
二人が綱の下を歩き抜ける。先には森を貫く道が伸び、遠くにはもう一つ門があった。
「中尉はあまりお参りされないんですよね」
「ぼくのところは曽祖父の代から医者だからな。科学者とは概して熱心に祈らないものだ」
「そんなものですか。たしかに課長もあまり円山の杜にお参りしないって」
「どうだろうな。課長は単に地元の杜によくお参りしているから、かもしれない。瑠璃雛菊はよく来るんだったな」
「私はここの出身ですから」
右手には森を透かして公園のような場所があり、幼い子供たちが雪遊びに興じている。奥には平屋の建物も見えた。
左手の森はより深く、奥には低い山頂も見える。
道の左端で動く灰色の影があった。エゾリスだった。両手で掴んだ木の実を咀嚼するたび、耳に高く立つ冬毛が震える。軍人二人に気づくと、ふさふさとした尾を揺らして森の奥へ消えていった。
遠ざかる灰褐色の小動物を見送りながら瑠璃雛菊が言う。
「軍が秘密裏にロブラヤマネを繁殖させていた話、ご存知ですよね」
「話というより、噂だな」
なおも木立を眺める瑠璃雛菊が、雪上に動物の足跡を認めた。
「あれは……」
「猫か、せいぜい狐だな。狼の大きさではない」
「でも、ヤマネより狼の方が現実味あるかもしれません。この山はほとんど定山渓に繋がっているようなものですし」
「こちらが一発撃つ間に、何十発も撃てるんでしょう」
「しかし精度はそちらが上だ。特に連射は標準が定まらない。腕の立つ者が一発ずつ狙うなら、余り変わらのではないかな」
「確かに、距離が取れるならこの子でいいかもしれませんけど」
話すうち二人は二つ目の門へ到着した。
石段の上に立つ門は先ほどとは違い屋根に扉付きの大きなものだった。浮き彫りを凝らした欄干の中央には、しなやかな肢体に薄衣を纏い、長い藍色の髪をたなびかせた女の像が佇んでいる。門の奥には森を切り開いた広場ある。
門をくぐると瑠璃雛菊が周囲を見渡し「まだ来ていませんね」と。
「少し早く着いたな」
「では、少しお参りしてきても可いですか」
「ああ。ぼくは少し森の様子を見てくる」
広場の奥には最初の門と同様に綱で繋がれた数本の柱が並び、広場の一角を区切っている。その中では、数名ほどの人間が天を仰ぎながら立ち、手を胸の前で合わせて組んでいる。
瑠璃雛菊は〝区切り〟の中を見て、うーん、と呟き、広場の手前側の隅にある小屋へ向かった。軒先には札や根付け、菓子などが並んでいる。その中から藍色の綱と金平糖の紙包みを選ぶと、幾らかの硬貨と引き換えに受け取った。そのまま広場の背後に広がる森へ足を踏み入れ、少し進んだところで立ち止まると藍の綱を近くの樹に結びはじめた。一本結び終えるとそのまま横の樹へ繋いでいく。
一方の
「どうだ」
頭上の枝葉が、がさりと音を立てる。
「狼はおらんな」
「ヤマネの匂い……はわからないか」
「あやつらは小さいからのう。何匹か森におっても判らぬ。しかしこれは……花の香り」
「あれか」
「こんな真冬に花とは。墓か」
「まだ献花が絶えないな……最近は温室で花を育てるところも増えてきたから取り寄せたのだろう。これは墓ではないんだ。釧路沖で降伏文書の調印式が行われて、そのあとの話だが」――――――――
*****
腰まで伸ばした紺の髪を翻して森を進む女と、それを追う同じ髪の女。
「
銀蓮は歩みを止め、地面に置かれた畳の傍らで立ち止まった。畳は白布で覆われ、中央には白い座布団。靴を脱ぎ、座布団へ座る。服は上下揃いの紺の背広で、後姿は紺一色だった。振り向いて涼し気な目元の白い顔を半分覗かせると、後ろに控える同じ服の妹へ言葉を掛ける。
「後任はあなたにお願いするわ。東京にいる臨時内閣のものにも電報を打ってあります。さあ、
銅蓮も畳へ上り、蒔絵螺鈿の硯箱を開くと墨を磨りはじめた。湿気を含んだ土の香りに墨の香りが混じる。空は厚い雲で覆われ、夕立が近かった。銅蓮は墨を磨り終えると筆と紙を銀蓮に渡し、銀蓮はこうしたためた。
藍空に
「藍地に
銅蓮は、わっと泣き出して銀蓮の胸へ縋った。胸元の髪が涙で濡れていく。ぞっとするような艶の、黒とも見紛うほど深い紺色。
「
「
銀蓮は自分と同じ色の髪を撫でると、銅蓮の顔を上げさせた。銅蓮は姉の肩越しに横長の平屋を見た。銀蓮が、そっと唇を重ねる。銅蓮は両腕を銀蓮の背へ回し、強く抱きしめた。
暫しの抱擁の後、銅蓮は立ち上がり、軍刀を構えて銀蓮の傍らへ立った。
銀蓮は大きく息を吸い込と、吐き出しながら腹に短刀を突き刺した。その瞬間、雲に切れ目が入り、太陽が銀蓮の髪を照らした。銅蓮が刀を振るい、銀蓮の首が、がくん、と前に倒れた。銀蓮の頭は文字通り首の皮一枚で繋がっていた。白布が赤く染まり、次いで倒れた紺の背広と広がる髪。白、青、赤。
門の下に据えた架台、銀盆を覆う紺の髪は涙に濡れて輝き、伏せた瞼の長い睫毛。桃色の蓮花が、暴かれた肉を隠すかのように頸の周囲を取り囲み、青褪めた肌を彩る。
欄干から、紺色の髪を湛えた
*****
「人は自ら命を絶つのが好きだのう」
瑠璃雛菊は一人が入れるほどの空間の中で、広場の者たちと同様に天を仰ぎ手を組んでいたが、やがて顔を下ろした。綱をくぐって抜け、解いて外套のポケットに仕舞った。
「近くに狼はいなそうだ」腕時計を見ながら「そろそろ時間だな。相談者の弟が来るんだったか」と続けた。
「はい。あ、たぶんあの子ですね」
瑠璃雛菊が指さした先、門の下に学童服の少年が立っていた。二人は森を抜け、少年の元へ向かう。二人の姿を認めた少年が声を掛ける。
「あの、軍人さん、こんにちは。お兄ちゃんはお仕事で……見つけたのは、ぼくなんです」
「やあ。ぼくは
「私は瑠璃雛菊。お兄さんは小樽の検疫で忙しいんですよね。ご協力に感謝します」
「ぼくは
「たくさん、友達が死んだんです」
俯いて歩きながら、重い声で語り始めた。
「朝、ほっぺに血が落ちてきて、それで起きたんです。三段ベッドの一番上の子が死んでいました。ぼくは一番下だったんですけど、そこまで血がたれてきました。ぼくもロブラになって死ぬんだと思いました。すぐに、真ん中の段の子は死にました」
「上の二段が空いた後も、また血が落ちてきたらって思うと怖くて、ずっと床で寝ていました。春になって、お兄ちゃんが働き始めて、部屋を借りたんです。それで、久しぶりにお布団で寝ました」
それきり
「あっ。あの木です」
「去年の救児院集団感染だな。最近は過密が状態化している」
「このごろは戦災孤児が多いですね。なんでも、本州だと空襲で家も親もなくした若葉兵が、引き揚げ後にそのまま救児院に入ることも少なくないとか」
「そうだな、復員兵の福利厚生という観点で衛生課は…………」
「中尉も早くにご両親を失くされていますけど、何か思うところがあったりしませんか」
「事情が違うな。母上はずっと臥せっていたし、父上の入隊前に、もしもの場合はおじ上の養子になると決まっていた。それを言うなら君こそ」
「私は親のことを全く覚えていませんので、なんとも。救児院でも柘榴みたいに物心ついてから入る子の方が荒れるのですが、気持ちはよくわかりません」
「昨日のことは謝るよ。でもお陰で刑事様に一杯喰わせてやれた」
大人二人の半ば噛み合わない会話が終わるころ、
「ここで雪遊びをしていたら樹の上にヤマネがいて、あの穴に入っていったんです」
「たしかに穴はありますけど、奥に何がいるかは見えません」
「木登りの得意な者がいれば楽だったがな……」
「駄目だ。瑠璃雛菊、穴の近くを撃てるか」
「はい」
瑠璃雛菊が小銃を構え、ボルトを引いて装填した。静かな森に金属音が響く。
「直撃はだめだ。中で死なれたら姿が確認できないし、万が一ロブランシュヤマネだった場合、血が飛び散るのは避けたい」
瑠璃雛菊が照準を覗き込み、引鉄を引いた。銃声が上がり、件の穴の少し下に小さな孔が穿たれた。大きい方の穴から灰褐色の毛玉が飛び出し、手足を大きく広げて滑空した――――エゾモモンガであった。そのまま隣のエゾマツの葉に着地すると、奥へ歩いていき、すぐ雪と葉の陰に隠れて見えなくなった。
「飛ぶのを見ただろう。モモンガだ。ヤマネではない」
「そうですか……」
俯く
「甘い」
「ね。だから大丈夫」
「ロブランシュヤマネは熱帯原産だから、冬の北海道では生き延びられない。本州のランクウヤマネだって冬眠している時期だ。ぼくも南洋へ行ったが、信じがたいほど暑かったぞ」
「お医者さんは、いろいろなことを知っているのですね。たくさん勉強したのですか」
「それなりに、といったところだ」
「お兄ちゃんも、正看護師になるんだっていつも勉強していて、大変そうなんです」
「お兄さんは准看護師だったね。働いて家族を養いながらの勉学は、医学部で勉強に没頭するのとはまた違う難しさがあるだろう」
広場へ戻ると、瑠璃雛菊があっと呟いた。
「まだ綱をお納めしていませんでした」
「わかった。行ってくると可い。ぼくは門の外で待っている」
再び広場の隅の建物へ向かった瑠璃雛菊を見送り、
メカクレは
「中尉!」
瑠璃雛菊の背後、森の奥から唸り声が響いた。瑠璃雛菊が振り向き、初弾を撃った。森の中で鳴き声が上がり、直後に狼が飛び出してきた。肩から血を流している。瑠璃雛菊が二発目を撃ち、狼の耳に当たったが狼は止まらず、瑠璃雛菊に飛びかかった。瑠璃雛菊はボルトを引き次弾を装填したが、引鉄を引く前に狼が瑠璃雛菊の首に喰らいついた。
石段の上空、宙に浮かぶ狼と瑠璃がゆっくりと落ちていく。狼の唸りは引き伸ばされたようにくぐもって聞こえる。白黒フィルムと一番違うのは、鮮明な天然色。首から吹き出す赤が宙を舞い、狼の顔と石段を染める。瑠璃紺の髪が、白い景色の中で揺らぐ。
狼が首を振り下ろし、瑠璃雛菊の身体を下へ叩きつける。自由落下に加えて獣の豪力を受けた細い身体は、頭から石段の最下段へ落ちた。
世界の速度が戻った。
狼は瑠璃雛菊の首から口を離すと、
「瑠璃雛菊!」
地面へ衝突し、顔を上げると目の前に瑠璃雛菊の顔があった。蒼醒めた頬、虚空を仰ぐ
雪に広がる赤と青、それから血と硝煙の匂いが、これは映画でないと物語っていた。
周囲に人が集まりはじめていた。しかし彼らが瑠璃雛菊を目にするより早く、否、
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