伍 赤い夢

 創成川は札幌の中心部を流れる人口河川で、薄野周辺を含む市街地では碁盤の目に整備された区画に沿い、真っ直ぐ南北に走る。薄野の人形館からは東に四区画ほどで、荊凍ケイテの車はあっという間に西岸の土手へ到着した。


 車のドアが開き、中から二人が姿を現す。一歩素足を雪に踏み入れたメカクレが、ぶるりと身体を震わせた。川の周囲には厚く雪が積もっており、ところどころに枯れたススキが見え隠れしている。のろりのろりと足を進めるメカクレを尻目に、荊凍ケイテは革の長靴で雪を掻き分け土手を下る、流れのほとりまで辿り着くと振り返り、「なあ、どちらだ」

「なにゆえ人間はこうも急いでばかりなのやら」

 メカクレが土手を下る間も荊凍ケイテは言葉を止めない。

「薄野はもともとススキが茂る荒野だったため、あの名前になったらしい。今はその影もない歓楽街だが、創成川のあたりには名残があるかもしれないな」

 河岸まで辿り着いたたメカクレは、ゆるりと辺りを見回し、

「すすきの、とやら。あの街も悪くはないが、わしにはちぃとばかし湿が足らぬ」と。

 既に日は落ち、東の空には夕日の残り火があったが、柳の枝が落とす影で創成川の河畔は昏かった。ぽつり点きはじめた瓦斯ガス灯やビルの灯りも、土手に阻まれて、河岸までは届かない。人を見るとてかおも判らぬような、文字通りの〝誰そ彼たそがれ〟刻。


 メカクレは南に進路を取った。創成川を左手に河岸を歩き、荊凍ケイテも後に続く。川の流れる音を背景に、雪を掻き分ける音が暫し続いた。そのうち、前方左手、南西の空低く満月が顔を出した。荊凍ケイテが見上げて、

「いい月だ」

 次第に柳の樹は密になり、二人の頭上には、葉を落とし雪を薄く載せた柳の枝が垂れ掛かる。枝の隙間から満月が照らす。しかし次第に、まるで見えない葉が茂っているかの如く、枝間の景色は曖昧になっていった。いまや月の輪郭は霞がかったようにぼうとしている。

 そうして昏い木陰を歩くうち、行く先が段々明るくなってきた。例えるなら森の先の街灯へ近付いているような――――枝は段々と疎らになり、それにつれ前方の灯りは強く照らし、いつの間にか視界を遮る柳はなくなっていた。

「ほれ、着いた」

 二人はちょっとした通りのようなところに出ていた。


*****


 通りの左手には先程までと同じく川が流れ、右手にぽつりぽつりと屋台が並ぶ。遮るものはなくなったが、明かりは月と屋台の赤提灯のみで、辺りは仄暗い。疎らに行き交う人影は、輪郭が辛うじて分かる程度。

 メカクレは猶も歩みを止めず、荊凍ケイテも続く。

 前方を歩く、羽織袴のずんぐりとした人影に荊凍ケイテが気付いた。しかし注意して見れば頭部は首までふさふさとした白い毛に覆われ、兎の如く長い耳が立っていた。

 向かいから別の人影が近付いてきた。近付くにつれ明らかになる姿――黒い三つ揃えにこれまた黒の山高帽。背広から飛び出す身体は木製で、顔はマヌカンの様に凹凸がない。ステッキを小粋に振りながらの紳士然とした歩みだが、手足の動きはどこか固く、背広の下で軋む人工関節の存在を想像させた。

 マヌカン紳士は擦れ違い様に顔を二人の方へ向けた。荊凍ケイテは目を伏せ、横目でマヌカンのネクタイを盗み見た――〝目〟を合わせることが躊躇われた――が、マヌカン紳士はぐ顔を前に戻し、歩き去っていった。

 荊凍ケイテはふぅと息を吐いたが、横を歩くメカクレは何処吹く風といった様子である。


 さらに進むと屋台の狭間に小さな広場のようなものがあった。薄暗闇の中、人型のものやそうでないもの、様々の影が蠢いている。

 広場の中心には一畳程の演台があり、顔まで頭巾で隠した全身黒くめの黒衣くろごが座っていた。その前には二匹の雨蛙が並んでおり、手には小刀が紐で結わえてある。さらに、四肢には細い糸が結わっており、上方の木の棒に繋がっている。

 黒衣が棒を動かすと、操り人形の要領で蛙の身体も動く。切っ先が幾度も蛙の鼻先を掠め、そのたび周囲から、わっと歓声が上がる。


 メカクレは狭い広場の中を縫うように進み、ある影の横へ収まった。半着に脚絆の農夫風、笠を目深に被っており、顔は見えない。歓声の合間を塗ってメカクレが隣へ声を掛ける。

「最近、狼がこの辺りを荒らしておらんかのう」

 笠が上を向き、口元だけが陰から現れた。

「おう、蛇。久しいな。狼か。特段聞かんな」

 言葉を返す唇は紫で、荊凍ケイテは「まるでチアノーゼだ」と思った――――爪はどうだろう――――手元を見遣ると、手首から先はなかったが、手で掴まれたように瓢箪が浮かんでいる。腕が動くと瓢箪も揺れ、ちゃぷ、と水音が鳴る。

「何か噂を探ろうってんなら、ほら、〝川〟向こうの座敷なんか」

「やはりそう来るか」


 蛙が息を吸い、腹が大きく膨らんだ。その瞬間、黒衣くろごが糸をり、刀が蛙の腹に突き刺さった。ぱんっと音を立てて蛙の腹が破裂する。

 広場がわっと湧き、ぴぃぎゃあ、ばったん、大騒ぎ。演台に向けて、木の実や仔犬の生首、白い紙に包まれた何か――――〝おひねり〟のような形だが、紙の表面には血が滲み、〝中身〟が時折ぴくりとうごく――――などが投げ入れられる。黒衣くろごはそれらを拾い集めて籠に放った。

 演台の背後には、物見櫓のような脚の上、切妻屋根に両開きの扉が付いた、犬小屋のようなものが据わる。

 蛙遣いが扉を開くと、雨蛙の死骸が積み上がっていた。蛙遣いが先程〝破裂〟した二体を一番上に重ねると、周囲から再び大きな歓声が上がった。油の缶を片手に火を噴き上げる者もあった。

 蛙からは新鮮な血が垂れ、先客たちの表面を伝っていく。赤と緑の山の背後、最奥には彫像があった。荒々しくノミの跡を残して削り出された裸体は木目もくめも顕わ、長い髪だけべったり青く塗られている。

「では」と言い残し、メカクレはその場を離れた。荊凍ケイテも後を追い、沸き立つ群衆の隙間を縫いながら呟く。

「あの彫像、藍宙美上あいぞらみかみを真似ていると見えなくもないな。藍で万回染めたような美髪を持つとされている。しかし、なぜ両性具有なんだ」――――



*********



 暫し歩いたのち、メカクレは一つの屋台の前で足を止めた。

「あそこへ行くなら、其の前に腹拵えを」

 赤い暖簾をくぐると、カウンターの奥で暖簾と同じ赤い前掛けの男が、寸胴鍋を掻き回していた。水面からは猫の手が飛び出している。

「へいらっしゃい」

 男がおもてを上げて二人に声を掛ける。白いマスクが顔の下半分を覆い、左右の眼はなく、中央に一つ細長い糸目が鎮座している。

「注文は」

 荊凍ケイテは周囲へ視線を巡らせた。カウンターにはイモリの黒焼や、紫色の粘液で満たされた硝子瓶、紐で括った人間の髪束のようなものなどが並んでいた。

「そうだのう、なにか」

 メカクレがそこまで言ったところで、暖簾のれんの隙間から豚の鼻が割って入った。次いで頭全体、それから腰巻だけを身に着けた躰――豚と人間の合いの子のよう――が店内へ。血肉の色が透けて見える薄さの薄桃色の体表は無毛で、瞼は幾重も皺が寄り眼に覆いかぶさっている。その様は荊凍ケイテに、まだ目も開かない二十日鼠の仔ピンクマウスを思い起こさせた。

 豚は慣れた様子ではカウンターへ凭れた。店主に向かって口を開きかけたが、鼻をひくひくさせると荊凍ケイテの方を向き「いいにおいだ」とじゅるり舌なめずり。舌は長いが発音は妙に舌足らずで、子供のよう。

 荊凍ケイテは相手を睨めつけ、軍刀の鯉口を切った。人形館前の出来事を思い出す――――再び後頭部がぞわりと締め上がる。髪が逆立つような感触、目の裏で見えない火花が飛び散り、首の後ろがすうっと冷えた。――――まるで剥き出しの肉だ――――これを斬ったらどんな感触がするだろう――――荊凍ケイテは男娼の感触を思い出そうとしたが、何も浮かばなかった。かわりに、眼前の肉塊へ刃がめり込む様を想像する。肉が割れ、血潮が吹き出し――――

 メカクレが片手で荊凍ケイテを制しながら豚との間に割って入った。

「なんだ、おまえのか」

「わしの連れでの。売り物ではないぞ」

 豚は猶もメカクレの肩越しに荊凍ケイテへ顔を向けている。メカクレは数度舌を出し入れて、足許に目を遣った。カウンター下に空の一斗缶が転がっている。屈んで取り出し、横にして両手で持つと、ゆっくり両側から潰しはじめた。見る間に一斗缶はぺちゃんこになり、さらに手で丸め続けた。

 歪な球体となった〝元〟一斗缶を見て、豚は「わかったよ」呟くと、カウンターの中へ向き直った。

「いつもの」

「あいよ」

 一ツ目がカウンターの硝子瓶を開け、中身――――藤色のどろりとしたゼラチン質の粘液――――を匙で掬い取り、コップに入れた。次いで背後から一升瓶を取り出すと中身を注ぎ、匙で掻き混ぜた。底に溜まった紫が、コップ全体に広がる。それと同時に、腐りかけの果実のような甘い香りも漂った。

 コップを受け取った豚が藤袴色の液体を飲み始めた。その様子を荊凍ケイテが見詰める――――はて、このじっとりとした甘い香りは――――

「うちの名物、脳味噌の藤花ふじばな漬けだ。焼酎で割るのが定番で、馬鹿によく効くと評判だ」

 荊凍ケイテの視線に気付いた一ツ目が言った。それに乗っかり豚が茶々を入れる。

「こつこつ、つづけるのがだいじだ。これがなければ、おれはいまごろぺちゃんこだったかもしれん」

「前は人間の胎児や間引いた赤子の脳を使っていたんだが、今は犬だ。効き目が数段劣るとはいえ、このご時世だ仕方ない」

 荊凍ケイテが首を傾げる。

「昔は遊郭に行けばいくらでも水子が手に入ったし、ヤミ堕胎を請負う医者は、胎児の死体を横流しする奴が多かった。なんなら俺自身で産婆の真似事をしたこともあった。知ってるか、鬼燈ほおずきんだ」

「ああ。昔のやり方だ。鬼燈には子宮収縮作用のあるアルカロイドが含まれている。根や茎をそのまま挿入することもあったようだが、敗血症での死亡例もあるし、飲用のほうがまだ幾分マシだろう。いずれにせよ最近では、陣痛誘発剤とラミナリアがその代わりといったところか」

 荊凍ケイテは続けて、ラミナリアは海藻の一種で、云々……とも語った。

「嬢ちゃん、詳しいな」

「ぼくは医者だ」

「なるほどな。それならわかるだろう。この頃、堕胎はお上がロハでやってくれるそうじゃないか。医者たちは書類を作るのに死体がなければ困ると言って、誰も俺たちに売らなくなった。救児院が増えてからは、間引きも減った」

 一ツ目は項垂れ大きく溜息をつき「全く商売上がったりだ」と言い、かと思うと顔を上げ、「商売、そうだ商売だ。人間の嬢ちゃん、注文は」と。

 荊凍ケイテはまず紫のグラスを見遣った。濁った薄紫の液体の中で、紫の澱が舞う―――藤の花弁だろうか―――その隙間から、千切れた鱈の白子たちようなものが見え隠れする。カウンターには髪束、寸胴の猫――――

「なにか、人間の女子おなごでも喰えそうなものはないかのう」

 暫く無言だったメカクレが割って入った。荊凍ケイテは普段〝女にもできること〟などと言われれば黙っていなかったが、このときばかりは文句を付けなかった。

マムシはどうだ。たしか人間も酒に漬けたりするだろう。生き血も飲めば精がつく」

「うむ。ではそれを二匹。ひとつは生で、もう片方は焼いたのを」

「あいよ」

 一ツ目は足元の檻を開け、一匹の蝮を取り出した。

 暴れる蝮の首根っこを押さえて俎板に載せると出刃包丁で首を落とす。司令塔を失ったのちも激しくのたうち回る胴体を掴んで逆さにし、切断面を猪口に向けた。白い底にぽたりぽたりと赤が広がる。一ツ目が手で胴を絞ると血は勢いを増し、猪口の半分ほどまでを満たしたところで止まった。

「先ずはこいつ」

 カウンターの上、荊凍ケイテの眼の前に猪口が置かれた。

「メカクレ、飲むか」

「なんだ、飲まぬのか。人は蝮の生き血を薬にすると聞いたが」

「たしかにそういう時代もあったが、今は衛生科学の時代だ。医者が寄生虫に当たっては体裁が悪いからな。ぼくは生で飲むわけにいかない」

「難儀なものだのう」

 メカクレが猪口の中身を一気に呷った。

 カウンターの中では、一ツ目が切断面の皮をつまんで引っ張っていた。靴下を裏返すように、綺麗に皮が身から剥がれていく。蝮の皮を尻尾まで剥がし終え、次は切れ目から内蔵を抜き取る。半透明の腹膜に包まれた内臓が、丸ごと綺麗に身から外された。

「人間の嬢ちゃん、当たりだ」

 腹膜の内側では、暗褐色の太い紐のようなものが、うねうねと動いている。

「仔持ちか。蝮は卵胎生だったな」

 一ツ目が腹膜を割き、〝仔〟袋を取り出した。楕円の袋が四ツ連なっており、半透明の膜を透かしてうねる幼蛇が見える。そのうち二ツを小皿に選り分け、心臓と一緒に皿へ盛った。心臓はどくり、びくん、と時折脈打っている。

「蝮の仔は母蛇の腹を喰い破って出てくるという話があるが、なんてことはない。総排泄孔から産まれてくるさまを、腹が破れたと勘違いしただけだろう」

 荊凍ケイテが半ば独り言のようにつぶやいた。

 カウンターの奥では一ツ目が暴れる〝身〟――――半透明の桜色で、頭と皮、臓物を失ってもなお、びくり、ばたり、と動き回っている――――を押さえつ折り畳みつして串に打っている。串に絡みつくような形の倶利伽羅に仕上げると、炭火が煙を上げる網の上に乗せた。尻尾がびくびくと跳ねる。半透明だった身があっという間に白くなり、縮み上がっていく。

「焼けるまでの間、これでもつまんでいてくれ」

 一ツ目が、臓物の盛られた先程の小皿を寄越した。

 荊凍ケイテがメカクレに目配せをし、メカクレが小皿を受け取った。口を大きく開いて上に向け、皿をひっくり返すと臓物たちが息を引きながら口の中へ落ちていき、ちゅるり、ごくん。すぐ呑み下された。

「それは共喰いではないのか」

「お主も南洋では猿を喰ったであろう」

 一ツ目が残された二つの〝仔〟袋を包丁で開いた。ぼたりと粘液が零れ、次いでぬらりと光る幼蛇がまろび出た。

 小さいながらも表面には蝮特有の鎖模様が見えるが、成蛇とは違い鱗は未発達で、滑らかな膚にぬらぬらと粘液を纏って光っている。その姿はさしずめ、模様付きで少し細長い泥鰌どじょうといった風情だった。俎板の上でびちびちと跳ね、一ツ目が手を伸ばすと一丁前に鎌首をもたげてみせた。

 泥鰌との違いはもう一つ、腹には小豆大ほどの黄色い粒がついている。それに目を留めた荊凍ケイテが言う。

「まだ卵黄嚢ヨークサックが残っているな。これには栄養分が詰まっていて、通常は生まれるまでに吸収される」

 一ツ目が幼蛇を生きたまま串に打つ。先程の成蛇同様に激しく身を捩るが、抵抗虚しく。最後、小さいながらも毒牙を覗かせて反抗する首が顎の真下から串で貫かれ、少なくとも口は開かなくなった。自慢の毒牙を封じられた格好だ。一ツ目が二匹目も同様の倶利伽羅に仕上げた。網の上に乗せると、尻尾――――数少ないまだ自由が効く場所――――を激しく振り回した。しかし火は無慈悲に幼蛇を炙り、幼蛇もそのうち動かなくなった。

「待つ間、これもあったな」

 一ツ目が、俎板の隅に転がっていた蝮の首を小皿に乗せ、カウンターに置いた。すぐ厨房での作業に戻る。網の上に塩を振り、成蛇せいだの串を返す。次には〝生〟の串に取り掛かった。

 小皿の上では蝮の頭がびくり痙攣し、半ば閉じていた口が大きく開いた。荊凍ケイテが小皿を取ってしげしげと眺める。蝮の眼と鼻の間、人間で言えば頬に当たるであろう箇所の窪みを指差して言う。

「これがピット器官というやつか。蝮はここで赤外線を感知し、獲物の小型哺乳や鳥類が発する熱を頼りに見付け出すと聞く」

 荊凍ケイテは小皿をメカクレの袖口に近づけた。ぬっとミドリが顔を出し、舌を幾度か出し入れしたのち、素早く蝮の頭に噛み付いた。

「君たちにはないのか」

 荊凍ケイテがメカクレの頬をつついた。膚はつるりと皺一つなく、薄い油膜を張ったように輝いている。メカクレはぶるぶると頭を降り、髪が左右に揺れた。硬い毛先がちくりと荊凍ケイテの皮膚を刺激し、荊凍ケイテは手を離した。

「へいお待ち」

 一ツ目が串をメカクレに差し出した。生の蝮が、〝焼き〟の方と同様、倶利伽羅に刺さっている。大きく開かれた口からはだらしなく舌が垂れているが、尻尾はびちびちと激しく振り回されている。

 メカクレは蝮の頭にかぶりついて上を向いた。サーカスの剣呑み芸のような格好だが、串は呑まずに蝮だけをずるりずるりと抜き取り口内に収めていく。

「嬢ちゃんも、お待ち」

 焼かれた蝮の串が荊凍ケイテに手渡された。表面には塩が振ってある。

 荊凍ケイテは、眉根を寄せてじっと見たあと漸く齧り付いた。

「思ったより普通の……肉だな。鳥に近い。食感なんかは特に。味は鶏というより雉のような濃さと……どこか白身魚のような風味もあるかもしれない」

 そのまま食べ進め、中頃まで達したあたりで幼蛇の串が手渡された。

「ほれこっちも」

 成蛇と違い皮も頭もついたまま。荊凍ケイテが頭から齧り付いた。ばり、ぼり、頭蓋骨とうがいこつごと肉を噛み砕く。しばし蝮との無言の格闘が続き、それが終わると荊凍ケイテは空いた串を串入れに放った。

「邪魔したのう」

 メカクレが暖簾に手をかけると、一ツ目が「待て、支払いは」と声を掛けた。

「そうであった。ケエテ、あれを」

「ああ」

 荊凍ケイテが背嚢から麻袋を取り出した。開くと中では数匹の二十日鼠がキィキィ鳴きながら動き回っている。

「これは人間が殖やしておる。味は普通の鼠と変わらぬが、物好きの客が喜ぶはず。野山では斯様こうまで真白なのばかりは見付からぬであろう」

 店主は、ほぅ、と息を漏らし、

「人間の嬢ちゃん、珍しいもの持ってんな。いいぜ、そいつを置いていきな」



*****



 屋台を離れた二人は通りに戻り再び歩き始めた。暫し歩くと、二人の左手、川に橋が架かっている。しかしメカクレは橋に目もくれず歩き続ける。

「川向こう、と言ったな。渡らなくていいのか」

「いや、こちらで可い」

 さらに歩き続けると、二人の右手、つまり河岸と逆方向に小さな太鼓橋が現れた。

 近付くと橋の左右には石灯籠が立ち、仄かな灯りの中、朱赤に塗られた欄干が浮かび上がっている。橋の真下では、雪と草の隙間で細く水が流れており、微かな水音がする。石灯籠は橋の周囲を狭く照らすのみで、水は上流下流も判然とせず、左右の先は暗闇に消えていた。創成川の支流なのか、はたまた全く処を異にするものか――――

 先にメカクレ、後ろに荊凍ケイテが続いて太鼓橋を渡る。一歩ごとみしりと足元が軋む。通りの喧騒は遠い。

 橋を渡り切ると、筵で冬囲いをした灌木の点在する前庭に出た。左右に石灯籠が並ぶ小径こみちの先、これまた朱塗りの屋根で葺いた屋敷があった。

 戸を開くと帯を前で結んだ振袖の女が出迎えた。

「あら、目隠れの旦那さん、お久しゅう」


 女の案内で二人は奥の座敷に通された。

 金屏風に紗の窓掛け、真新しい畳からは爽やかな葦草の香りが昇る。金地に赤い椿が咲き乱れる屏風を背に、赤い金襴の座布団が二つ並び、その前には朱塗りの膳が置いてある。二人が腰を下ろすと、案内の女と入れ替わりで、同じような前結びの振袖を来た女が二人現れた。それぞれの傍らに座り、左手は荊凍ケイテ、右手にメカクレが座り、二人を両脇から挟むように女たち、といった具合。両の女とも、座れば床まで届く黒髪で、目の上で切り揃えた前髪まで揃いだった。

部屋には高い炎を上げる百目蝋燭が並び、朱赤の調度と着物の金刺繍を照らす。


「こんな真冬に、珍しいですわね」

 メカクレに付いた女が切り出した。

「わしも本当なら睡っておりたかったが、こやつが無理に起こすので」

 女は荊凍ケイテに視線を流し「そちらの凛々しい将校さんは」と。紅く塗った目尻から、潤んだ瞳が覗く。

 荊凍ケイテは口元が緩みそうになるのを堪え、弓の形にきりりと引き上げて答える。

「ぼくは荊凍ケイテと言う。陸軍司令部所属の軍医だ。こんな麗しいお嬢様方にお引き合わせいただけるとは僥倖」

 もう一方の女が荊凍ケイテの耳許で「まあ、お医者様でもいらっしゃるのね」振り向いた荊凍ケイテの眼前に女の口があった。濡れた艶の紅引く唇は女の肉の色。

「さあ、お召し上がりになって」と女が荊凍ケイテに促し徳利を傾ける。荊凍ケイテは猪口から一口呑むと、膳を見た。鮪や鯛の身がシャリから溢れる寿司を中心に、大きな海老の頭が飛び出す汁などが並んでいる。目を輝かせて箸を取り、朱の汁椀に口を付けた。

 隣の膳には塗り箱が置かれ、升目区切りの中で齧歯類や爬虫類なぞが蠢いている。メカクレが串を一本選んでつまみ上げた。活きたカナヘビが刺さっており、金属光沢のある青い尾をばたつかせている。別の小部屋では、うずらの卵が割れて雛が顔を覗かせた。小さな嘴で殻を割り進めて顔がすべて見えたころ、袖からミドリが顔を出し、雛に頭から喰らいついた。


 カナヘビを呑み下したメカクレが、傍らの女に向けて舌を出し入れする。臙脂の舌先が生白い首元を掠めた。

「やはりい。この匂い」

「噛み付くなよ」

「案ずるでない。お主に云う〝い匂い〟とはまた別の話。これは中々、人には出せぬ」

「違う匂いなのか」

 荊凍ケイテも身を乗り出して女の首に顔を寄せたが、何の匂いも感じ取れなかった。首を傾げ「ぼくにはわからないが」

「其れはさて置き。お主、訊ねたいことがあった筈」

 荊凍ケイテが身体を戻し、そうだった、と話し始める。

一寸ちょっと訊きたいのだが、最近、札幌郡内で狼を見掛けなかったか」

「狼……そうですねえ」荊凍ケイテの側の女が、小首を傾げて話し始めた。

「このあたりでも一時は見なくなりましたが、少し前から定山渓じょうざんけいの方に棲み付きはじめたという話を聞きますわ」

「じょうざんけい。温泉の湧く処だったかの」

「ああ。風光明媚な保養地として名が高い。案外、瑠璃雛菊の推理が当たらずとも遠からずといいうところか……彼女が怪しいと踏んだ藻岩山から更に奥へ入った山地で、たしかにあそこなら虎でも狼でも隠れていて可怪おかしくない」

「私の方ではそういえば、定山渓の奥深くの河岸に人間の骨が棄てられていて、これ幸いと召し上がった、というお客様もいらっしゃいましたわよ」

 メカクレの側の女も語り、荊凍ケイテが左右を見ながら問う。

「そもそもの話だが、狼がまだ生き残っているというのは、君たちの間では知られたことなのか」

「ええ。彼らはまだ山の奥におりましてよ」

 荊凍ケイテが寿司をつまみながら、ううむ、と考え込む。

「しかし広すぎるな……どう探したものか。定山渓の、具体的にどこかは判らないだろうか」

「そこまでは……」

「もしくは、その客を紹介してくれたりは―――」

 ―――人間の骨をこれ幸いと―――

いや、やっぱりやめておこう」


 追加の皿が運ばれてきた。荊凍ケイテにはカットステーキ。肉の断面は赤い。レアよりさらに火を通さない、表面を炙っただけのブルーレアである。

「最高の焼き加減だ。やはり牛肉はこれが一番だ」

 活き雀がメカクレの前へ。雀は串に貫かれながらも、ちゅ、と弱々しく鳴いた。

「これは豪勢だ、しかし」

 荊凍ケイテがメカクレに耳打ちする。

「支払いはどうするんだ。まさかまた鼠というわけにもいくまい」

 すると耳打ちを聞きつけた女が「あら、そんな心配はいらなくってよ」と。

「お客様をおもてなしするのがわたくしたちの歓び。それに、皆様とってもくださいますのよ」


 ぽんっ。小気味の良い鼓の音が鳴った。


 気付けば前には楽器を抱えた女たちが並んでおり、鼓や三味線を奏ではじめた。唄も始まり、次いで現れた女は、扇子を手に舞う。女が翻ると朱地に金刺繍の振袖が躍り、絹糸のような黒髪が纏わる。足を滑らせれば緋縮緬の襦袢が見え隠れし、裾からは白い足首が覗く。

 目と耳を悦ばせながら、荊凍ケイテは箸を進める。猪口が空けば、すかさず女の酌。


 ふと荊凍ケイテが窓を見ると、薄い紗の窓掛けを透かしてが見えた。

 ――――たらり。

 汗が一筋、荊凍ケイテのこめかみを流れ、酒で火照った頬を僅か冷やす。

 荊凍ケイテは顔を前へ向け直した。取り囲む百目蝋燭の大きな炎が、女たちを煌々と照らす。紅さす唇は火を喰んだと思うほど朱く、鋭く光る黒髪は刀のくろがねとも見えた。

 今度は目だけを動かして窓を見ると、外で見たのと同じ

 ひゅう。どこからともなく吹いた風が、汗で濡れた首筋を冷やす。楽の音が、くぐもったように遠く聞こえる。蝋燭の炎が揺らぎ、ぐにゃり、と視界が歪む。


 たんっ。一段高く鼓が鳴った。


「さあ、もっとお召し上がりになって」

 注がれた酒を煽ると、冷えた身体が一気に熱くなった。女が身体を寄せ、荊凍ケイテの首元に顔を埋めた。吐息が汗ばんだ膚を撫でる。荊凍ケイテも女の腰に手を回す。

 メカクレを見ると、そちらの女も彼の肩へ凭れていた。

「まあ、ひどいわ。余所見なんかして」

 蝋燭の火が消えた。残るは薄絹越しの月灯り。

 もう一度メカクレの方を盗み見ると、帳のように降りた靄が二人の姿を霞ませていた。朧気な二つの輪郭が重なり合う。

 荊凍ケイテは傍らの女に向き合い、顔を見詰める。薄灯りに白い顔がぼやり浮かび上がる。整っているが特徴のない市松人形のような顔――――はたして最初からこの顔だっただろうか――――荊凍ケイテはもう一人の女の顔を思い出そうとしたが、記憶の中の顔は靄がかかったようだった。女の頬を撫でる。胡粉を塗ったような滑らかな感触。身八つ口から手を差入れて背中を撫でる。女が身体をくねらすのに合わせて、大きく空いた胸元の合わせから甘い香りが立ち昇る。荊凍ケイテは南洋の夾竹桃を思い出した――――粉っぽい、人工的とすら感じる強い香り――――鼻の奥が痺れ、頭がくらくらした。倒れそうなのを堪えて、しがみつくよう女の身体を強く抱く。

 いつしか傍らには朱の緞子蒲団が敷かれていた。闇に輝く滑らかな織模様は、内側から発光するかのよう。

 先に聞いた台詞が荊凍ケイテの脳裏に蘇る。「皆様とってもくださいますのよ」――――――



*****



 再び蝋燭が灯された室内で、二人が〝水菓子〟に舌鼓を打つ。

 荊凍ケイテは上衣とシャツの一番の釦を開けたまま、片膝を立てて座っている。口に運ぶのは熟れた苺。

「定山渓だと広すぎると思ったが、心当たりを思い出した」

 少し崩れた麻着物のメカクレが、今まさに生け簀から揚げたばかりといった風情のオタマジャクシを口へ放った。

 女たちも足を崩し、柔和に笑んでいる。


 二人は部屋を辞し、最初の女の案内で玄関を出た。

「また、いらしてくださいませ」

 小路を抜け、再び朱の太鼓橋を渡った。通りを歩き出したメカクレが呟く。

「うう、寒い寒い」

「そうだな、早く車まで戻ろう。呑んだあとは身体が冷え――――」

 荊凍ケイテが足を止めた。

「どうした」

「いや、もうすっかり酔いが醒めてしまったというか、しかし酒が抜けたというより、ような……それになんだか妙に腹も減っているし、どっと疲れたようだ」



*****



 仄暗い室内。

 窓からは月灯りが射し、一枚板の物書き机の上、緑の傘を下へ向けたバンカーズランプが灯る。藍染めの浴衣に角帯を腰で穿いた荊凍ケイテが、折詰めの寿司をつまみながらぼんやりと窓の満月を眺める。肩ではザフィアが毛繕いをしている。

 背後のベッド、天蓋の上からするりとメカクレが降りてきた。荊凍ケイテの背後へ忍び寄り、浴衣の襟からすっと伸びた項に口元を寄せた。

「なんだ、脅かすな」

 荊凍ケイテの肩で、ザフィアがびくりと大きく身体を震わせた。そのまま殆ど落ちるように離陸し、短い滑空ののち、机に着地した。

「有用な情報が得られたであろう」

 荊凍ケイテの項にメカクレの吐息が当たる。

「少しだけだぞ」

 メカクレは頭を少し前側に回すと、首筋に噛み付いた。じゅるり、じゅるり、水音が静まり返った室内に響く。

 荊凍ケイテの視界の端に、メカクレの旋毛つむじが見えた。顔にこれ程近付いてなお、荊凍ケイテはそこから昇るはずの匂いを感じなかった。

 荊凍ケイテは机の端で縮こまっているザフィアをつつき、促して掌に乗せると顔の前まで運んだ。ザフィアの背の毛並みに鼻先を埋めて息を吸い込むと、僅かに脂っぽく、どこか干し草を思わせるような匂いがした。彼女が昔飼っていた猫も似たようなものだった。清潔な寝床を与えられた、愛玩動物の匂い。

 ザフィアを机の上へ戻すと、荊凍ケイテは次に人差し指をメカクレの前髪へ差入れた。毛流れに沿って指を動かせばすっと通ったが、逆向きに動かすとがついているかのようにキシキシと引っ掛かる。前髪の生え際、頭皮をぐり、と擦ったあと指を髪から抜いて匂いを嗅いでみたが、やはり何の匂いもしなかった。

「明日こそ刑事に会う。午前は寝てていいぞ」

 メカクレは言葉を返さず、その口は別の仕事にかかりきりだった。ザフィアが皿の隅に残る米粒を食べ始めた。むちゅ、みち、と小さく控えめな音。それをかき消す、じゅるり、ごくん、遠慮のない音。

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