肆 模倣、人形
長い廊下の床は板張りで、よく磨き込まれつやつやと光を放っている。
黒電話を肩で挟む
「そういうわけでちょっと行ってきてくれないかしら。警察との約束は明日にでも延期すればいいわ」
はあ、と間延びした返事の後に
「妊娠した娼婦が殺された、と。それこそ憲兵の方が適任では。彼らなら逮捕権もある」
「憲兵隊からも何名か現場に向かうと聞いたわ。まあ、絶対行けとは言わないけど、瑠璃雛菊がもう向かってしまったのよ。探偵遊びが大層気に入ったみたい。ああ、それから」
一瞬の間を起き、囁く。
「
受話器からカールコードを
「わかりましたよ。ぼくもすぐ向かいます。でも――――」
「ご褒美は期待していますよ」
ぎしり、電話の向こうで椅子が軋んだ。
「考えておくわ」
*****
ミント・グリーンのカブトムシが、低層ビルの間を走る。
札幌市街の中心部は碁盤の目に区画が整理されており、道は真っ直ぐ東西南北に伸びる。建物の間から覗く山々は厚い雲に覆われている。冬の札幌では定番の空模様だ。道には根雪、居並ぶコンクリートのビル。街は文字通りの灰色だった。の街を高速で駆ける
助手席のメカクレは、膝の上に小振りの麻袋を抱えている。袋の口を緩めると、ミドリが袖から顔を出し、首を袋へ突っ込んだ。キイィ、キィと二十日鼠の鳴き声が車内に響く。
「危うく轢くところだが、あやつらもお主の仲間ではないのか」
「弱
「同じに見えるのだがのう」
彼に軍服の見分けなぞは付かないのであった。
人垣は雑居ビルの入り口を囲っている。見ると薄手のシミーズを着た若い男が、似たような格好の男にナイフを突き付けて立っていた。二人とも整った顔立ちだが、長い髪は乱れ、汗と涙で化粧が崩れている。
「はて、あの珍妙な出で立ちは」
「男娼だろう。買春禁止令以降増えた。公衆衛生上の大惨事――――男同士はただでさえ感染症の伝播率が高いのに、不特定多数が相手となれば
人垣の端で奥を眺めていると、憲兵二人が近付いてきた。。
「今日は働いているようだな」
「臆病風邪の具合はどうだ」
「助手さんはご一緒ではありませんか」岬浜上等兵が割って入る。
「風邪を引いて病欠だ」
岬浜が、あれ、と首を傾げて言う。
「助手席にいらしたと見えたのですが……」
「それより。妊婦が殺されたと聞いたのだが、男しかいないな」
「死体は地下の店です。犯人は逃走しようとしたところを玄関前で警官に囲まれて、逃げ遅れた同僚を人質に取りました」
玄関前から甲高い奇声が上がった。憲兵二人と
「逃げ出した者の証言によると、犯人は覚醒アミンを打った上でこの凶行に及んだとのことです」
「彼らは仲間内や、下手すると客とも回し打ちをする……公衆衛生上の大惨事だ……去年の地下人形館ロブラ集団感染を思い出す……うちの病院でも患者を受け入れたんだ」
「遠くから狙撃できないだろうか。左右から距離が取れそうだ」
「犯人から視認されない距離からの狙撃となると、拳銃では難しいです」
「なんだ小銃を持ってきていないのか……向かいのビルからだと近すぎるか」
「今、誰かこちらを見ていなかったか」
「騒ぎを気にして住人が見ていたのでしょう。とにかく、今のように気付かれてしまいますし、あそこからの狙撃は難しいかと」
「なら、青い長髪の上等兵が来ていないか。伝染病調査班の者だが、元は狙撃兵だ。彼女に頼めるかもしれない」
暫く黙っていた
「相当な自信だな。往来で民間人を相手に発砲すれば、上が煩いと思うがね。南洋帰りか何か知らないが、医者にしてはちと血の気が多すぎる」
残った
そうするうち、人垣の奥から一際高い声が響いた。玄関前で、ナイフを持った方の男が人質の首に刃を突き立てていた。勢いよく血が吹き出し、二人のシミーズに赤い染みを作る。
人質は床に倒れ、ナイフを振り回す男が人垣へ突っ込んだ。警官の中にはサーベルを抜く者、一部には銃を構える者もいるが、誰も攻撃しない。先には人質、今は同僚たちの身体が盾になっていた。
男が人垣を抜けて、
男は膝をついて前のめりに倒れ込んだ。
「動くな」
すぐに警官たちが駆け寄り男を拘束しはじめた。シミーズの赤い染みはどんどん広がる。頭上の太陽は厚い雲に覆われている。光は手術室の無影灯のように散乱し、辺りの陰影は判然としない。灰色の雪の上に血が流れていく。南洋の記憶が蘇る――――血で染まる患者衣、病室の血溜まり――――
「素手で血に触れるな」
軍刀を引いて自分の身体の脇まで戻すと、先ほどまで感じなかった重みがずしりと手に響いた。掌は汗でじっとりと濡れている。軍衣の襟に左手を遣り、掛け金を外して広げた。汗ばんだ胸元から桂の葉、あるいはカラメルのような甘い香りが立ち昇る。氷点下の外気が肌を冷やし、ぶるり、と肩を震わせた。
集まった警官の一人が「ああ、将校さん。有難う御座いました」
「一時はどうなることかと思いましたが、お陰様で何とか取り押さえられました」
「いや、出しゃばってすまなかったな」
鼓動はまだ早いままで、
警官たちは男の拘束を終えて運びはじめた。担架で揺られる男を見送る間、
「何がしたかったんだあいつは」
「どうも他の男娼が言うには、人質の男とは前から金の貸し借りで揉めていたとか――――」
*****
薄暗い部屋の中。警官に囲まれて、床に女の死体が横たわる。男娼たちと同様のシミーズを身に着け、腹は大きく膨れている。胸元の刺し傷からは抉れた肉が見えるが、すでに血は乾きはじめている。警官に紛れて立つ
暫し死体を眺めたのち、
「この人形なら南洋で見たのう」
「保健省の推奨方式だからな。
二人の会話は小声で交わされ、仲間内であれこれ言い合うのに忙しい警官たちには届かなかった。
「そろそろ帰ろう。先に車へ戻っていてくれ」
配管裏の闇へ浅葱の着物が消え、
あっ、と警官たちの方から高い女の声が響いた。
「はい。髪を伸ばして化粧をしていたので、すぐには気付きませんでしたが……」
玉を転がすような声で女が答えた。男の方が
「ああ、お手柄の将校さんですね。どうも彼女が犯人を見知っているという話で」
「あの男、どこかで見覚えがあると思ったら、たしか同じ救児院にいた男です。友達がいない暗い男で、歳も違いますからほとんど話したことはありませんが」
「そうか。こういう稼業の者たちは身元を洗うのに時間が掛かりがちだからきっと助けになる。して、違法妊婦殺しの動機に心当たりはないか」
女は壁の血文字を眺め、制帽の下で臙脂の眼をぱちくりさせると、小首を傾げて答えた。
「べつに、弱い者なら誰でもよかったんじゃないでしょうか。彼は気晴らしに鼠や猫を虐めている、と皆が云っていました」
ううむ、と考え込む男に、遠くから別の警官が声を掛けた。
「すまない、呼ばれたからちょっと行ってくる。後でもう少し詳しく聞かせてくれ」
男が離れていくのを見送ると、女は
「軍医様、あの、私、
「いや、警察の仕事を邪魔してしまって悪かったね」
甘酸っぱい果実の香りが拡がり、
板で区切った迷路のような通路を柘榴の先導で進む。膝上丈のスカートと乗馬靴の間から覗く脚はぞっとするほど細い。いくらか歩いた後、柘榴は周囲に人気がないのを確認して立ち止まった。視界の端に先ほどの人形が映る。
柘榴は身体を
「実は最近、警察の中に犯人ありという噂があるのです」
「まず、警官たちは勤務中に殺されたため、犯人は行き先を知っていたのではないかと言う者がおります。それに、身元の分かっている被害者は全員、警察の違法妊婦捜査対象でした。ですので、警察の名簿を元に被害者を選んだのではないかと……」
「俄には信じがたいな」
「本当なら私も仲間を疑いたくはありませんが、疑わしい点が多いのです。警察が中々犯人に辿り着かないのも、内部の犯行と考えれば説明がつきます。ですので、ぜひ貴方様にこの事件の犯人を明らかにしていただきたいのです」
「そうは言っても……」
「殺された警官の一人は私の同期なのです。どうか彼の無念を晴らしてください」
柘榴が視界の端で相方の警官が戻ってくるのを捉えた。
「あの、では、これで」
暗い虹色の残影を残して柘榴が去る。
*****
再び車内。
メカクレは助手席から身を乗り出し、運転席の足元へ頭と腕を突っ込んでいる。
「気に入ったか。外付けだが、ハイマット・ラントから取り寄せた純正品だ」
ダッシュボードの裏には円筒形の暖房が付いており、そこから吹き出す温風が彼の髪と着物を揺らしていた。袖口からはミドリの頭も覗く。
「少し乾くが、
「しかし警察内部に犯人がいる可能性があるなら、独自に何か調べたほうがいいのかもしれないな。瑠璃雛菊の探偵遊びが実を結ぶことを期待するか」
「はて」メカクレは頭の位置を変えないまま返した。
「たとえば狼だ。人間からすると滅んだ筈のものだからな」
「そうだのう、心当たりというほどのものでもないが、このあたりなら丁度……ほれ、少し東に行くと、柳とススキの茂る川があろう」
「ここから東で柳とススキ。となると、創成川か」
「おそらく」
「あそこに狼が潜んでいるのか。元は用水路の細い川で隠れる場所もないし、街中だから人通りも多い。あまりそんな気はしないのだが」
「狼がいるかは判らぬが、狼の居場所を知る者がおるかもしれぬ」
バックミラーの中、瑠璃雛菊が近付いて来るのに
「すまない、少しここに隠れていてくれ」
「来ていたのか」
暗い声で瑠璃雛菊が返す。
「とっくに。逃げ出した店員達から話を聞いていたんです」
「そうか。それよりその脚では寒いだろう。こちらへ」
瑠璃雛菊は長外套を羽織っていたが前は開いていて、司令部で見せたのと同じ、短く詰めたスカートに膝上までの編上げ長靴を合わせている。露わな腿が冷えて赤くなっていた。
「探していたんだよ。狙撃を頼めないかと思って」
「無茶を仰らないでください。人質に当たったらどうするんですか」
「君でも難しいか」
「買い被りすぎですよ。訓練でどれだけ的に当てても、実戦で撃ったことはありませんから」
瑠璃雛菊が
「何故、柘榴と一緒だったのですか」
「知り合いだったのか。警察の内部事情を教えてくれると云うのでな」
「同じ救児院だったのです。あの子、多情なので有名でした。
「その上、賭場に出入りしたりもしていました。外面の良さで誤魔化して警官になったようですが、本当なら手錠を掛けられる側ですよ」
「そんなに機嫌を悪くしないでくれ。それより、店員たちが何と証言したか教えてはくれないかな」
むくれ顔のまま、瑠璃雛菊が返す。
「前からちょっと情緒不安定な奴だったけど、客に例のスナッフ・フィルムを見せられてから、違法妊婦はもっと厳しく罰するべきだとか言い出したらしいです」
「それであの壁の血文字というわけか」
「客の方から辿れないかとも思いましたが、例のフィルムを持っていた客は複数いるしどいつも素性が明らかではないとのことで、すぐには特定できなそうです。地下人形館に来るような輩ですから然もありなん、といったところでしょう」
「名探偵だな。警察も真っ青だ」
「
瑠璃雛菊が顔をほころばせ、まあ、綺麗な青、と言った。
「砂糖とバターで、冷えた身体も温まったかな」
ぴくり、内腿を震わせ、瑠璃雛菊が小さく頷いた。
「規律破りですって。この靴だって貴方がくださったのに」
ふふ、と
何故か
シャツの隙間からは、銀細工で縁取った
一方そのころメカクレは、真暗なトランクの中で丸まったまま、眼を閉じ、半ば開け、また閉じ。
*****
狭く薄暗い階段に反響する、軍靴がコンクリートを叩く音。階下へ向かう
「喋りすぎだ。そんなに気になるなら助手席でもトランクでも暴いてくればどうだ」
「いえ、そのような無礼は働けませんが、折角の機会と思いましたので」
はあ、と
「地元のお祭りでは、青蛇を串へ巻き付かせるように刺し貫いて、
岬浜は胸元から認識票を取り出した。革紐に小判型の真鍮板が二枚通されており、表面には部隊番号と兵籍番号が刻印されている。うち一枚を裏返すと、雲間を昇る龍の図が彫ってあった。
「
「普通に藍の
「でしたら。
「そういう問題ではないんだがな……」
二人が血文字の前に到着した。死体はすでに片付けられていたが、まだ床に血痕が残っている。壁を睨めつけながら
「それにしても模倣犯とは。存外、これが狙いかも判らんな」
「と云いますと」
「仮に、仮面の男が違法妊婦に深い恨みを抱きこれを根絶やさんとすれば、一人では到底手が足らぬ。民衆の憎悪を煽り、追随者を以て悲願成就の
「社会に仇なす云々は捜査撹乱のためであり、犯人は妊婦を拷問することに興奮を覚える倒錯者である、というのが警察の見立てだそうですが。
「どうだろうな……異常者の考えることは理解し難い。最早人間と云うより化け物だ。然らば或いは、蛇の道は蛇。あの化け物飼いの試みが理に適わんとも判らなくなってきたな…………」
部屋の奥でごとり、何かが落ちるような音がした。二人が音の来し方、通路の奥を覗き込む。見ると、突き当りに座る人形から頭が落ちていた。
*****
電灯を消した暗い部屋の中。
軍帽を被った女が丸椅子に腰掛け、僅かに開けたカーテンの隙間から双眼鏡で窓の外を見ている。女の双眼鏡の中には、ビルの入口で人質にナイフを突きつける男と、それを取り囲む警官たち、少し離れて
カーテンの陰へ、女が身を隠す。
部屋の奥の暗闇から、男の震える声。
「殺人事件ですか……物騒ですね……」
女は答えない。
「あの、うちはちゃんと営業許可も取っていまして………あの店みたいな、やくざ者の店とは違うと云いますか………」
カーテンの隙間から細く射す光が、床に置かれたセルロイド人形の瞳に反射する。肌は傷だらけで、色褪せた朱色のシミーズを着ている。暗がりの中、床に同様の人形や擦り切れた女物の衣服が散乱しているのが朧気に見える。
「人形だけでやっていて……保健所の検査も受けていますし、税金もきちんと……だからその……疚しいことはなにも…………」
双眼鏡の中、
軍帽の女は勢い良く音を立ててカーテンを閉め、立ち上がった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます