肆 模倣、人形

 長い廊下の床は板張りで、よく磨き込まれつやつやと光を放っている。

 黒電話を肩で挟む荊凍ケイテの耳元に、豊かな響きのアルトが鳴る。

「そういうわけでちょっと行ってきてくれないかしら。警察との約束は明日にでも延期すればいいわ」

 はあ、と間延びした返事の後に荊凍ケイテが続ける。

「妊娠した娼婦が殺された、と。それこそ憲兵の方が適任では。彼らなら逮捕権もある」

「憲兵隊からも何名か現場に向かうと聞いたわ。まあ、絶対行けとは言わないけど、瑠璃雛菊がもう向かってしまったのよ。探偵遊びが大層気に入ったみたい。ああ、それから」

 一瞬の間を起き、囁く。

を連れて行くなら、あまり目立たないようにね」

 受話器からカールコードを荊凍ケイテが指で弄ぶ。

「わかりましたよ。ぼくもすぐ向かいます。でも――――」

 荊凍ケイテは一度言葉を切ると、声を低め、小声で続けた。

は期待していますよ」

 ぎしり、電話の向こうで椅子が軋んだ。荊凍ケイテの脳内に、電話相手の脚を組み替える様が鮮明に思い描かれた。長い脚、ごわつくウールの軍袴ズボン、その内側の熱い膚。組まれた脚をほどき、膝を割って入らせ――――

「考えておくわ」



*****



 ミント・グリーンのカブトムシが、低層ビルの間を走る。


 札幌市街の中心部は碁盤の目に区画が整理されており、道は真っ直ぐ東西南北に伸びる。建物の間から覗く山々は厚い雲に覆われている。冬の札幌では定番の空模様だ。道には根雪、居並ぶコンクリートのビル。街は文字通りの灰色だった。の街を高速で駆ける

 助手席のメカクレは、膝の上に小振りの麻袋を抱えている。袋の口を緩めると、ミドリが袖から顔を出し、首を袋へ突っ込んだ。キイィ、キィと二十日鼠の鳴き声が車内に響く。

 荊凍ケイテがフロント・ガラス越しに視る灰色の景色に、青い人混みが現れた。雑居ビルの前に警察官が多数陣取っている。青い塊のそばにくすんだ青緑の軍服が二つ。灘舟タンシュウ曹長と岬浜上等兵――昨夕、夕焼病院を訪れていた憲兵たちだった。車は外套の裾を掠めて二人の横を通り抜け、通りの奥で止まった。

「危うく轢くところだが、あやつらもお主の仲間ではないのか」

「弱の憲兵だ。鹿の方がまだがある」

「同じに見えるのだがのう」

 彼に軍服の見分けなぞは付かないのであった。

 人垣は雑居ビルの入り口を囲っている。見ると薄手のシミーズを着た若い男が、似たような格好の男にナイフを突き付けて立っていた。二人とも整った顔立ちだが、長い髪は乱れ、汗と涙で化粧が崩れている。

「はて、あの珍妙な出で立ちは」

「男娼だろう。買春禁止令以降増えた。公衆衛生上の大惨事――――男同士はただでさえ感染症の伝播率が高いのに、不特定多数が相手となればいわんや、だ」

 荊凍ケイテは「待ってろ」とメカクレに声を掛けてから車を降り、建物へ向かった。

 人垣の端で奥を眺めていると、憲兵二人が近付いてきた。。

「今日は働いているようだな」

 灘舟タンシュウ曹長が口火を切った。荊凍ケイテ灘舟タンシュウの方を見ずに返す。

「臆病風邪の具合はどうだ」

「助手さんはご一緒ではありませんか」岬浜上等兵が割って入る。

「風邪を引いて病欠だ」

 岬浜が、あれ、と首を傾げて言う。

「助手席にいらしたと見えたのですが……」

「それより。妊婦が殺されたと聞いたのだが、男しかいないな」

 荊凍ケイテが岬浜の方を向いて問うた。

「死体は地下の店です。犯人は逃走しようとしたところを玄関前で警官に囲まれて、逃げ遅れた同僚を人質に取りました」

 玄関前から甲高い奇声が上がった。憲兵二人と荊凍ケイテが声の出処へ視線を向けた。

「逃げ出した者の証言によると、犯人は覚醒アミンを打った上でこの凶行に及んだとのことです」

「彼らは仲間内や、下手すると客とも回し打ちをする……公衆衛生上の大惨事だ……去年の地下人形館ロブラ集団感染を思い出す……うちの病院でも患者を受け入れたんだ」

 荊凍ケイテはぶつくさ呟きながら左右を見回す。ビルの前の道路は東西に長く伸びている。

「遠くから狙撃できないだろうか。左右から距離が取れそうだ」

「犯人から視認されない距離からの狙撃となると、拳銃では難しいです」

「なんだ小銃を持ってきていないのか……向かいのビルからだと近すぎるか」

 荊凍ケイテが振り返り背後のビルを見上げた。最上階の窓、カーテンの隙間で影が動いた。

「今、誰かこちらを見ていなかったか」

「騒ぎを気にして住人が見ていたのでしょう。とにかく、今のように気付かれてしまいますし、あそこからの狙撃は難しいかと」

「なら、青い長髪の上等兵が来ていないか。伝染病調査班の者だが、元は狙撃兵だ。彼女に頼めるかもしれない」

 暫く黙っていた灘舟タンシュウが苛立たしげに挟む。

「相当な自信だな。往来で民間人を相手に発砲すれば、上が煩いと思うがね。南洋帰りか何か知らないが、医者にしてはちと血の気が多すぎる」

 灘舟タンシュウは「行くぞ」と岬浜へ声を掛け、その場を後にした。遠くに立つ年若い刑事の顔を認めると、そちらへ向かって歩く。

 残った荊凍ケイテは聞くとはなしに警部と灘舟タンシュウの会話を小耳に挟む。「犯人の動機に心当たりは」「捜査本部の見解としては」云々。


 そうするうち、人垣の奥から一際高い声が響いた。玄関前で、ナイフを持った方の男が人質の首に刃を突き立てていた。勢いよく血が吹き出し、二人のシミーズに赤い染みを作る。


 荊凍ケイテの心臓がどくり、と大きく鳴った。心拍数が跳ね上がる。指先が震えるのを無理矢理に押さえて軍刀の柄を握った。男の叫びも警官の怒声も、厚い布越しのようにくぐもって、その上ゆっくりに聞こえる。


 人質は床に倒れ、ナイフを振り回す男が人垣へ突っ込んだ。警官の中にはサーベルを抜く者、一部には銃を構える者もいるが、誰も攻撃しない。先には人質、今は同僚たちの身体が盾になっていた。


 男が人垣を抜けて、荊凍ケイテの眼前に飛び出した。ナイフを振りかぶって飛びかかってくる。荊凍ケイテの後頭部がぞわりと締め上がり、引き攣ったように目が見開かれた。素早く軍刀を引き抜き、振り下ろした。男の身体がから血が吹き出す。宙を舞う飛沫。心臓は喉から飛び出すと思うほど高く鳴っている。

 男は膝をついて前のめりに倒れ込んだ。荊凍ケイテはそれを見下ろしながらゆっくり息を吐く。しばらくぶりに息をしたような錯覚――――実際には僅か数秒だった――――男の頭に切っ先を突き付け、からからに乾いた喉から一言絞り出した。

「動くな」


 すぐに警官たちが駆け寄り男を拘束しはじめた。シミーズの赤い染みはどんどん広がる。頭上の太陽は厚い雲に覆われている。光は手術室の無影灯のように散乱し、辺りの陰影は判然としない。灰色の雪の上に血が流れていく。南洋の記憶が蘇る――――血で染まる患者衣、病室の血溜まり――――

「素手で血に触れるな」

 軍刀を引いて自分の身体の脇まで戻すと、先ほどまで感じなかった重みがずしりと手に響いた。掌は汗でじっとりと濡れている。軍衣の襟に左手を遣り、掛け金を外して広げた。汗ばんだ胸元から桂の葉、あるいはカラメルのような甘い香りが立ち昇る。氷点下の外気が肌を冷やし、ぶるり、と肩を震わせた。

 集まった警官の一人が「ああ、将校さん。有難う御座いました」荊凍ケイテに声を掛ける。

「一時はどうなることかと思いましたが、お陰様で何とか取り押さえられました」

「いや、出しゃばってすまなかったな」

 鼓動はまだ早いままで、荊凍ケイテは自分の声が微かに震えていると相手に悟られていないか心配した。僅かに俯き、軍帽の鍔で視線を遮る。

 警官たちは男の拘束を終えて運びはじめた。担架で揺られる男を見送る間、荊凍ケイテは残った警官たちの会話に耳を傾けていた。

「何がしたかったんだあいつは」

「どうも他の男娼が言うには、人質の男とは前から金の貸し借りで揉めていたとか――――」

 荊凍ケイテの足元、踏み固められた雪の上を血が蛇行するのが視界に入った。目眩がする――――ぴゅう、と風が吹き、荊凍ケイテは大きく身震いした。



*****



 薄暗い部屋の中。警官に囲まれて、床に女の死体が横たわる。男娼たちと同様のシミーズを身に着け、腹は大きく膨れている。胸元の刺し傷からは抉れた肉が見えるが、すでに血は乾きはじめている。警官に紛れて立つ荊凍ケイテが背後の壁を見た。血文字で「社会に仇なす違法妊婦に罰を」と書いてある。


 暫し死体を眺めたのち、荊凍ケイテは部屋の奥へ向かった。部屋は広いがベニヤ板の仕切りとカーテンで小さく区切ってあり、見通しが悪い。突き当りの壁際まで辿り着くと、暗がりにセルロイド製の球体関節人形が転がっていた。こちらも死体と同様のシミーズで、片腕は肘から先があらぬ方向に曲がっている。

「この人形なら南洋で見たのう」

 荊凍ケイテの頭上から声が降った。天井を這う配管の隙間から、浅葱の裾が見え隠れする。

「保健省の推奨方式だからな。は使い捨てで衛生的だ。使い回さなければの話だが」

 二人の会話は小声で交わされ、仲間内であれこれ言い合うのに忙しい警官たちには届かなかった。

「そろそろ帰ろう。先に車へ戻っていてくれ」

 配管裏の闇へ浅葱の着物が消え、荊凍ケイテはそれを見送ると、改めて人形を見下ろした。人形の髪は紺の絹糸で、乱れた毛流れの隙間からガラスの瞳がちらりと光る。シミーズの胸元は裂け、生白い谷間が見えていた。外気に晒される場所と違って黄変が進んでいない。仕事で何度もは見てきたはずだった。荊凍ケイテは自分の心拍数を数えた。まだ早いままだった。再び視線が胸元に吸い寄せられる。ごくりと生唾を飲み込む。再び南洋の記憶が蘇る――――「樟脳漂うセルロイドの何がいいのやら。甘い柔肌とは較ぶべくもない」――――視線は潰れた肘へ、次にもう片方の肘へ。どうせならこちらも折ってしまっていいのでは――――――――


 あっ、と警官たちの方から高い女の声が響いた。荊凍ケイテは顔を上げて振り向き、警官たちのもとへ戻った。男の警官が「君、本当か」と痩せた若い女性警官へ問うている。

「はい。髪を伸ばして化粧をしていたので、すぐには気付きませんでしたが……」

 玉を転がすような声で女が答えた。男の方が荊凍ケイテに気付き、声を掛ける。

「ああ、お手柄の将校さんですね。どうも彼女が犯人を見知っているという話で」

「あの男、どこかで見覚えがあると思ったら、たしか同じ救児院にいた男です。友達がいない暗い男で、歳も違いますからほとんど話したことはありませんが」

「そうか。こういう稼業の者たちは身元を洗うのに時間が掛かりがちだからきっと助けになる。して、違法妊婦殺しの動機に心当たりはないか」

 女は壁の血文字を眺め、制帽の下で臙脂の眼をぱちくりさせると、小首を傾げて答えた。

「べつに、弱い者なら誰でもよかったんじゃないでしょうか。彼は気晴らしに鼠や猫を虐めている、と皆が云っていました」

 ううむ、と考え込む男に、遠くから別の警官が声を掛けた。

「すまない、呼ばれたからちょっと行ってくる。後でもう少し詳しく聞かせてくれ」

 男が離れていくのを見送ると、女は荊凍ケイテの方へ向き直り、胸に飛び込んだ。

「軍医様、あの、私、柘榴ざくろと申します。漢字は、そのまま果物の柘榴。危うくどうなることかと思いましたが、助けていただきありがとうございました」

「いや、警察の仕事を邪魔してしまって悪かったね」

 甘酸っぱい果実の香りが拡がり、荊凍ケイテは深く息を吸い込んだ。収まりかけていた鼓動がまた高鳴るのを感じた。そっと柘榴の肩に手を回す。しかし柘榴はすぐに身体を離し、「軍医様、あの、あちらに」と荊凍ケイテの手を引いていった。

 板で区切った迷路のような通路を柘榴の先導で進む。膝上丈のスカートと乗馬靴の間から覗く脚はぞっとするほど細い。いくらか歩いた後、柘榴は周囲に人気がないのを確認して立ち止まった。視界の端に先ほどの人形が映る。

 柘榴は身体を荊凍ケイテに寄せた。彼女の頭は丁度荊凍ケイテの首元にあった。荊凍ケイテの身体に制帽の鍔が当たり、柘榴は窮屈そうに制帽を取った。頬で鋭く前下がりに揃えた短髪は赤褐色で、虹の遊色を帯びている。柘榴は伸びをするように自由になった頭を振った。髪は揺れるたび、青にも黄にも移ろいで輝く。

 荊凍ケイテがその様に見惚れていると、柘榴が小声で話しはじめた。

「実は最近、警察の中に犯人ありという噂があるのです」

 荊凍ケイテが眉を顰めた。

「まず、警官たちは勤務中に殺されたため、犯人は行き先を知っていたのではないかと言う者がおります。それに、身元の分かっている被害者は全員、警察の違法妊婦捜査対象でした。ですので、警察の名簿を元に被害者を選んだのではないかと……」

「俄には信じがたいな」

「本当なら私も仲間を疑いたくはありませんが、疑わしい点が多いのです。警察が中々犯人に辿り着かないのも、内部の犯行と考えれば説明がつきます。ですので、ぜひ貴方様にこの事件の犯人を明らかにしていただきたいのです」

「そうは言っても……」

「殺された警官の一人は私の同期なのです。どうか彼の無念を晴らしてください」

 柘榴が視界の端で相方の警官が戻ってくるのを捉えた。

「あの、では、これで」

 暗い虹色の残影を残して柘榴が去る。荊凍ケイテは手を伸ばしかけたが、すぐに引っ込め、柘榴の残り香を吸い込んだ。



*****



 再び車内。

 メカクレは助手席から身を乗り出し、運転席の足元へ頭と腕を突っ込んでいる。

「気に入ったか。外付けだが、ハイマット・ラントから取り寄せた純正品だ」

 ダッシュボードの裏には円筒形の暖房が付いており、そこから吹き出す温風が彼の髪と着物を揺らしていた。袖口からはミドリの頭も覗く。

「少し乾くが、ぬくい」

「しかし警察内部に犯人がいる可能性があるなら、独自に何か調べたほうがいいのかもしれないな。瑠璃雛菊の探偵遊びが実を結ぶことを期待するか」

 荊凍ケイテが膝元に向け「もしくは、メカクレ。何か心当たりはないか」

「はて」メカクレは頭の位置を変えないまま返した。

「たとえば狼だ。人間からすると滅んだ筈のものだからな」

「そうだのう、心当たりというほどのものでもないが、このあたりなら丁度……ほれ、少し東に行くと、柳とススキの茂る川があろう」

「ここから東で柳とススキ。となると、創成川か」

「おそらく」

「あそこに狼が潜んでいるのか。元は用水路の細い川で隠れる場所もないし、街中だから人通りも多い。あまりそんな気はしないのだが」

「狼がいるかは判らぬが、狼の居場所を知る者がおるかもしれぬ」


 バックミラーの中、瑠璃雛菊が近付いて来るのに荊凍ケイテが気付いた。メカクレの腕を押し退けて足元のレバーを引く。がちゃりと音を立て、フロント・フードが僅かに開いた。この車はリア・エンジンで、トランクは前方にあった。荊凍ケイテは車を降りて助手席からメカクレを引っ張り出すと、トランクへ押し込んだ。

「すまない、少しここに隠れていてくれ」


 荊凍ケイテは車の後方に回り、向かってくる瑠璃雛菊へ声を掛けた。

「来ていたのか」

 暗い声で瑠璃雛菊が返す。

「とっくに。逃げ出した店員達から話を聞いていたんです」

「そうか。それよりその脚では寒いだろう。こちらへ」

 瑠璃雛菊は長外套を羽織っていたが前は開いていて、司令部で見せたのと同じ、短く詰めたスカートに膝上までの編上げ長靴を合わせている。露わな腿が冷えて赤くなっていた。荊凍ケイテは彼女を導いて助手席へ座らせ、自分は運転席に収まった。


「探していたんだよ。狙撃を頼めないかと思って」

「無茶を仰らないでください。人質に当たったらどうするんですか」

「君でも難しいか」

「買い被りすぎですよ。訓練でどれだけ的に当てても、実戦で撃ったことはありませんから」

 瑠璃雛菊が荊凍ケイテを睨んだ。むくれた顔で荊凍ケイテへ問う。

「何故、柘榴と一緒だったのですか」

「知り合いだったのか。警察の内部事情を教えてくれると云うのでな」

「同じ救児院だったのです。あの子、多情なので有名でした。紫晶華ショウカ《ショウカ》様が知ったらなんて言うかしら」

 荊凍ケイテは溜息をつき「それは知らなかった」

「その上、賭場に出入りしたりもしていました。外面の良さで誤魔化して警官になったようですが、本当なら手錠を掛けられる側ですよ」

「そんなに機嫌を悪くしないでくれ。それより、店員たちが何と証言したか教えてはくれないかな」

 むくれ顔のまま、瑠璃雛菊が返す。

「前からちょっと情緒不安定な奴だったけど、客に例のスナッフ・フィルムを見せられてから、違法妊婦はもっと厳しく罰するべきだとか言い出したらしいです」

「それであの壁の血文字というわけか」

「客の方から辿れないかとも思いましたが、例のフィルムを持っていた客は複数いるしどいつも素性が明らかではないとのことで、すぐには特定できなそうです。地下人形館に来るような輩ですから然もありなん、といったところでしょう」

「名探偵だな。警察も真っ青だ」

 荊凍ケイテが青い顔で言った。しかしすぐ色を取り戻し「青といえば、まだあれを渡していなかったな」と。運転席から身を乗り出して後部座席から風呂敷包を取り、瑠璃雛菊に手渡した。瑠璃雛菊が包みを開くと、長方形の缶があり、缶の中には押し花のように青い花を散らしたクッキーが入っていた。

矢車菊ヤグルマギクだ。ハイマットラントから取り寄せたんだ。最近は北海道でも観賞用に栽培するところがあるが、あちらでは菓子や茶に入れるのも盛んでね」

 瑠璃雛菊が顔をほころばせ、まあ、綺麗な青、と言った。荊凍ケイテがクッキーを一枚つまみ、瑠璃雛菊の口の前へ差し出すと、瑠璃雛菊が齧り付いた。半分ほど残ったクッキーを荊凍ケイテが自分の口へ放り込んだ。瑠璃雛菊が食べ終わったのを見計らって、助手席へ身を乗り出し、手を彼女の腿へ置いた。

「砂糖とバターで、冷えた身体も温まったかな」

 ぴくり、内腿を震わせ、瑠璃雛菊が小さく頷いた。

 荊凍ケイテが、しかし、と呟き、「内勤だからと規律破りを見逃していたが、外でもこんな格好とは困るね」

「規律破りですって。この靴だって貴方がくださったのに」

 ふふ、と荊凍ケイテは笑みを漏らし、「それはそうだが、困るのは本当さ。他の奴らに見られるのはどうにも癪だ……」

 荊凍ケイテが、閉じた腿の間へ指先を差し入れた。瑠璃は一度長く呼吸を吐くと、そっと腿を開いた。荊凍ケイテが隙間に手を滑り込ませる。圧迫感を楽しむよう左右に幾度か動かしたあと手を引き抜くと、今度は軍衣の襟にかけ、留め金を外した。胸元から甘さを帯びたマリン・ノートが立ち昇る。シャツの一番上の釦も外し、生白い膚を露わにする。

 何故か荊凍ケイテは人形の胸を思い出した――――鳥肌が立ち、ぞくりと肩が震えた。打ち棄てられ半ば干乾びたセルロイド、薄っすら汗ばんで輝く膚――――

 シャツの隙間からは、銀細工で縁取った瑠璃ラピスラズリのペンダントが覗いている。荊凍ケイテは軽く頭を振って脳裏の光景を払うと、瑠璃雛菊の胸元へそっと顔を寄せ、瑠璃ラピスラズリに口づけた――――


 一方そのころメカクレは、真暗なトランクの中で丸まったまま、眼を閉じ、半ば開け、また閉じ。



*****



 狭く薄暗い階段に反響する、軍靴がコンクリートを叩く音。階下へ向かう灘舟タンシュウを、岬浜が追う。

「喋りすぎだ。そんなに気になるなら助手席でもトランクでも暴いてくればどうだ」

「いえ、そのような無礼は働けませんが、折角の機会と思いましたので」

 はあ、と灘舟タンシュウが溜息をつく。

「地元のお祭りでは、青蛇を串へ巻き付かせるように刺し貫いて、水巳那みみな様の昇天の様子を再現したものを掲げて練り歩くのですが、幼い時分よりその蛇を育てる役目を仰せつかっておりました」

 岬浜は胸元から認識票を取り出した。革紐に小判型の真鍮板が二枚通されており、表面には部隊番号と兵籍番号が刻印されている。うち一枚を裏返すと、雲間を昇る龍の図が彫ってあった。

灘舟タンシュウ曹長のところは何を奉じていらっしゃるのです」

「普通に藍の美上ミカミさんなんぞだよ」

「でしたら。水巳那みみな様が大昇天のあとにどちらへお忍びになったか、ご存知ないとは仰らないでしょう」

「そういう問題ではないんだがな……」


 二人が血文字の前に到着した。死体はすでに片付けられていたが、まだ床に血痕が残っている。壁を睨めつけながら灘舟タンシュウが言う。

「それにしても模倣犯とは。存外、これが狙いかも判らんな」

「と云いますと」

「仮に、仮面の男が違法妊婦に深い恨みを抱きこれを根絶やさんとすれば、一人では到底手が足らぬ。民衆の憎悪を煽り、追随者を以て悲願成就のたすけにするという企み」

「社会に仇なす云々は捜査撹乱のためであり、犯人は妊婦を拷問することに興奮を覚える倒錯者である、というのが警察の見立てだそうですが。灘舟タンシュウ曹長は、違法妊婦の根絶こそが犯人の目的とお考えですか」

「どうだろうな……異常者の考えることは理解し難い。最早人間と云うより化け物だ。然らば或いは、蛇の道は蛇。あの化け物飼いの試みが理に適わんとも判らなくなってきたな…………」

 部屋の奥でごとり、何かが落ちるような音がした。二人が音の来し方、通路の奥を覗き込む。見ると、突き当りに座る人形から頭が落ちていた。



*****



 電灯を消した暗い部屋の中。

 軍帽を被った女が丸椅子に腰掛け、僅かに開けたカーテンの隙間から双眼鏡で窓の外を見ている。女の双眼鏡の中には、ビルの入口で人質にナイフを突きつける男と、それを取り囲む警官たち、少し離れて荊凍ケイテと二人の警官が見える。荊凍ケイテがこちらを振り返った。

 カーテンの陰へ、女が身を隠す。

 部屋の奥の暗闇から、男の震える声。

「殺人事件ですか……物騒ですね……」

 女は答えない。

「あの、うちはちゃんと営業許可も取っていまして………あの店みたいな、やくざ者の店とは違うと云いますか………」

 カーテンの隙間から細く射す光が、床に置かれたセルロイド人形の瞳に反射する。肌は傷だらけで、色褪せた朱色のシミーズを着ている。暗がりの中、床に同様の人形や擦り切れた女物の衣服が散乱しているのが朧気に見える。

「人形だけでやっていて……保健所の検査も受けていますし、税金もきちんと……だからその……疚しいことはなにも…………」

 双眼鏡の中、荊凍ケイテが刀を振るった。男が膝をつき倒れ込む。

 軍帽の女は勢い良く音を立ててカーテンを閉め、立ち上がった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る