二日目

参 白い水、赤い水

 昨日と同じ、窓のない小部屋。

 荊凍ケイテと年若い女性兵士が並んで座る。瑠璃ルリ雛菊ヒナギク――荊凍ケイテが昨日の出がけに遭った兵士である。

「狼ですか」

「ああ。あの毛を詳しく調べたところ判明した」

「もう、絶滅したものと思っていました」

 瑠璃雛菊はそう言うと、部屋の中を見回すと熱っぽい目で荊凍ケイテを見詰めて「ところで中尉、助手さんはどちらに」と尋ねた。荊凍ケイテが視線を返しながら答える。

「まだ来ていない。今日は午後からだ」

 瑠璃雛菊が肩を荊凍ケイテに寄せた。

「もし、狼の生き残りがまだ潜んでいたら怖いです」

「怖いだなんて、嘘をつけ」

 ふふ、と微笑んで瑠璃雛菊は席を立ち、机に地図を広げはじめた。

 背中まで伸ばした瑠璃紺の髪。切り揃えた前髪と、ツンと尖った小振りなあごが、少し吊った大きな眼を際立たせている。下士官兵用の上衣に短く詰めたスカート、その丈を補うかのように膝まで覆う編上靴を合わせている。

「やっぱりばれてしまいました。ねえ、絶滅したはずの狼が、なんて、探偵小説みたい」

瑠璃ルリ雛菊ヒナギクはそういうのが好きだな」

「前に、健康証明なし密入港者の取締りを手伝ったことがあるでしょう。あれ、結構気に入っていたんです」

「探偵みたいで、ということか」

 ええ、と瑠璃雛菊は微笑んだ。小さな顔に大きな瞳、薄い唇に上がった口角。悪戯っぽく笑う様は、新しい玩具を狙う猫を思わせた。

 瑠璃雛菊は机の上に屈んで地図を覗き込んだ。彼女の動きにあわせて瑠璃紺の髪も揺れ、黴臭い部屋に人工の潮風マリン・ノートが吹く。西瓜すいかを思わせる合成香料の香り。

「最初の警官二人が殺された場所を覚えてらっしゃいますか」

「中島公園だったか」

「はい」

 瑠璃雛菊が地図に鉛筆で二箇所に丸印を付けた。陸軍司令部から西にいくらか行った地点に一つ目の丸、平岸霊苑。そこから北西に行くと太い河――――豊平川を挟んで二つ目の丸、中島公園がある。

「ちょっと札幌郡の南部に寄っていますよね。ですから、狼が潜むなら藻岩山とか」

 二つの点の南西に、三つ目の丸が付けられ、丁度正三角形に近い形になった。瑠璃雛菊が地図を指差しながら話す。

「藻岩山から中島公園へは豊平川の河川敷を伝って行けます。平岸霊苑にも、河川敷と林を伝って行けそうです」

「サンプル数が二つだけでは、なんとも」

「結構いい線行ったと思ったんですけど」

 瑠璃雛菊は地図を脇へ除け、机に寄り掛かるよう浅く腰を掛けた。スカートの裾がずり上がり、腿が露わになる。荊凍ケイテの視線が腿に吸い寄せられる。

「藻岩山に潜む狼でなければ……軍によるロブラの人体実験映像が流出したのを誤魔化すため、という噂なら荊凍ケイテ様もご存知でしょう」

「ただの噂だ」

「あとは、女子狙撃部隊で噂していた、中島公園の見世物小屋から怪力男が抜け出して兇行に及んだ説……」

「女性狙撃部隊では探偵小説、いや怪奇小説の輪読会でもしていたのか」

「だって、折角訓練を終えたのに実戦投入前に終戦、はい解散、でしょう。刺激に飢えているんです」

 瑠璃雛菊は机から腰を降ろすと、荊凍ケイテの膝を跨ぐように立った。両手を荊凍ケイテの首の後ろに回し、指先で項をそっと撫でる。しなやかな所作もやはり猫のよう。荊凍ケイテの髪が、ぞわり、微かに逆立つ。

「物騒だな。そんなに刺激が足りなければ、またバーで洋酒でも呑もうか」

 瑠璃雛菊が両手で顔を覆った。

「この間は潰れてしまって、失礼しました」

「いや、君の新たな一面が見れてよかったよ」

 荊凍ケイテはそっと瑠璃雛菊の内腿に片手を置き、指先だけをスカートの下に潜りこませると、ゆっくり円を描くよう膚を撫ではじめた。瑠璃雛菊の内腿に力が入る。少し小さくなった声で瑠璃雛菊が返す。

「と、とにかく、私たちが事件解決に貢献できたら紫晶華ショウカ様も褒めてくださいますよ」

「まあ、紫晶華ショウカ様が妙に乗り気なのは認めるが、どうしたものかね。軍医が手柄を上げる希少な機会とでもお考えなのか」

 荊凍ケイテは瑠璃雛菊の腰を引き付けるようにして下に降ろし、膝の上へ座らせた。

「本当に刺激が足りないかな」

 瑠璃雛菊の髪を一房手に取り顔を寄せると、彼女の目を見詰めながら息を吸いこんだ。マリン・ノートが鼻腔を満たす。瑠璃雛菊は赤面し眼を伏せた。

「最近合成されたばかりのカロン香料を使った香水だ。珍しい香りだからお気に召すか不安だったが、気に入ってくれたかな」

「ええ……とても爽やかな香り」

「それはよかった。君に似合うと思ったんだ。リスブランから取り寄せた甲斐があった」

 荊凍ケイテは微笑み、瑠璃雛菊の頭に手を回して引き寄せた――――――――



*****



 部屋を出ていく瑠璃雛菊を見送ると、荊凍ケイテが壁際の書棚に向け声を掛けた。

「もう出てきていいぞ」

 壁際の書棚がごとりと揺れ、下半分にある鉄の引き戸が開き、メカクレが這い出してきた。くあぁ、と大きく欠伸をする。

「瑠璃雛菊の話を聞いて思い出した。このフィルムも見ておこう。冊子の最終頁にあった写真のものだ」

 荊凍ケイテが棚からフィルムを一つ引っ張り出して映写機へセットし、電源を入れた。



 『一日目』と筆文字が大きくスクリーンに映し出された。


 荊凍ケイテが厚切りのベーコンを挟んだサンドイッチに齧りつく。メカクレは掌で二十日鼠を弄んでいる。


 スクリーンには椅子に縛り付けられた女。腹はこれまでの女と同様大きく膨れている。見たところ傷もない。画面が切り替わる。『二日目』、『三日目』――――

『四日目』女の全身が震えている。

『五日目』鼻血を流しだす。

『六日目』目と口からも、血がだらだらと流れている。


「君も南洋で散々見て今更説明する必要もないだろうが。ロブランシュ劇症出血熱だ」

 メカクレの袖からミドリが顔を出し、二十日鼠に噛み付くと同時に胴で締め上げた。


「全身が震えているのは高熱によるものだろう。目鼻歯茎、全身の粘膜からの出血……教科書通りの症例だ。それに耳。他の出血熱だと耳からの出血は多くない。あっても相当に重症化してからだ」


『八日目』下半身の服は血で染まり、裾から滴った血で床には血溜まり。


「妊婦だと子宮からの出血は特に多いな。南洋では妊婦の症例は見なかった。それにしてもこの血溜まり……何が白い水、l'eau blancheロブランシュだ、これではではないかとよく言い合ったものだ」

「白い水が、なんと」

l'eau blancheロブランシュとはリスブラン語で白い水を意味するんだ。ロブラが発見されたのはロブランシュ島という島なのだが、島にある石灰を含む水質の白い川に因むそうだ」


『九日目』胸に二つの大きな血染み。


「思春期以降の女性で服で擦れた乳頭から出血する症例が多いのだが、妊婦はそもそも乳頭が肥大・充血する傾向があるからか、より顕著だな」


『十日目』耳と手の指先からも出血。腕には点滴。


「映像が荒くわかりにくいが、耳と、おそらく爪と肉の間から出血している。しかしこの点滴はなんだ。本当に入っているかも、目的も不明だ。少しでも苦痛を長引かせようというのか」

 荊凍ケイテはサンドイッチの最後の一片を牛乳で流し込んだ。

「見ているとやはり南洋を思い出す」

 電灯を消したスクリーンからの光が、ぼうっと荊凍ケイテの顔を照らす。

「折角生きて北海道に帰ってこれたというのに、またロブラとは。最近は札幌郡での感染報告はほぼなかったのだ。小樽や函館といった港町では突発的な罹患者が出ているが、みな本州からの渡航者や引揚者たちだ」

 荊凍ケイテの目の裏、かつて見た画面が浮かんだ。口の端に血の泡を蓄え血が出るまで腕を掻き毟る少年。映像は切替わり、虚ろな眼と半開きの唇から血を流す女、血池に沈んだ死体へ怖々と手を伸ばす衛生兵。それから注射を射つ震えるゴム手袋――――これは自分の手だ――――

 メカクレの口のから、たらり垂れた薄緋うすひの尾が、ちゅるりと呑み込まれていった。


「軍から応援という話になったとき、当然最初は憲兵が、という流れになり、彼らも最初は勇んでいた。しかし、このフィルムが出てから急に弱腰になって、民間の犯罪取締は憲兵の本分ではないだのと言い出した。ロブラ爆弾の再来とでも考えたようだ」

 メカクレは首を傾げている。

「ああ……終戦直前、ロブラに罹患した兵士が国会議事堂で自爆した事件があって、処理にあたった憲兵隊から多数の罹患者と死者が出たんだ」

 荊凍ケイテは席を立つと背後の書棚をあさりはじめた。たしかこのあたりに、などと呟いている。

「これだ」

 スクラップ・ブックを開いて机上に置いた。新聞の切り抜きが貼り付けてある。



  白昼の兇行キョウコウ 国会でロブラ爆弾炸裂す

   昨日正午頃、下院審議中の議事堂に武装した兵士三名が乱入し、その場で手榴弾による自害を図った。二名は即死し一名は意識不明の重体である。議事堂内には至る所三人の血肉が飛び散り阿鼻叫喚の様相となったが、真の悲劇の幕開けは、遺書の発見時であった。遺書によれば、三名はいずれもロブラに罹患しており、兵士の血肉を浴びた議員には恐慌状態に陥る者も多く、当初無防備で現場処理に当たった憲兵や消防も同様だった。

   また、遺書では「庭まで患者と死体に溢れた病院」「灰色の災獣たるロブラヤマネに覆われた銀座の街道」「一家全滅した無人の家が並ぶ沖縄の村々」などを挙げてロブラに脅かされる市民生活の窮状を訴え、速やかな戦争停止とロブラ対策の徹底を求めていた。なお遺書全文は三面を参照をされたし。………


  ロブラ爆弾 生き残りの犯人死亡

   悪夢のロブラ爆弾事件から一週間、ロブラ爆弾の生き残りの犯人が死亡した。回復後の動機解明を期待する声もあったが、入院時にはすでに会話ができるような状態ではなかったため、本人への聴取はついぞ実現せず、手掛かりは遺書のみとなった。

   なお現在の被害状況として、下院議員は現在わかっているだけで百余名が罹患しており、事件処理に当たった憲兵隊や消防からも多数の罹患者が出ている。有識者によると、ロブラの死亡率を鑑みたところ、今後発症者は増え、死者は数十名に登るだろうとのことである。

   また、ロブラ爆弾事件以降、官公庁や軍施設を狙った模倣犯が発生しており、厭戦の気分は最高潮に達している。関係筋によると政府は先に連合軍より提示された降伏文書の受諾を検討している。その場合、戦闘行為は即時中止し藍空聯邦は解体、外地では武装解除と撤退が求められ………


  ロブラ爆弾 最後の入院議員が死亡

   昨日、衆議院議員のうち最後の入院患者であった浄吉氏が死亡した。これまでに議員だけで死者四十九名、罹患者は約百五十名となっている。事件処理に当たった憲兵に警察・消防、病院関係者などからも多数の死者が出ている。

   しかし病院からロブラ爆弾の被害者が消えたのちも、ロブラ患者自体は絶えず病院にある。屋外で夜を超す患者もいる中、特別待遇で個室へ入院していた議員たちへの批判も多い。降伏文書受諾の発表から半月が過ぎ、外地での戦闘行為は収束に向かいつつあるが、藍空本土では依然ロブラとの闘いが続くものと思われる。

   また、北部統括軍は依然として本州からの船は民間船舶であっても撃沈するとの構えを崩さず、西部軍も同様に海上封鎖を継続し、奄美・琉球からの船は…………



「憲兵は前線に出る兵科と比べて人死にが少ない。ロブラ爆弾が憲兵隊史上最大の死者を出したそうだ。それで、あのフィルムを見て弱腰になるだけなら良かったが、うちの課長が妙に乗り気なのだ。ロブラ対策が伝染病調査班の仕事であり、民間の殺人事件は管轄外のように思われるのだが」

 荊凍ケイテはここで一息ついて茶を呷った。

「結局、正式には警察が捜査を続けるが憲兵も少人数で捜査を行う。伝染病調査班も医学的観点から資料分析などに協力する、ということになった」


 スクリーンの妊婦は全身血に塗れ、ぴくりとも動かなくなっていた。


「いっそ瑠璃雛菊の言う通り軍の人体実験資料の流出だったらよかったかもしれないな。それなら確実に憲兵の仕事だ」

「はて」

「元々はこのフィルムだけが流出したのを、カモフラージュのために他のスナッフ・フィルムも作成して異常性慾者の仕業に見せ掛けようとしている、という荒唐無稽な噂がある。話が飛躍しすぎているし、それならこのフィルムの説明がつかない」


 荊凍ケイテが次のフィルムを替える間、メカクレは机上の虫籠から二十日鼠をつまみ出すと、尾を持って揺らしはじめた。袖からミドリが顔を出し、長い舌を幾度か出し入れした後、二十日鼠に噛み付くと同時に胴で巻き付いて締め上げた。二十日鼠は一瞬、キィ、と声を上げたがすぐ動かなくなった。ミドリが二十日鼠の頭に喰らい付き、その口の動きに合わせてに二十日鼠が少しずつ呑み込まれていく。



 スクリーンが白く光り、同じ筆文字を映した。


 スクリーンには横たわる女を斜め上から映し出す。腹部のカメラはベッドの真横より少し上方に据えられているようだ。前合わせの患者衣は紐が解かれているが、胸の下部と膝の上でも縄を巻かれていて、胸と膝で縄で止まるため、腹だけが肌蹴たようになっている。


「この膨らみ具合だと大体六ヶ月か七ヶ月といったところか。服越しでもだいぶ目立って来る時期だ」


 ペスト医師マスクを着けた痩身の者が現れ、鉄パイプのようなものを女の脚の間に差入れはじめた。服の影で挿れたかは見えない。女が激しく身を捩る。脚の間がみるみる〝黒く〟染まる――――ペスト医者が手を進めていくと、女の腹が、一箇所細く膨らんだ。女が一層激しく身を捩り頭を振る。皮膚はゴムのように伸び続け、パイプの形がわかるほど。しかしそのうち伸び切ったのか、皮膚は裂け、鉄パイプが顔を出した。


「このあたりだ」

 荊凍ケイテがスクリーンを指差した。

「今見たように人間の皮膚というのは存外弾力に富んでいてなかなか千切れない。例えば戦場でそれこそ手足が吹き飛ぶような大怪我をしても、辛うじて皮膚一枚で繋がっているようなことは多い。それをこの男は軽々と、先の鈍い棒で突き破っている」


 男が立ち去り、画面の中から消えた。


「とにかく、喉を握り潰された警官にしろ今のフィルムにせよ、まっとうな人間の仕業とは思われない。軍の人体実験とは言っても、まさか怪力の人造人間を作っていたわけでもあるまいし」



 画面に戻った男は火ばさみに〝黒く細長い木の棒〟のようなものを持っていた。女の腹から伸びた鉄パイプに木を差入れた。スクリーンに映る女の全身が痙攣し、ベッドごと大きく揺れはじめた。肉の焼ける匂いがスクリーンから漂ってくるようだった。



「押収したスナッフ・フィルムは他にもあるがどれも似たりよったりで、もう十分だろう」

 荊凍ケイテが映写機のスイッチを切り、部屋が真っ暗になった。カタカタという音と、一拍遅れてモーターのファンが回る音も止み、辺りが急に静かになった。荊凍ケイテがフィルムと映写機を片付けながらごちる。

「本当はこんなことをしている場合ではないのだがな。営内における衛生管理計画の策定に、ロブラ血清療法の研究。やることは山積みだ。しかも明日から小樽に引揚の船団が入るので、伝染病調査班だけではなく衛生課全体が検疫の準備でパンク寸前ときた」

 メカクレがくぁ、と欠伸をし、ミドリが続いた。



*****



「こら。食べ物じゃないんだ」

 荊凍ケイテがミドリの頭を押し退ける。

「メカクレもやめろ、そんな目で見るな」

 メカクレの視線の先、荊凍ケイテの胸にモモンガが張り付いている。青みがかった灰褐色の毛並み。メカクレの視線に気付くと身体をびくりと大きく震わせ、荊凍ケイテの胸ポケットへするりと這入り込んだ。

「ああ、隠れてしまったではないか」

 二人はカフェテーブルを挟んで向かい合っている。皿の上には食べさしの巻き寿司。室内には天蓋付きのベッドやウォールナットの書棚、両開きの洋箪笥ワードローブなどが配置されていた。

「大人しくそちらを喰っていろ」

 荊凍ケイテは胡座で座るメカクレの膝を指した。二十日鼠の蠢く虫籠が載っている。

「どう違うか判らぬ」

「大違いだ。そちらは実験用の二十日鼠。北大医学部の研究室からも貰ってきたんだ。ザフィアはソウギョクモモンガで、ぼくのペットだ。ほら、こんなに可愛い」

 荊凍ケイテがポケットを指でつつくと、ザフィアが顔だけ出した。夜行性の動物特有の、大きな黒い瞳が目を惹く。荊凍ケイテが指で首元を撫でるとそれに応えて指を舐める。

は触るなと、南洋では煩く云っておったのに」

「当然だ。ロブランシュヤマネはロブラを媒介する。君は感染しないかもしれないがぼくに伝染ると大事おおごとだ。と云っても、北海道にはいないはずだが」

「たしかに、見ぬ」

「ロブランシュヤマネは寒さに弱いからな。その点ソウギョクモモンガの原産地は北極圏にも近い高緯度帯で、寒さに強い。その分暑さには弱いが、札幌で飼うのには問題ない。やはり大違いじゃないか」

 メカクレは首を傾げ、袖から顔だけ出したミドリも同じ仕草をした。荊凍ケイテは小さく溜息をついた。

「しかし、可愛らしいのと、人によく懐くところが似ているのは認める。ロブランシュヤマネも発見当初は、柔らかな灰褐色の毛並み、掌に収まる小さな躰、房のような尻尾を振る様子で、無聊の兵士たちを魅了した」

 蛇たちは虫籠の二十日鼠を呑み始めた。

 荊凍ケイテはとんとんと指で胸ポケットを叩いた。ザフィアが顔だけ出し、キョロキョロと周囲を見回す。捕食者の興味が己に向いていないことを確認するとポケットから這い出し、荊凍ケイテの首元まで登ってきた。

「ふふ、くすぐったいな」

 ザフィアが荊凍ケイテの首筋に身体を擦り付ける。体色が若干青みがかっている以外は北海道固有亜種のエゾモモンガとほぼ同様の外見だ。

「危ないからもうお家にお帰り」

 荊凍ケイテがケージの開口部を指で叩くと、ザフィアは飛膜を広げて肩から滑空し、自らゲージの中に戻った。ザフィアが巣箱の中に潜り込むのを見届けたのち荊凍ケイテがゲージの扉を閉めた。

「とにかく、この後は札幌警察署の刑事とやらがスナッフ・フィルムの調査報告書を取りに来るんた。ぼくは一度司令部に戻るが君たちはここで待っていてくれ。絶対にザフィアを食べるなよ」

 荊凍ケイテは巻き寿司の残りを茶で流し込み、口元を拭うと、鏡台を覗き込んで髪を直しはじめた。背の高い三面鏡に整った横顔が映る。ツンと尖った鼻先に、くるりと山形に反り返る上唇と、艶のある薄い下唇。歯に海苔が残っていないことの確認も怠らない。歯列は弓形を描き、真珠のように白く輝いている。

 軍帽がアッシュ・ブロンドの上に載ったところで、黒電話が鳴った。荊凍ケイテは身支度の手を止め、遠くで鳴るくぐもったベルの音に耳を傾ける。そのうちにベルが止み、ややあって、扉をノックする音。

「お嬢様、課長さんからお電話が……その、薄野の地下人形館で模倣犯が出たとか……」

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