二日目

参 白い水、赤い水

 昨日と同じ、窓のない小部屋。

 机に向かい、荊凍ケイテと年若い女性兵士が並んで座る。瑠璃ルリ雛菊ヒナギク――荊凍ケイテが昨日の出がけに遭った兵士である。切り揃えた前髪と、ツンと尖った小振りなあごが、少し吊った大きな金の眼を際立たせている。

「狼ですか」

「あゝ。あの毛を詳しく調べたところ判明した」

「もう、絶滅したものと思っておりました」

 瑠璃ルリ雛菊ヒナギクはそう言うと、部屋の中を見回し、熱っぽい目で荊凍ケイテを見詰めて「ところで中尉、助手さんは何方どちらに」と尋ねた。荊凍ケイテが視線を返しながら答える。

だ来ていない。今日は午後からだ」

 瑠璃ルリ雛菊ヒナギクが、肩を荊凍ケイテに寄せた。

「もし、狼の生き残りがまだ潜んでいたら恐ろしいです」

「恐ろしいだなんて、嘘をつけ」

 ふふ、と瑠璃ルリ雛菊ヒナギクが微笑んだ。小さな顔に大きな瞳、薄い唇に上がった口角で、悪戯いたずらっぽく笑う様は、新しい玩具を狙う猫のようだった。

「やっぱり、バレてしまいました。ねえ、絶滅したはずの狼が、なんて、探偵小説みたいではありませんか」

瑠璃ルリ雛菊ヒナギクはそういうのが好きだな」

「前に、健康証明なし密入港者の取締りを手伝ったことがあるでしょう。私、結構楽しんでやっていたのですよ」

「探偵みたいで、ということかね」

 ええ、と答えて瑠璃ルリ雛菊ヒナギクは席を立った。ももを覆うのは短く詰めたスカートで、その丈を補うかのように膝まで覆うレースアップ・ブーツを合わせている。彼女の動きにあわせて瑠璃紺るりこんの髪も揺れ、かび臭い部屋に人工の潮風マリン・ノートが吹く。西瓜すいかを思わせる、人造香料の香り。

 瑠璃ルリ雛菊ヒナギクは、書棚から折り畳まれた紙を取り出した。机に戻り、紙を広げて覗き込む。札幌郡近郊の地図だった。

「最初の警官二人が殺された場所を覚えてらっしゃいますか」

「中島公園だったかな」

「はい」

 瑠璃ルリ雛菊ヒナギクが、地図に鉛筆で二つ丸印を付けた。陸軍司令部から西にいくらか行った地点に一つ目の丸、平岸霊苑ひらぎしれいえん。そこから北西に行くと太いかわ――豊平川とよひらがわを挟んで二つ目の丸、中島なかじま公園がある。

「ちょっと、札幌郡の南部に寄っているでしょう。ですから、狼が潜むなら、藻岩山もいわやまなど怪しいと思うのです」

 二つの点の南西に、三つ目の丸が付けられ、丁度正三角形に近い形になった。瑠璃ルリ雛菊ヒナギクが地図を指差しながら話す。

藻岩山もいわやまから中島公園へは、豊平川の河川敷をつたって行けます。平岸霊苑ひらぎしれいえんにも、河川敷と林をつたって行けそうです」

「サンプル数が二つだけでは、なんとも言い難いように思われるが」

い線と思ったのですけれど」

 瑠璃ルリ雛菊ヒナギクは地図を脇へ避け、机に寄り掛かるよう、浅く腰を掛けた。スカートの裾がずり上がり、生白い腿があらわわになる。荊凍ケイテの視線が腿に吸い寄せられる。

藻岩山もいわやまひそむ狼でなければ……軍によるロブラの人体実験映像が流出したのを誤魔化すため、という噂なら荊凍ケイテ様も御存知でしょう」

「只の噂だ」

「そうですけれども……他には、同期たちと噂していた、中島公園の見世物小屋から、怪力男が抜け出して、兇行きょうこうに及んだ説は如何いかがでしょう」

「女性狙撃部隊では、探偵小説、いや、怪奇小説の輪読会でもしていたのかね」

「だって、せっかく訓練を終えたのに、実戦投入前に終戦、はい解散、でしょう。刺激に飢えているんです」

 さらりと言ってのけた玉の声は、しゃらん、猫の鈴が鳴るかのよう。瑠璃ルリ雛菊ヒナギクは机から腰を降ろすと、荊凍ケイテの膝をまたぐように立った。両手を荊凍ケイテの首の後ろに回し、指先でうなじをそっと撫でる。しなやかな所作しょさもやはり猫のよう。荊凍ケイテの髪が、ぞわり、かすかに逆立つ。

「物騒だな。そんなに刺激が足りなければ、また洋酒を呑みにバーでも行こうか」

 瑠璃ルリ雛菊ヒナギクは、ぱっと両手で顔を覆った。

「先日は潰れてしまって、失礼しました」

いや、君の新たな一面が見れて良かったよ」

 荊凍ケイテはそっと瑠璃ルリ雛菊ヒナギクの内腿に片手を載せ、指先だけをスカートの下に潜りこませると、ゆっくり円を描くようはだを撫ではじめた。瑠璃ルリ雛菊ヒナギクの内腿に力が入る。少し小さくなった声で瑠璃ルリ雛菊ヒナギクが言う。

「と、とにかく、私たちが事件解決に貢献できたら、紫晶華ショウカ様も褒めてくださいますよ」

「まあ、紫晶華ショウカ様が妙に乗り気なのは認めるが、如何どうしたものかね。軍医が手柄を上げる希少な機会とでもお考えなのか」

 荊凍ケイテ瑠璃ルリ雛菊ヒナギクの腰を引き付けるようにして下に降ろし、自らの膝へ座らせた。

「本当に刺激が足りないかな」

 瑠璃ルリ雛菊ヒナギクの髪を一房ひとふさ手に取り顔を寄せると、彼女の目を見詰めながら息を吸いこんだ。マリン・ノートが鼻腔びくうを満たす。瑠璃ルリ雛菊ヒナギクは赤面し眼を伏せた。

「最近合成されたばかりのカロン香料を使った香水だ。珍しい香りだから、お気に召すか不安だったが、気に入ってくれたかな」

「えゝ……とても爽やかな香り」俯いたまま、瑠璃ルリ雛菊ヒナギクが甘い声で答えた。

「それは良かった。君に似合うと思ったんだ。リスブランから取り寄せた甲斐かいがあった」

 荊凍ケイテは微笑み、瑠璃ルリ雛菊ヒナギクの後頭部に手を回して、自身の顔へ引き寄せた――――



*****



 部屋を出ていく瑠璃ルリ雛菊ヒナギクを見送ると、荊凍ケイテが壁際の書棚に向け声を掛けた。

「もう出てきていぞ」

 書棚がごとりと揺れ、下半分にある鉄の引き戸が開き、メカクレが這い出してきた。くあぁ、と欠伸をする。

瑠璃ルリ雛菊ヒナギクの話を聞いて思い出した。このフィルムも見ておこう。冊子の最終ページにあった写真のものだ」

 荊凍ケイテは棚からフィルムを一つ引っ張り出して映写機へ取り付け、部屋の灯りを落とした。映写機のつまみを回して、フィルムの再生を始める。カタカタと音を立て、リールが回り出した。真っ暗な部屋の中、スクリーンが白く光る。


『一日目』と筆文字が映し出された。


 荊凍ケイテが厚切りのベーコンを挟んだサンドイッチにかじりつく。メカクレはてのひら二十日鼠ハツカネズミもてあそんでいる。

 スクリーンには、椅子に縛り付けられた女が映る。先の女と同様、腹は大きく膨れている。見たところ傷もない。画面が切り替わる。『二日目』、『三日目』――――

『四日目』女の全身が震えている。

『五日目』鼻血を流しだす。

『六日目』目と口からも、血がだらりと流れている。


「ロブランシュ劇症出血熱だ。君も南洋で散々見て、今更説明する必要もないだろうが」

 メカクレは横目でちらりと銀幕を見たが、すぐ手元に視線を戻した。二十日鼠ハツカネズミを尻尾で持ち、ぶら、ぶらりと揺らす。彼の袖口で、逆さ吊りの獲物はむなしく手脚を藻掻もがかせる。ぬるり、袖からミドリが顔を出し、二十日鼠ハツカネズミに噛み付くと同時に胴で締め上げた。

「目、鼻、歯茎、全身の粘膜からの出血……教科書通りの症例だ」


『七日目』胸に二つの大きな血染み。


「思春期以降の女性では乳頭から出血する例は多いが、妊婦はそもそも乳頭が肥大し充血する傾向があるからか、より顕著けんちょだな」


『八日目』下半身の服は血で染まり、裾からしたたった血で床には血溜まりができている。


「妊婦だと子宮からの出血は特に多いな。南洋では妊婦はなかった。それにしても、この血溜まり……何が白い水、l'eau blancheロブランシュだ、これではではないかと、よく言い合ったものだ」

「水が、なんと」

l'eau blancheロブランシュとはリスブラン語で〝白い水〟を意味するんだ。ロブラが発見されたのはロブランシュとうというしまなのだが、その島を流れる、石灰を含む白い川にちなむそうだ」


『九日目』耳と手の指先からも出血。腕には点滴。


「映像が荒いが、耳と、おそらく爪と肉の間から出血している。他の出血熱――黒海こっかい出血熱等では耳や指からの出血は多くない。あっても相当に進行してからだ。それにしても、この点滴は一体なんだ。本当に入っているのか。目的も……苦痛を長引かせようというのか」


『十日目』床の血溜まりに、い肉塊。それは、黒い涙を流しているように見える。


「通常、妊婦がロブラを発症すると自然流産する。胎内で母子感染した上で、だ。この血も、母親のものか胎児自身の血か分からないな」


 荊凍ケイテはサンドイッチの最後の一片を、牛乳で流し込んだ。

「見ていると、やはり南洋を思い出す」

 電燈でんとうを落とした部屋の中、スクリーンからの光が、ぼうっと荊凍ケイテの顔を照らす。

「折角生きて北海道に帰って来れたというのに、またロブラとは。最近は札幌郡での感染報告はほゞ無かったのだ。小樽おたる函館はこだてといった港町みなとまちでは突発的な罹患者が出ているが、みな本州からの渡航者や引揚ひきあげ者たちだ」

 荊凍ケイテの脳裏に、かつて見た場面が浮かぶ。痙攣し、血が出るまで腕に爪を立てる少年。映像は切替わり、うつろな眼と半開きの唇から血を流す女、血池ちいけに沈んだ死体へ怖々と手を伸ばす衛生兵。それから、注射器を持ち震えるラテックスの手袋――これは自分の手だ――

「軍から応援という話になったとき、当然最初は憲兵が、という流れになり、彼らも最初はいさんでいた。だが、このフィルムが出てから弱腰よわごしになって、民間の犯罪取締とりしまりは憲兵の本分ではないだとか言い出した。ロブラ爆弾の再来とでも考えたようだ」

 メカクレは首を傾げた。彼の口の、たらり垂れた桃色の尾が、ちゅるりと呑み込まれていった。

「あゝ……終戦直前、ロブラに罹患りかんした兵士が国会議事堂で自爆した事件があって、処理に当たった憲兵隊から多数の罹患者と死者が出たんだ」

 荊凍ケイテは席を立ち、電燈でんとうけた。銀幕ぎんまくの光は相対的に弱くなる。輪郭が曖昧になった画面では、相変わらず女が血を流していた。

 たしかこのあたりに、などと呟きながら、荊凍ケイテは背後の書棚をあさる。すぐに「これだ」と言い、スクラップ・ブックを開いて机上に置いた。新聞の切り抜きが貼り付けてある。



  白晝はくちう兇行きゃうかう 國會こつかいでロブラ爆彈炸裂ばくだんさくれつ

   昨日正午頃、下院審議中の議事堂に武裝ぶさうした兵士參名さんめい亂入らんにゆうし、の場で手榴だんる自害をはかつた。貳名にめいは即死し壹名いちめいは意識不明の重體じゆうたいである。

   議事堂内は至る所に血肉が飛び散り、阿鼻叫喚の樣相やうさうとなつたが、シンの悲劇の幕開けは、遺書の發見はつけん時であつた。いはく、參名さんめいはロブラに罹患しており、れを知り、兵士の血肉を浴びた議員は恐慌きやうくわうおちいった。當初とうしよ無防備で現場を處理しよりした憲兵や消防も同樣どうやうだつた。

   なほ、遺書は「患者と死體したいが庭まであふれた病院」「灰色の災獸さいじうたるロブラヤマネにおおはれた銀座の街道」「壹家いつか全滅し無人となつた家がなら沖繩おきなわ村ゝむらむら」等をげてロブラにおびやかされる市民生活の窮狀きゆうじやうを訴へ、迅速な戰爭せんさう停止とロブラ對策たいさく徹柢てつていを求める物だつた。

   遺書全文は參面さんめん參照さんせうされたし。………


  ロブラ爆彈ばくだん 生きのこりの犯人死亡

   惡夢あくむのロブラ爆彈ばくだん事件から壹週間いつしゆうかん、ロブラ爆彈ばくだんで生きのこった唯一の犯人が遂に死亡した。恢復かいふく後の動機解明を待望するこゑもあつたが、入院時にはすで會話かいわができるやうな容態やうだいでは無かつたため夲人ほんにんへの聽取ちやうしゆつい實現じつげんせず、手掛かりはのこされた遺書のみとなつた。

   なお、現在の被害狀況じやうきやうとして、下院議員は現在判明の分だけで陌餘名ひやくよめいが罹患しており、現場處理しよりを行つた憲兵隊や消防からも多數たすうの罹患者が出てゐる。識者の談では、ロブラの死亡率をかんがみれば、今後發症はつせう者は更にえ、死者は數拾名すうじゆうめいに登るだらうとの見立てである。

   またなげかはしいことに、これまで報じてきたところであるが、官公署かんかうしよや軍施設を狙つた模倣犯もはうはん複數ふくすう發生はつせいしており、市民の間で厭戰えんせん氣分きぶん最髙潮さひかうちように達した模樣である。

   政府は、先に聯合軍れんがうぐんより提示された降伏文書の受諾を檢討けんたうしていると見られ、の場合、戰鬪行爲せんたうかうゐは即刻中止となり、藍空聯邦らんくうれんぽう解體かいたい、外地では武裝解除ぶさうかいじよ撤頽てつたいが求められ………


  ロブラ爆彈ばくだん 最後の入院議員が

   昨日、衆議院議員のうち最後の入院患者であつた淨吉じようきち氏が死亡した。れまでに議員の死者は首相や閣僚を含めた肆拾玖よんじゆうく名、罹患者は約陌伍拾ひやくごじゆう名となつてゐる。また、事件處理しよりを行つた憲兵に警察・消防、病院關係かんけい者などからも多數たすうの罹患者・死者が出てゐる。

   ただし、病院からロブラ爆彈ばくだんの被害議員が消えたのちも、ロブラ患者自體じたいへず病院にある。屋外で夜を超す患者もゐる中、特別待遇で個室へ入院してゐた議員たちへの批判も多い。

   降伏文書受諾の發表はつぴやうから半月が過ぎ、外地での戰鬪行爲せんたうかうゐ收束しゆうそくに向かつてゐるが、藍空夲土らんくうほんどでは依然ロブラとのたたかひがつづくものと思われる。

   またかねてよりロブラ淸淨せいじやうの地と渾名あだなされる北海道では、鎮台ちんだいたる北部統括軍が、夲州ホンシュウからの船は総て、たとへ暫定首相が乗る船でも撃沈するかまへを崩しておらず、聯合れんがう軍が要求する釧路沖くしろおきでの文書調印を如何いかに成しげるか、臨時内閣でも意向が割れてゐる。

   なほ、西部統括軍も同樣だうやう海上封鎖かいじやうふうさ繼續けいぞくしており、奄美あまみ沖繩おきなわからの船は…………



「憲兵は前線に出る兵科と比べて人死ひとじにが少ない。憲兵史上最大の死者を出したロブラ爆弾の再来と思ったか、あのフィルムを見て弱腰になった。その上、うちの課長が妙に乗り気なのだ。ロブラ対策なら伝染病調査班の仕事だが、民間の殺人事件は管轄外に思われる……」

 荊凍ケイテはここで一息ついて、茶をあおった。

「結局、正式には警察が捜査を続けるが、憲兵も少人数で捜査する。伝染病調査班も医学的観点から資料分析などに協力する、ということになった」

 スクリーンの上で、女はぴくりとも動かなくなっていた。

 しかしまだ温もりが残るであろう身のうちでは、ビールスたちが依然として、宿主の細胞をむしばみながら、自己複製活動にいそしんでいるのであった。

 そしてそれは身体の外側とて同様で、彼女を覆う血模様は、その一筆ひとふで〳〵ごと、いな、点ひとつごとに億兆おくちょうのビールスがひそむ、忌まわしき文様もんよう

 フィルムは終わり、画面は暗転した。

「いっそ瑠璃ルリ雛菊ヒナギクの言う通り、軍の人体実験資料の流出だったら良かったかも知れないな。それなら、確実に憲兵の仕事だ」

「はて」

 荊凍ケイテは立ち上がり、フィルムを交換しはじめた。

「元々はこのフィルムだけが流出したのを、偽装のために他のスナッフ・フィルムも作成して、異常性慾せいよく者の仕業しわざに見せ掛けようとしている、という荒唐無稽な噂がある。話が飛躍し過ぎだし、それなら、此方こちらのフィルムの疑問は解けない」

 次のフィルムが廻り出した。スクリーンが再び白く光り、「社会に仇なす違法妊婦へ罰を」と同じ筆文字を映した。

 場面はすぐ医務室に変わった。

 ベッドに横たわる、腹の膨れた女を横から撮っている。女の患者衣は前がはだけ、手脚はそれぞれベッドの柱に縛り付けられて広げた状態で固定されている。腰の下には台か何かが置かれているようで、腰が高く上がっている。

「この膨らみ具合だと大方、六ヶ月か七ヶ月辺りだろう。服越しでも目立って来る時期だ」

 スクリーンを眺めながら、荊凍ケイテが茶を啜った。

 ペスト医者が画面に現れ、鉄パイプのを女の脚の間に差入れはじめた。服の陰でれたかは見えない。女が激しく身をよじる。ベッドが〝黒く〟染まる――ペスト医者がゆっくり手を進めていくと、女の腹が一箇所、細く膨らんだ。女は一層強く身悶みもだえて頭を振る。

此処ここだ」荊凍ケイテがスクリーンを指差した。

金槌かなづちで打ち込んだりすれば別だが、こうも軽々と、先のにぶいパイプで人間の内蔵を貫けるのは違和感がある」

 皮膚はゴムのように伸び続け、パイプの形がわかるほど。そのうち伸び切ったのか、花開く様に皮は裂け、血と軟組織をまとった鉄パイプが顔を出した。

「それに、今見た通り、人間の皮膚というのは存外弾力に富んでいて、早々そうそうには千切れない。例えば、戦場でそれこそ手足が吹き飛ぶような大怪我をしても、辛うじて皮膚一枚で繋がっているようなことは多い。それをまるで、刺繍針ししゅうばりで布を刺すように――」

 ペスト医者が立ち去り、スクリーンから消えた。

「それほどかたいことかのう」

「たしかに君からすれば簡単かもしれないが。とにかく、喉を握り潰された警官にせよ、今のフィルムにせよ、真っ当な人間の仕業とは思われない。万が一、軍の人体実験としても、まさか怪力の人造人間を作っていた訳でもあるまいし」

 ペスト医者はすぐに画面へ戻って来た。

 手に持つ火挟ひばさみの先に、熱されて白く光る鉄棒を掴んでおり、それを女の腹から飛び出した鉄パイプに差入れた。女の身体が一際ひときわ激しく跳ねた。白煙が上がり、腹と鉄パイプの境目を縁取ふちどるように、組織が黒く変色していく。

 鉄パイプの先端では、鉄棒に押されて、内部に詰まっていた血や軟組織があふれ出していた。それらの一部はパイプを伝って女の腹に流れ落ち、あるいは腹に辿り着くのを待たず、パイプの外周に焦げ付くのだった。肉の焼ける匂いが、スクリーンから漂うようだった。

 また燃焼反応は、外から見えずとも、皮膚の下で同時進行しているはずだった。筋肉は高温で一気に収縮し、羊水は煮立ち、串刺しの胎子はらこは柔らかな肉をうちから熱される。

「本当は、こんなことをしている余裕はないのだがな。営内えいないにおける衛生管理計画の策定に、ロブラ血清けっせい療法の研究。仕事は山積みだ。その上、明日から小樽おたる引揚ひきあげ船団せんだんが入る予定なのだ。伝染病調査班だけではなく、衛生課全体が検疫けんえきの準備でキリキリ舞いと来た」

 話す間に鉄棒は進み、から顔を出していた。女は激しく痙攣けいれんし、ベッドごと揺れている。視覚で騒々しくとも無音のサイレント・フィルム、実際に響くのはリールが廻るカタカタという音だった。

 しゅる、か細い断末魔と共に、フィルムの終端がリールに巻き取られて行った。荊凍ケイテがフィルムを巻き戻し、映写機を片付ける。換気扇の風音かざおとがやたら目立つ室内で、ぼそぼそと言う。

「押収したスナッフ・フィルムは他にもあるが、どれも似たり寄ったりで、もう十分だろう」

 メカクレがくぁ、と欠伸あくびをし、ミドリが続いた。



*****



「こら。食べ物じゃないんだ」

 荊凍ケイテがミドリの頭を押し退ける。

「メカクレもめろ、そんな目で見るな」

 メカクレの視線の先、荊凍ケイテの胸にはモモンガが張り付いている。灰青色かいせいしょくの毛並み。捕食者から注がれる視線に気付いた小動物は、びくりと身を震わせ、荊凍ケイテの胸ポケットへするりとすべり込んだ。

「あゝ、隠れてしまったではないか」

 二人は、カフェ・テーブルを挟んで向かい合っている。皿の上には食べさしの巻き寿司。室内には天蓋てんがい付きのベッドやウォールナットの書棚、両開きの洋箪笥ワードローブなどが配置されていた。

「大人にして、其方そちらを喰っていろ」

 荊凍ケイテ胡座あぐらで座るメカクレの膝を指した。二十日鼠ハツカネズミうごめ虫籠むしかごっている。

如何どう違うか判らぬ」

「大違いだ。其方そちらは実験用の二十日鼠ハツカネズミ。北大医学部の研究室からも貰ってきたんだ。ザフィアはソウギョクモモンガで、ぼくのペットだ。ほら、こんなに可愛い」

 荊凍ケイテがポケットを指でつつくと、ザフィアが顔だけ覗かせた。夜行性の哺乳類らしい大きな黒い瞳が目をく。荊凍ケイテが指で首元を撫でると、それに応えて指を舐める。

は触るなと、南洋ではうるさく云っておったのに」

「当然だ。ロブランシュ・ヤマネはロブラを媒介する。君は感染しないかもしれないが、ぼくに伝染うつると大事おおごとだ。と云っても、北海道にはいないはずだが」

「たしかに、見ぬ」

「ロブランシュ・ヤマネは寒さに弱いからな。その点ソウギョクモモンガの原産地は北極圏にも近い高緯度帯で、寒さに強い。その分、暑さには弱いが、北海道で飼うには問題ない。やはり大違いではないか」

 メカクレは首を傾げ、モモンガと二十日鼠を見比べた。ミドリも袖から顔だけ出して同じ仕草をした。ザフィアは再びポケットに潜り込み、荊凍ケイテは小さく溜息をついた。

「とは云え、可愛らしいのと、人に良くなつく点が似ているのは認める。ロブランシュ・ヤマネも発見当初は、柔らかな灰褐色の毛並み、てのひらに収まる小さなからだふさのような尻尾を振る様子で、無聊ぶりょうの兵士たちを魅了した」

 そう語った荊凍ケイテを尻目に、蛇たちは虫籠むしかご二十日鼠ハツカネズミを取り出してみ始めた。

 荊凍ケイテは、とんとんと指で胸ポケットを叩いた。ザフィアが再び顔だけ出し、キョロキョロと周囲を見回す。蛇たちの興味が己に向いていないことを確認すると、ポケットから這い出し、荊凍ケイテの首元まで登ってきた。

「ふゝ、くすぐったいな」

 ザフィアが荊凍ケイテの首筋に身体を擦り付ける。体色が若干青みがかっている以外は、北海道固有亜種のエゾモモンガとほぼ同様の外見だった。

「危ないから、もうお家にお帰り」

 荊凍ケイテがケージの開口部を指で叩くと、ザフィアは飛膜ひまくを広げて肩から飛び降り、滑空し、自らケージの中にい戻った。ザフィアが巣箱の中へ潜り込むのを見届けたのち荊凍ケイテがケージの扉を閉めた。

「とにかく、この後は札幌警察署の刑事とやらが、スナッフ・フィルムの調査報告書を取りに来るんだ。だから、ぼくは一度司令部に戻るが、君たちは此処ここで待っていてくれ。絶対にザフィアを食べるなよ」

 荊凍ケイテは巻き寿司の残りを茶で流し込み、口元を拭うと、鏡台を覗き込んで髪を直しはじめた。

 背の高い三面鏡に整った横顔が映る。ツンと尖った鼻先に、くるりと山形に反り返る上唇と、艶のある薄い下唇。歯に海苔が残っていないことの確認もおこたらない。歯列は弓形ゆみがたえがき、真珠のように白く輝いている。

 軍帽がアッシュ・ブロンドの上に載ったところで、黒電話が鳴った。

 荊凍ケイテは身支度の手を止め、遠くで鳴るベルの音に耳を傾ける。そのうちにベルが止み、ややあって、扉をノックする音。

「お嬢様、課長さんからお電話が……その、薄野すすきのの地下人形館で模倣犯が出ましたそうで……」

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