弐 違法妊婦たち

 鉄製の書棚が並ぶ、電燈でんとうを消した部屋。窓はなく、通風孔の中で換気扇が音を立てて回っているが、室内は湿った古い紙の匂いで満ちていた。

 白子アルビノ二十日鼠ハツカネズミが、キィキィと鳴き声を上げながら、メカクレの手の中で藻掻もがいている。握る手が締まると、ピキィ、一際ひときわ高く鳴きながら首を真上に仰け反らせ、そのまま動かなくなった。

 カタカタと音を立てて映写機が回り出した。かすかな機械油の匂いも漂い始める。スクリーンの上、白一面に「社会にあだなす違法妊婦へ罰を」と黒い筆文字が映し出された。

 メカクレは顔を真上に向けて二十日鼠ハツカネズミを口へ放り込むと、あごを上下に動かしだした。スクリーンが放つ光で、喉の輪郭が変化する様はくっきり見える。まず喉の上方がぼこりと膨らみ、口や喉の蠕動ぜんどうに合わせ、膨らみは徐々に下がっていく。彼の頭は小さく、上を向けば殆ど首と一体に見えた。

 スクリーンから筆文字が消え、画面はベッドや薬棚がある医務室のような場所に変わった。カメラのすぐ前に、文字が書かれた紙を出していたようだった。画面中央では、長襦袢ながじゅばん型の患者衣に手拭いで目隠しをされた女が、椅子へ縛り付けられている。腹は大きく膨らみ、分娩台ぶんべんだいに乗っていても違和感がない程だったが、彼女はささくれだった木製の椅子に座っているのだった。

 かたららには〝嘴〟くちばし付きのペスト医師マスクで顔を隠した白衣の者が立っている。細い身体は、小柄な男か大柄な女か、判然としない。

「ところで先程から、違法妊婦とは何かの。妊婦に違法も違反もなかろうに」

 胡座あぐらで椅子に座るメカクレが、簡素な机を挟んだ向かいに座る荊凍ケイテへ問うた。

「あゝ、知らなかったか。出産が許可制になってから随分経つのだが」


 ペスト医者は一度画角の外へ出た。が、すぐに長いゴム手袋をした腕だけが画面へ舞い戻った。手には長い坩堝挟るつぼばさみ。先端から下がる三角フラスコは透明の液体で満ち、煙を上げている。

 液体が女の腹に垂らされた。激しく白煙はくえんが上がり、服と皮膚が溶けていく。女の身体は大きく跳ね、顔はる。口を大きく動かしており、フィルムはサイレントの8mmミリだったが、女が激しく叫んでいると見て取れた。

「……硫酸にしては反応が激烈だ。熱した超酸ちょうさんたぐい……たとえば硫酸と過酸化水素水の混合物、所謂いわゆるピラニア腐蝕液ふしょくえきか何か……」スクリーンを眺めながら、荊凍ケイテが独り言のように呟いた。

 液体は注がれ続け、膨れた腹の頂上から、黒く炭化した箇所が溶岩のように広がっていく。噴煙ふんえんとでも形容すべき煙は止めどなく、じゅわ、じゅわり、と肉の焼ける音が聞こえてくるかのようだった。

「……話を戻そう。凄惨な児童虐待事件が相次いだことがあり、それ以降だ。特に札幌の鬼人夫婦と呼ばれた事件……妻は阿片嗜癖アヘンしへき症で窃盗と嬰児エイジ殺しの前科、夫は強盗と幼児に対する強姦殺人の前科持ちで――」

 ペスト医者は、フラスコを取替えながら、繰り返し女の腹へ酸を注いでいる。肉が露出し、下の胎児らしきものが朧気おぼろげに姿を現した。

「ある日、夫がやっと歯の生え揃った娘を暴行の上、強姦した。たしか、頭蓋骨トウガイコツ陥没に子宮穿孔センコウ、股関節脱臼……うちの病院で解剖したんだ。古いカルテを見たことがある。夫は事が済んだら酒を呑みに外出し、妻は娘が泣き叫んでうるさいというので阿片アヘンを、自分が普段使う量の倍だったか吸わせて……死因が脳挫傷のうざしょう、阿片アヘンオピオイドの呼吸抑制かは結論が出なかった」

 スクリーンの中、酸を浴び続けた女の腹からは皮下組織が殆ど消え、表面のただれた胎児が全体像をあらわしていた。ペスト医者は次に、のこを女の首に添えた。水平に刃が動きはじめると、血飛沫ちしぶきが上がり、女は目隠しの顔を激しく左右に振る。刃は肉に埋まっていき、血の勢いは増し、すぐに女は動かなくなった。

「人の法はころころ変わるのう」

「ぼくが生まれたときにはこうだったから、そうは感じないが」

 荊凍ケイテは手に持つ太巻き寿司へかじり付いた。その勢いで、逆のからつやのあるマグロが飛び出した。

 スクリーンはのこくペスト医者の後頭部を映している。マスクのベルトでたわむ髪は淡い灰色。鋸は首の半分ほどまで進んだところで足踏みをしている。頚椎ケイツイは手強いようだった。

 荊凍ケイテは寿司の二口目。ぽり、とかんぴょうの切れる小気味良い音が鳴った。女の目隠しをした顔を指して言う。

「全員ではないが、顔が良く映っていた何人かは身元が割れていて、その全員が未届けか、もしくは届出を却下され中絶ちゅうぜつ命令が出ていた。身元不明の者もおそらく同様だろうというのが警察の見立てだ」

 ペスト医者はようやく首を切り落とし終えた。首は傍らの台の上、金属製のバットに載せた。次いで火挟ひばさみのようなもので胎児をはらから引きり出し、背を丸めた形のまま妊婦の首の上に置くと、大型のナイフを上から突き刺し、首に固定した。再びバットの生首に手を伸ばし、顔がカメラへ向くよう両側から支えて掲げると、はらの空洞にじ込んだ。

 そこでフィルムは終わり、部屋は真っ暗になった。

「今のフィルムは、冊子の最初の写真のものだ」

 写真はスクリーンに投影したものを撮ったもののため画像が荒く、裂かれたようにも見えた腹は、酸で溶かされていたのであった。

 荊凍ケイテは席を立って電燈でんとうを点けると、机上の映写機を操作してフィルムを元のリールへ巻き取らせ始めた。はずみで机の上の封筒が床に落ちた。封筒の中身、油紙あぶらがみの薄い包みがはみ出している。

「おっと」

「はて。これは何ぞ」

「警官の殺害現場から回収された動物の毛だ。監察医は犬だと云うのだが、念のため、北大の獣医学部でも見てもらおうと思ってな。まさかヒグマでもないだろうが、狐か何か他の獣かもしれない」

 荊凍ケイテが包みを開いた。油紙の上に灰褐色の毛らしきものが数本散らばっている。メカクレが数度舌を出し入れし、言う。

「犬ではない。狼であるぞ」

「何を云う。エゾオオカミはとっくに絶滅した」

「人の銃や毒餌どくえで減りはすれど、彼らは賢い。身をひた隠し、森の奥で生きておる」

「まさか……いや、待てよ。たしか先週、狼に襲われたと云う妊婦がいたな」

 荊凍ケイテが早口でまくし立てだす。

覚醒かくせいアミン嗜癖しへき症で、民家に侵入して暴れたため、逮捕された。その後、妊娠の経過がかんばしくなく勾留執行停止になり、うちに入院している。狼に襲われたと云うのに怪我もないし、幻覚だろうと誰も信じていなかったが、何やら真実味を帯びてきた」

 荊凍ケイテは懐から懐中時計を取り出して開いた。

「面会時間は過ぎているが、消灯までは時間がある」

 荊凍ケイテが慌ただしく身支度をして部屋から飛び出すと、瑠璃紺るりこんの長髪をたなびかせる若い女性兵士とぶつかった。兵士が金の眼をぱちくりさせて言う。

「あれ、中尉。もうお帰りでしょうか」

「すまない、瑠璃ルリ雛菊ヒナギク。ちょっと外出する用が出来てね。そのまゝ直帰する」

 荊凍ケイテは兵士の肩に手を置き、耳朶ジダにほとんど触れそうなほど口を近付けささやいた。

「明日は朝から此処こここもるよ」

 兵士はごくりと生唾なまつばを呑んだ。



*****



 薄暗い廊下。天井の白熱球はチカチカ明滅するものと切れたものが半々といったところだった。壁の漆喰しっくいは至るところがひび割れている。両側には、磨り硝子の小窓付きの扉が並んでいるが、ほとんどの部屋は灯りがついていなかった。荊凍ケイテが「この病棟はもうぐ取り壊し予定なんだ」と呟く。

 荊凍ケイテは軍服ではなく、白いシャツに紺のタイを締めて、その上から白衣を羽織っていた。長い脚を大きく振りながら歩く。板張りの床が歩みに合わせて軋む。彼女は大抵の男より上背うわぜいがあり、四肢はすらりと長かった。半歩遅れて相変わらず着流しのメカクレが続く。彼も上背はあるが、猫背で、また裸足のため、頭の位置は荊凍ケイテとほとんど同じだった。

「スリッパも履けないか。患者が怪しんで口をつぐむと困る」

「あれはうまく樹に登れぬ」

いずれにせよ、病院内に樹はないが」

 そうこう話すうち、二人は廊下の端まで来た。荊凍ケイテが扉をノックし、中に入る。部屋は北向きで、中央に石炭ストウブが置かれているものの、どこか底冷えがした。窓際のベッドに大きく腹の膨れた女が寝ている。六人部屋だが他に患者はない。荊凍ケイテが歩み寄り、女の顔を見下ろす。赤茶けた蓬髪ほうはつが肩を覆い、かさついた頬、半開きの眼はうつろ。

「やあ。苹果りんごさんだね」

 はあ、と女が生気のない声で返した。荊凍ケイテが手にしたカルテに目を走らせる――まだ前回投与したフェノバールの鎮静効果が続いているはずだった。

「ぼくは荊凍ケイテと云う。字は、いばらに凍る。女性科長、鬼燈ほおずき先生の姪だ。専門が公衆衛生なので、普段は診察に出ていないのだが……あ、彼はぼくの助手だ」

 荊凍ケイテがメカクレを目で指した。彼は冷えた床が気に喰わないのか、ベッド脇の丸椅子に胡座あぐらで収まっていた。実際、床は氷のように冷たかった。

「犬に襲われた患者がいると聞いてね。それで、狂犬病にかかったりしていないか心配になったのだ」

 それを聞いた女はにわかに目を見開き、ハッキリとした口調で話しだした。

「あゝ、先生、違うのです。あれは犬では御座いません。狼に襲われたのです」

「狼だって」

 荊凍ケイテは身を乗り出し、わざとらしく驚いて見せた。

「はい。誰も信じませんが、あれはたしかに狼でした。だって、あれ程大きな犬は見たことが御座いません!それに、牙も恐ろしく大きくて――」

「では、詳しく教えてくれるかな」

「えゝ。先週のる晩、平岸霊苑ひらぎしれいえんでのことです――」



*****



 雪深い墓地。

 林を背にした斜面の墓石に、苹果りんごが腰掛けている。平岸霊苑は高台の上にあり、地形は起伏に富んでいた。丘のふもとは農地が広がり、民家も点在しているが、日没後に先祖をもうでる者はいなかった。

 苹果りんごが慌ただしく手を動かし、注射の準備をする。林で薬を受け取ってからまだ数分だが、今の彼女には万時間と等しかった。ゴムチューブの駆血帯くけつたいで上腕をきつく縛り、皮膚に浮き上がらせた血管へ針を刺した。そっとプランジャーを引くと、シリンジ内の水溶液に血が流れ込み、幾重の赤い流線が広がった――うちに毒を秘めた曼珠沙華まんじゅしゃげ――プランジャーを押し込むと一瞬で花は崩れ、水溶液と混ざり、血管へ流れ込んでいった。

 苹果りんごの後頭部が甘くしびれ、手足が凍りつく。氷点下の外気が指先を撫でるのすらこころよい。心臓から血が押し出されると、震える指先は空気の輪郭を感じ取り、血が引く瞬間は風が皮膚の下に入り込み直接神経をぜる。一つ脈打つごと、目まぐるしく繰り返す。身体と外界の境界が溶けては凍り、また溶け――――

 雪上の楼閣ろうかくは、獣のうなり声で崩された。

 林から狼が飛び出し、苹果りんごに飛び掛かった。苹果りんごは悲鳴を上げて逃げ出したが、すぐ狼に追い付かれ、雪の上へ押し倒された。狼の前足が苹果りんごの背を押さえ込む。彼女の細い手脚が暴れるが、背に乗る巨躯きょくはびくともしない。

 背の高い墓石の影から、小柄な男が現れた。ガーゼマスクと長い前髪で顔は隠され、表情はうかがえない。銀髪の隙間で黄金こがねの眼が光る。

 男は苹果りんごの傍らにかがみ込むと、懐から縄を取り出して彼女の脚に掛けた。苹果りんごが再び大きく暴れる。すると、彼女は腹の下の雪ごといった。一瞬遅れて狼が走り出したが、狼より早く彼女は滑り、霊苑れいえんの林を抜けて飛び出し、道路に転がり落ちた。すぐに立ち上がり、髪を振り乱して走り、道路を渡る。服は雪にまみれ、袖をまくり上げた上腕には駆血帯を巻いたまま。車の警笛けいてきが鳴ったが、無視して走り抜ける。道路を越えてすぐ、一番近くの民家に飛び込み、叫んだ。


「助けて!狼よ!狼に襲われたの!」



*****



「分かった。では、噛まれたり引っ掻かれたりはしていないんだね」

「はい」

「それなら狂犬病の心配は無いだろう。血清もたなくて良さそうだ。狼か……そうだな、もしかすると、だ野山には生き残りが潜んでいるのかも知れない。でも、病院の中までは這入はいって来ないから安心したまえ。あまり心配し過ぎるのも、腹の子に良くないよ」

「そう……ですよね。この子のためにも。ねえ、先生、お腹を撫でて下さらない。先刻さっきからズットお腹を蹴っていて、元気な子なのです。だのに私が今こんな状況で、撫でてあげられませんので」

 こんな状況――苹果りんごは拘束衣を着ており、両手は胸の下で組まれて動かせないようになっていた。

 荊凍ケイテ苹果りんごの腹を撫でて言う。

「あゝ、元気そうだ」

「ねえ、其方そちらの、えゝと……助手さんも」

 荊凍ケイテがメカクレに目配せした。メカクレも苹果りんごに近づき、そっと腹を撫でる。

「ほら、また蹴った。元気な子でしょう」

 メカクレが横目で荊凍ケイテを見ると、彼女は小さく頷いた。

「うむ。元気そうな子だの」と相変わらずの抑揚がない声。

「あゝ、先生。こんな元気な子なのに、私、この子を自分の手で抱けないのでしょうか」

「すまないが女性科は専門外なので、養育許可が降りていない場合の流れを全て覚えてはいないんだ。救児院か養子縁組先へ行く前に、子と触れ合う機会があるかは、担当の先生に訊ねてくれるかな」

「あゝ、いずれにしても、何処どこかへ連れて行かれてしまうのですね。先生、なんとかなりませんでしょうか。自分の子をこの手で育てたいだけなのに、なんと無情な法でしょう」

 苹果りんごは、はらはらと涙を流しだした。

「ぼくは医者だからな。法を変えたければ相談相手は政治家が適当だろう。新聞やパンフレットを発行するのもいかも知れない。医者として出来る助言は、そうだな――此処ここも含め、保健省の指定病院では公費で避妊具の配布や避妊注射、避妊リングの装着処置などを行っている。精管結紮手術も同様だ。中絶する場合も、指定病院なら公費でまかなわれる」

 返事はなく、苹果りんごすすり泣きで返した。手が動かせぬがため、涙は拭われることもなく頬を流れ、シーツに染みを作り続けていた。

「適正妊娠の手引はもう受け取ったかな。あとで女性科の者に何部か届けさせよう。では、失礼するよ」



*****



 雪の林にたたずむ、外壁にツタが絡む木造の二階建て。あとから壁をり抜いて作ったような、ひさしもない簡素な扉が一つ。

 ぎい、と耳障りな音を立てて扉が開き、軍服に戻った荊凍ケイテが現れた。次いで頭を出したメカクレは、肩を震わせて「はよう」と。

「あゝ、早く車へ」

 扉の前には狭い私道があり、カブトムシを思わせる、丸みを帯びた流線型の車が停めてあった。鼻先に張り出したバンパーは凹んでいる。メカクレがするりと助手席に滑り込んだ。荊凍ケイテも運転席の扉に手を掛けたが、道の先から近付いてくる人影を見咎みとがめると、手を止めた。円錐形えんすいけい剪定せんていされたトドマツが並ぶ道の先を、じっと見る。

 遠くの瓦斯燈ガスとうが作る円錐形の影の下を、白い口髭を蓄えた壮年の兵士が歩いている。白地に赤字の憲兵腕章を巻き、襟の階級章は曹長であると示していた。長身痩躯そうくで、通った鼻筋の根元には、軍帽の陰で鋭く光るあおい眼。曹長から一歩遅れて若い兵士が一人、こちらは上等兵で、憲兵隊においては一番下の階級だった。曹長が荊凍ケイテめつけて言う。

「勤務時間中に祖母の手伝いか。良い御身分だな」

「例の件の調査だ。入院中の妊婦に話を聞いていた。其方そちらこそ仕事中に病院とは、臆病おくびょう風邪かぜで熱でも出たか」

「用があるのは貴様の祖母だ。此方こちらも暇ではなくてな。怪しげな事件にかかずらってばかりという訳にはいかない」

 曹長は苦々しい顔で言い捨てると、荊凍ケイテたちが元来た扉の中へ入っていった。上等兵は、透き通る栗色の毛先を揺らして、車の方を何度も振り返り、助手席を盗み見ていた。しかし「岬浜みさきはま、早く行くぞ」上官の声で前を向き、そそくさと後に続いた。


 憲兵二人が扉の向こうへ消えると、荊凍ケイテは車へ乗り込み発進させた。病院の裏門を抜け、夜道を走る。フロント・ウィンドウの中、瓦斯燈ガスとうとヘッドライトに照らされた雪が橙に浮かび上がり、光の当たらぬ陰はあおい。

 ハンドルを操りながら、独り言のように荊凍ケイテが言う。

「もちろん、彼女の幻覚という可能性もある。しかし覚醒かくせいアミン類の幻覚は〝幻視〟より〝幻聴〟が多い。幻視の場合も虫や小動物が多く、巨大な獣は典型的ではないな……妄想から野犬を狼と思い込んだにしても、男の身体的特徴が妙に一致している……」

「のう、ケエテ。先程の腹の子だが……」

 助手席から声を掛けたメカクレはそこで言葉を切り、運転席をちらりと見た。

「あゝ。覚醒アミンの影響だろうが、カルテによると今朝けさから心臓が動いていない。しかしそれを言うと暴れて手が付けられないらしい。明日、手術予定だ」

 すぐに、向かう先に洋館が現れた。切妻きりづま屋根に下見板張したみいたばりで、張り出した玄関ポーチが目をく。鋳鉄いてつの柵で囲われた敷地には、背の高いトドマツや、桂の若木が並び、またむしろで冬囲いをした灌木かんぼくもあちらこちらに植わる。隅には硝子ガラスの温室も備えている。

 車は門を抜け、敷地の隅に停まった。二人が車から降り、玄関の扉を開けると、かすりの着物を着た若い女が出迎えた。

「お帰りなさいませ。あら、今日はお客様がいらっしゃるのですね。では応接間に………」

 女の視線はメカクレの足元へ。相変わらずの素足である。

「いや、ぼくの部屋で話すから大丈夫だ。ぐ帰るから茶もらない。それより、頼んでいたことだが」

「は、はい……お部屋の掃除はしっかりと。綺麗にしておきました」



*****



 円錐形の影々が遠い瓦斯燈ガスとうを遮り、ちらつく雪の輪郭もおぼろ


 再び扉が開き、憲兵曹長が上等兵を伴って現れた。道は、踏み固められた根雪の上に薄く新雪が積もっており、二人は軍靴の足跡を残しながら歩く。

「しかし、あの様に胡乱うろんなモノの出入りを許しているとは。初の女孫が可愛いか、母親が病弱なのを憐れんだのか知らぬが、奴も丸くなったものだ」

「と申されますと昔は……」

 上等兵が言い、曹長が語り出す。

「あゝ。才色兼備の呼び声が高かったが、デイト出来るのは腕の立つ医者のみ。しかも剣道五段の奴から一本取らねばならぬと来た。何人も奴の竹刀しないで叩きのめされたとか。例外はノイ・ハイマットラントNHL人の外科医、あの娘の祖父くらいだ」

「左様でしたか。灘舟タンシュウ曹長は理事長先生を古くからご存知なのですね」

「前任者からの受け売りだがな。しかし、俺自身も初めてあの女を見たとき、孫がいるとは思えぬはだ色艶いろつや、これは如何いか外法げほうたもつものかといぶかしんだものだ」

「はあ……」

「とにかく、そうして選び抜いた文武両道の医者三人を夫とし、夕焼ゆうやけ病院の勢いは増すばかり、というわけだ」

「しかし何にせよ、青蛇あおへびとは中々に好ましい」

 上等兵は満面の笑みで言った。眼を大きく開いたままの、独特な笑い顔。くっきりとした輪郭に縁取られた薄茶の瞳が、少年のような小さい顔の中で存在感を放つ。

「たしかに貴様は」――――


 あはは、ふふ。あぁ、ははっ。


 曹長の言葉をさえぎって女の笑い声が響いた。

 二人が振り返り見上げると、二階の窓、木格子の間から女の腕が伸びていた。黒髪のまとわる生白い腕が、手招きするかのように揺れる。

 すぐにバタバタと足音がして、白衣の腕が女の手を掴んで引き戻した。それから窓の奥では何やら物音と笑い声、しかし次第に止んだ。

「もしや、あれが先程、理事長先生とのお話に出てきた……」

「あゝ、戦争神経症の元軍属だ。ああいった厄介な手合いを引き取ってもらえるのは有り難いが、その代償が我儘わがままな孫の相手であればまた面倒な……」

 曹長の言葉のあと、辺りは再び静まり、きゅうきゅうと雪を踏む音だけが響いた。

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