弐 違法妊婦たち
鉄製の書棚が並ぶ、
カタカタと音を立てて映写機が回り出した。
メカクレは顔を真上に向けて
スクリーンから筆文字が消え、画面はベッドや薬棚がある医務室のような場所に変わった。カメラのすぐ前に、文字が書かれた紙を出していたようだった。画面中央では、
「ところで先程から、違法妊婦とは何かの。妊婦に違法も違反もなかろうに」
「あゝ、知らなかったか。出産が許可制になってから随分経つのだが」
ペスト医者は一度画角の外へ出た。が、すぐに長いゴム手袋をした腕だけが画面へ舞い戻った。手には長い
液体が女の腹に垂らされた。激しく
「……硫酸にしては反応が激烈だ。熱した
液体は注がれ続け、膨れた腹の頂上から、黒く炭化した箇所が溶岩のように広がっていく。
「……話を戻そう。凄惨な児童虐待事件が相次いだことがあり、それ以降だ。特に札幌の鬼人夫婦と呼ばれた事件……妻は
ペスト医者は、フラスコを取替えながら、繰り返し女の腹へ酸を注いでいる。肉が露出し、下の胎児らしきものが
「ある日、夫がやっと歯の生え揃った娘を暴行の上、強姦した。たしか、
スクリーンの中、酸を浴び続けた女の腹からは皮下組織が殆ど消え、表面の
「人の法はころころ変わるのう」
「ぼくが生まれたときにはこうだったから、そうは感じないが」
スクリーンは
「全員ではないが、顔が良く映っていた何人かは身元が割れていて、その全員が未届けか、もしくは届出を却下され
ペスト医者は
そこでフィルムは終わり、部屋は真っ暗になった。
「今のフィルムは、冊子の最初の写真のものだ」
写真はスクリーンに投影したものを撮ったもののため画像が荒く、裂かれたようにも見えた腹は、酸で溶かされていたのであった。
「おっと」
「はて。これは何ぞ」
「警官の殺害現場から回収された動物の毛だ。監察医は犬だと云うのだが、念の
「犬ではない。狼であるぞ」
「何を云う。エゾオオカミはとっくに絶滅した」
「人の銃や
「まさか……
「
「面会時間は過ぎているが、消灯までは時間がある」
「あれ、中尉。もうお帰りでしょうか」
「すまない、
「明日は朝から一人で
兵士はごくりと
*****
薄暗い廊下。天井の白熱球はチカチカ明滅するものと切れたものが半々といったところだった。壁の
「スリッパも履けないか。患者が怪しんで口を
「あれは
「
そうこう話すうち、二人は廊下の端まで来た。
「やあ。
はあ、と女が生気のない声で返した。
「ぼくは
「犬に襲われた患者がいると聞いてね。それで、狂犬病に
それを聞いた女は
「あゝ、先生、違うのです。あれは犬では御座いません。狼に襲われたのです」
「狼だって」
「はい。誰も信じませんが、あれはたしかに狼でした。だって、あれ程大きな犬は見たことが御座いません!それに、牙も恐ろしく大きくて――」
「では、詳しく教えてくれるかな」
「えゝ。先週の
*****
雪深い墓地。
林を背にした斜面の墓石に、
雪上の
林から狼が飛び出し、
背の高い墓石の影から、小柄な男が現れた。ガーゼマスクと長い前髪で顔は隠され、表情は
男は
「助けて!狼よ!狼に襲われたの!」
*****
「分かった。では、噛まれたり引っ掻かれたりはしていないんだね」
「はい」
「それなら狂犬病の心配は無いだろう。血清も
「そう……ですよね。この子の
こんな状況――
「あゝ、元気そうだ」
「ねえ、
「ほら、また蹴った。元気な子でしょう」
メカクレが横目で
「うむ。元気そうな子だの」と相変わらずの抑揚がない声。
「あゝ、先生。こんな元気な子なのに、私、この子を自分の手で抱けないのでしょうか」
「すまないが女性科は専門外なので、養育許可が降りていない場合の流れを全て覚えてはいないんだ。救児院か養子縁組先へ行く前に、子と触れ合う機会があるかは、担当の先生に訊ねてくれるかな」
「あゝ、
「ぼくは医者だからな。法を変えたければ相談相手は政治家が適当だろう。新聞やパンフレットを発行するのも
返事はなく、
「適正妊娠の手引はもう受け取ったかな。あとで女性科の者に何部か届けさせよう。では、失礼するよ」
*****
雪の林に
ぎい、と耳障りな音を立てて扉が開き、軍服に戻った
「あゝ、早く車へ」
扉の前には狭い私道があり、カブトムシを思わせる、丸みを帯びた流線型の車が停めてあった。鼻先に張り出したバンパーは凹んでいる。メカクレがするりと助手席に滑り込んだ。
遠くの
「勤務時間中に祖母の手伝いか。良い御身分だな」
「例の件の調査だ。入院中の妊婦に話を聞いていた。
「用があるのは貴様の祖母だ。
曹長は苦々しい顔で言い捨てると、
憲兵二人が扉の向こうへ消えると、
ハンドルを操りながら、独り言のように
「もちろん、彼女の幻覚という可能性もある。しかし
「のう、ケエテ。先程の腹の子だが……」
助手席から声を掛けたメカクレはそこで言葉を切り、運転席をちらりと見た。
「あゝ。覚醒アミンの影響だろうが、カルテによると
すぐに、向かう先に洋館が現れた。
車は門を抜け、敷地の隅に停まった。二人が車から降り、玄関の扉を開けると、
「お帰りなさいませ。あら、今日はお客様がいらっしゃるのですね。では応接間に………」
女の視線はメカクレの足元へ。相変わらずの素足である。
「いや、ぼくの部屋で話すから大丈夫だ。
「は、はい……お部屋の掃除はしっかりと。天蓋の上まで綺麗にしておきました」
*****
円錐形の影々が遠い
再び扉が開き、憲兵曹長が上等兵を伴って現れた。道は、踏み固められた根雪の上に薄く新雪が積もっており、二人は軍靴の足跡を残しながら歩く。
「しかし、あの様に
「と申されますと昔は……」
上等兵が言い、曹長が語り出す。
「あゝ。才色兼備の呼び声が高かったが、デイト出来るのは腕の立つ医者のみ。しかも剣道五段の奴から一本取らねばならぬと来た。何人も奴の
「左様でしたか。
「前任者からの受け売りだがな。しかし、俺自身も初めてあの女を見たとき、孫がいるとは思えぬ
「はあ……」
「とにかく、そうして選び抜いた文武両道の医者三人を夫とし、
「しかし何にせよ、
上等兵は満面の笑みで言った。眼を大きく開いたままの、独特な笑い顔。くっきりとした輪郭に縁取られた薄茶の瞳が、少年のような小さい顔の中で存在感を放つ。
「たしかに貴様は」――――
あはは、ふふ。あぁ、ははっ。
曹長の言葉を
二人が振り返り見上げると、二階の窓、木格子の間から女の腕が伸びていた。黒髪の
すぐにバタバタと足音がして、白衣の腕が女の手を掴んで引き戻した。それから窓の奥では何やら物音と笑い声、しかし次第に止んだ。
「もしや、あれが先程、理事長先生とのお話に出てきた……」
「あゝ、戦争神経症の元軍属だ。ああいった厄介な手合いを引き取ってもらえるのは有り難いが、その代償が
曹長の言葉のあと、辺りは再び静まり、きゅうきゅうと雪を踏む音だけが響いた。
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